第1回:銭湯で沸いているのはお湯だけではない| 銭湯で想う距離と豊かさ

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豊かな暮らしって何だろうと考えたとき、ものが豊富なことと、気持ちが満たされることって、必ずしもイコールじゃないなあと思います。ものに満ちあふれていても、そこに”ありがたさ”を感じていないと、たぶん「豊かである」とは感じられないですよね。

人は、よくも悪くもすぐに慣れてしまう生き物だから、かんたんに手に入れられるものや、あたりまえにそばにあるものに、”ありがたさ”を感じ続けるのってかなりむずかしいです。私など、三歩歩けば忘れてしまいます(忘れすぎ)。

“ありがたさ”ってなぜ生まれてくるんだろうと考えると、対象との「適度な距離」にヒントがあるのかなと思います。同じ白いご飯でも、レトルトをチンしたごはんと、火加減を気にしながら土鍋で炊いたごはんとでは、後者のほうがひとくちひとくち噛みしめたくなる。それは、そこに「手間」という距離があるからかもしれません。

おこづかいをためてやっと買ったものは、金額を気にせずにその場で買ったものより愛おしい。親、友達、故郷、古巣のかけがえのなさも、離れてみてからようやくわかってトホホと思ったりします。

手に届くまでの「距離」が、それを望んでいた気持ちを実感させてくれて、心を”ありがたさ”で満たしてくれるのではないか。だとすると、豊かな暮らしを送るには、ものをいっぱい手に入れるのではなく、ものと適度な距離をおいて、”ありがたさ”を保つほうが大切かもしれない。そんなふうに考えると、豊かな暮らしって意外とかんたんに手に入るじゃないかやっほい♪、と思ったりします。

こんなふうに「距離」と「感謝」の関係をつらつらと考えてみたのは、私がときどき好きで入りに行く「銭湯」と、YADOKARIのテーマである「豊かな暮らし」との接点を(半ばむりやりに)考えてみたくなったからです。

私は銭湯に行くのがちょっと好きで、出かけた先でもふらっと寄ったりするのですが、銭湯の湯に肩まで浸かると、なんとなしに感謝の気持ちが湧いてくるのです。大きな浴槽ゆえの癒し効果ももちろんありますが、そこに感謝の気持ちが湧くのは、わざわざ入りに来たぞという距離も大きいような気がします。

「自宅で入浴」があたりまえな今、銭湯は、心理的にも物理的にも距離のある場所だと思います。でもその距離ゆえに、行くとそこに大きなお湯があるという”ありがたさ”に、思いがけない感謝の念が湧いてくるという、私にとってはなんとも豊かな場所だったりします。

ご挨拶が遅れてしまいましたが、はじめまして。YADOKARIでライターをさせていただくことになった、上村 実生(かみむら みおい)と申します。性別・おんなです。WEBの企画プロデュース&デザインと、「ちいさな学び舎、ときどき食堂『ささきハウス』」の運営をしています。

これから「距離」と「豊かさ」の関係について、銭湯の魅力とともにつらつらと書かせていただきたいと思います。湯船につかった面持ちで、のんびり読んでいただけたら嬉しいです。