【特集コラム】古きよき長屋のライフスタイル|豊かな長屋の暮らしを考える

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あなたは今、どんな住居でどんな暮らしをしていますか?
一軒家・マンション・アパート・学生寮・はたまた最近はシェアハウスやルームシェアなどの暮らし方も一般的になり、暮らし方が多様になってきたのではないでしょうか。また、家族・隣人・ご近所さんとの付き合い方も地域や家庭によって様々でしょう。
日々の暮らしの充実には良い住宅環境が欠かせませんね。今みなさんがご覧のHP「未来の住まい方会議」でもこれまで、多拠点居住・スモールハウス・モバイルハウスなど様々な住まいでの暮らし方を紹介してきました。

今回スタートする特集では「長屋」について考えていきます。江戸時代には庶民の住宅としてスタンダードなものであった長屋は、現代の暮らし方やコミュニティのあり方にどう影響を与えたのか?ミニマルな暮らしや、現代に活かす生活の知恵はあるのか?など、現存する長屋を活用し、現代に活かす可能性をご紹介します。

第1回の連載では、日本における長屋暮らしの歴史について見ていきましょう。

江戸時代、人口増大!どうやって住むの?

まず、長屋についての連載を始めるにあたり、長屋の意味を定義しましょう。長屋とは、細長いひとつの建物の内部を壁で仕切り、いくつかの住まいにしたものです。
建物内でお互いの住宅を行き来できるようになってはおらず、入口が複数ある作りとなっています。

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江戸時代、庶民の住まいの多くは長屋でした。その理由は江戸の人口と面積が関係しています。当時の江戸には徳川幕府がおかれ、1603年~1868年まで日本を統治していました。
この長期安定政権の理由は、「幕藩体制」「武家諸法度」「禁中平公家諸法度」「士農工商」「鎖国」などの政策が広く浸透していたからと言われています。今も昔も変わらず、都市部には人が集まり、当時の江戸には約100万人が住んでいたと言われています。
現在の東京でもアパートやマンションがないと、これだけの人が住むことが出来ないでしょう。

庶民の住宅問題、解決策は長屋だった

江戸時代、政治を取り仕切っていたのは武士でした。そのため江戸の土地の約70%は武士が使用し、約15%が神社仏閣、残りの15%に人口の約半数を占める町人が暮らしていました。この15%が約270万坪でその面積は現在の中央区とほぼ同じです。約13万人が住む中央区の面積に、当時約50万人が住んでいたというから驚きです。しかも当時は現代のような高層マンションはありませんでした。
この住宅問題をどう解決していたのでしょうか。

この問題の解決策が長屋でした。長屋は大きく分けて2種類あり、表通りに面しているのが「表長屋」、表長屋の脇の路地の奥にあるのが「裏長屋」と言われていました。
表通りとは今で言う大通りのようなもので、この通りに面して表店(おもてだな)と呼ばれる商売が営まれていました。通りに面する表店の奥を裏店(うらだな)と呼び、商売に適さない場所であったため、庶民の住居のために長屋として貸し出されていました。表長屋には身分の高く比較的裕福な者が住み、庶民の多くは裏長屋で暮らしていました。

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庶民が暮らした一般的な長屋は6畳くらいの広さに部屋と土間と台所があり、そこに1人もしくは3人ぐらいの家族で住みます。
土間と台所を抜いたスペースは約4畳半でした。このスペースで寝食を行い、時には内職仕事もしていたようです。そのため家具や衣服はとても少なく質素な生活が営まれていました。土間兼台所には最小限の調理用具と火起こし道具が限られたスペースに効率良く収納されていました。長屋暮らしには現代の整理術や使い回し術以上の知恵があったのかもしれませんね。

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隣家とは薄い壁で仕切られており、会話や音は筒抜けでした。現代ならそれだけで、大きな揉め事の種になりかねませんが、当時長屋住まいの庶民たちは家族同然にお互いを思いやり、貧しいながらも助け合う暮らしをしていたようです。

長屋のトイレとお風呂事情

ここまで見てきたように、当時の長屋暮らしのスペースにはトイレとお風呂がありません。当時の生活ではどのように、トイレとお風呂を利用していたのでしょうか?

江戸の共同トイレはお金を生む

当時の長屋生活では共同トイレを利用していました。もちろん、現代の一般的な水洗トイレなどなく、汲み取り式便所で男女利用の区別もありませんでした。トイレの作りは簡素で地面に掘った穴に木板を埋め込んだ便器の周りに木製の囲いが付いているだけでした。
当時描かれた絵を見てわかるように、トイレの戸は低く屈んで用を足していても、中の人の頭が外からしっかり見えていました。現代の東京の公衆トイレがこんな風になったら……と思うと、当時との違いを強く感じますね。

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そのトイレで発生した排泄物は人口100万都市の江戸の人々を支える食料(野菜)栽培の堆肥として有効活用されていました。堆肥で商売をする者は下肥問屋といい、主に長屋の大家と契約しそこからお金を払って人糞を集めていました。金額は平均的な規模の長屋で、今の金額に換算すると年間10~20万円くらいだったといわれています。

公衆浴場は男女混浴が当たり前だった

江戸時代は火事が多く、内風呂が規制され相当な規模の商人でも内風呂のある家はなかったようです。もちろん、一般的な庶民の長屋にも風呂場はなく普段の入浴には銭湯を利用していました。
銭湯は関西では風呂と呼ばれそれぞれの店に「大和湯」「桜湯」などの名前が付けられ、一方江戸では湯屋(ゆうや)と呼ばれ「檜町の湯」「堀江町の湯」などと町名を付けて呼ばれていました。庶民の生活に欠かせない銭湯、ピーク時には江戸の町に約600軒も存在したそうです。

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当時の銭湯はなんと混浴が当たり前でした。一定期間、混浴が禁じられていた時期もあったようですが、当時の人には混浴が当たり前であったため、男女間のトラブルはあまり起こらなかったようです。
銭湯の浴槽に入るには石榴口(ざくろぐち)と呼ばれる固定式の戸をくぐらなければなりませんでした。この戸が湯をさめるのを防いでいましたが、同時に光が遮られ湯けむりで中は暗く、浴槽内で人が殺されていても気が付かないこともあったようです。

井戸端会議は長屋の生活スタイルから生まれた

「井戸端会議」という言葉、現在では主婦たちが集まって人のうわさなどのお喋りをすることや、多くの人がどことなく集まり長い時間しゃべることを意味します。その由来が長屋の生活からきていることをご存知でしょうか?
長屋には水道がなかったため、生活用水の確保は共同の井戸に頼っていました。井戸は江戸時代の中期頃には江戸市内中にほぼ20~30m四方に1ヶ所ほど設置されていました。今も昔も水は生活に不可欠であり、水の確保は家事を担当し家庭を切り盛りする女性の仕事でした。そんな生活の場の一つであった井戸の周りには、常に野菜を洗ったり、洗濯をしたり、井戸待ちの列に並ぶ女性でにぎわっていました。井戸の周りは当時の女性にとっての情報交換やコミュニケーションを取る良い場所だったのです。
そのような様子を指して井戸端会議という言葉が生まれたそうです。

江戸時代の長屋スタイルは現代にも通ずる?

このように、当時江戸は限られた土地の中に多くの人が暮らしていた町だったのです。その町を機能的にするために長屋生活が一般に普及しました。狭い居住スペースで所有できる物が限られた生活が、人々の新たなアイデアや生活のイノベーションを生み、人と人との距離を近づけ、ご近所同士の助け合いやコミュニティ形成が自然に行われていたようです。
これまで、未来の住まい方会議で紹介してきた「スモールハウス」は現代版の長屋として、日々の生活を豊かにする役割を担っているのではないでしょうか。

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次回は、海外の長屋的な住まい方についてご紹介します。全4回にわたって連載をお楽しみに!

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