写真家アンドレアス・グルスキーのクールな地球儀から見えるもの
私たちの日々の生活は、衣食住をはじめ、仕事、恋愛、信仰、子育て、娯楽、その他様々な要素から成り立っている。そして、喜び、悲しみ、叫び、怒りという、多様な感情の層が対流する、この慌ただしい生活の中で、私たちはふと価値観の基準が分からなくなったり、世の中の多様なエネルギーに圧倒される時がある。だからアンドレアス・グルスキーの写真を目にすると、そうした現代社会が抱えるホットな狂気を狂気のままに冷凍保存した、クールな地球儀のようだと思うことがある。
アンビバレントな視点
アンドレアス・グルスキー(1955-)は、ドイツのライプツィヒ出身の写真家だ。デュッセルドルフ美術アカデミーで、ドイツ写真界の巨匠ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻に学び、90年代以降は、錯綜した世界を強烈なビューポイントで俯瞰する、迫力ある大判作品を発表する。それらの写真には、まるで現代版コロッセオとでもいうべきほどの映画的スペクタクル感を見出すこともできるし、同時にまた彼の作品は、「超然としたデッドパン(無表情)」などの形容詞で語られることも多い。
この劇的ならがも徹底した客観性を維持するという、相反する要素を持つ作風は、グルスキー作品に共通してみられるものである。たとえばそれは、2011年のオークションで、現存する写真家の作品としては史上最高値がついたライン川の写真、《Rhein II》についてもいえるだろう。
この作品は縦1.9m、横3.6mというサイズだ。川には全体的に細かな波が立ち、その水面は決してスムーズでないにも関わらず、それとは正反対に、岸辺の直線がもたらす水平方向へのエネルギーはすさまじいものがある。まるで定規で直線を引き、その輪郭をさらにカッターナイフで鋭利にしたかのようだ。このように彼の撮る自然は、壮大なわりに土臭くなく、アナログ感が過ぎず、大変クールなのである。
雄大なライン川の流れは、都会的にいえば、秒速数mで時を刻む流水現象ということになる。理論整然とした画面は抽象的なデザイン性さえ帯びており、もはやライン川という意味内容を欠いたとしても、審美的な感心をそそるものだ。
部分と全体
グルスキーは作品制作の際、様々なデジタル加工を駆使している。被写体を分割して撮影し、複数の画像をつなぎ合わせることで、一つの高解像度な画面をつくりあげるのだ。人が肉眼では普段見ることができない細部まで、デジタル技術によって構成し直し、画面のどの部位にも、鋭利にフォーカスが当たるように仕向ける。こうして部分と全体が精緻に合体することで、具象と抽象が同時に存在する面白い画面が生まれ、彼特有のリズム感溢れる作品がつくられる。
完成した写真は、画面全体にわたって均質で、視線の入り込む余地がないほどに力強いが、あらゆる細部が明瞭であることと、横2~5mといった作品の大きさから、被写体の一つ一つに自然に目が向くようにできている。だから観者は、視線的には上から見下ろしているはずなのに、近づくといつの間にか、群衆の一部に入りこんでしまう。不思議の国のアリスがウサギの穴に落ちたように、観る者は気づかぬうちに写真の中の地面に足をつけていることになる。そんな不思議な現象が、グルスキー作品の多くにみられる。
等価な画面構成
この社会には、決してブレてはいけないものがある。それは広告だ。広告は、デザインコンセプトから売り出し文句にいたるまで、徹底して、商品やサービスにおける絶対的価値を提示しなくてはならない。それが相対的な価値基準であってはならないのだ。
グルスキーの家系は祖父の代から写真一家で、父親は広告写真を撮っていたそうだが、そのことが影響してなのか、彼の撮る写真テーマはいつも明快だ。しかし、広告が個人や社会を洗脳するほどのインパクトを持つのとは対照的に、グルスキーの作品は社会の価値観を崩壊させるパワーで満ちている。明晰な大画面で綴られる世界の一コマは、大量のレゴブロックでできたかのような脆さを秘めている。
作品の隅々までを支配する透明な空気感、そのクリアすぎるエネルギーは、鋭く尖ったナイフのように、ブランド、株、ポップスター、国家、その他諸々の世の中のレッテルやラベルまでも剥がしていき、すべての物事をただ等価に提示させる。彼は被写体に対等な個性、対等な品質を付与する。世の中に存在する価値、その一つ一つを明瞭に見せれば見せるほど、世界はカオスになり、符号は曖昧になる。
クールな地球儀から見えるもの
グルスキーの手にかかれば、どんなにホットな都市も、液体窒素に浸ったように瞬時に凍ってしまう。しかし、彼がつくりあげる厳格で理知的な画面構成のなかで、現代人は踊っていようが歩いていようが、誰一人としてブレれることなく、ある一定の輝きを放っているのは事実だろう。人がその情熱や夢から覚め、生気を失ったような顔をしていても、後に残ったミニマルでクールなスタイルには、なぜか未来的な美しささえ感じ取れる。そうしたシステマティックな社会ゆえの美の表現を悲観的に捉えるかどうかは、結局のところ、観者の感性にかかっている。
グルスキーは画家ジャクソン・ポロックを敬愛しているが、そのポロックは昔、「私が自然(nature)だ」という名言を残した。グルスキーにとっての写真にも、似たような一面がある。彼は、実物(nature)をありのままに参照し、その絶対的な価値を表象する手段として写真を用いているわけではない。世界の本質(nature)を再認識するためのエネルギーをつくり出すのは、カメラのファインダーではなく彼自身なのである。その点でグルスキーはフォトグラファーというよりアーティストなのであり、だからこそ、私たちが彼の写真に虚無な宇宙観を見出したとしても、それに絶望することは決してないといえよう。
Via: http://www.peoples.ru
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