KOU 中村真広×YADOKARIさわだいっせい|ツクルバ退任からの新たな出発【CORE SESSIONS Vol.3 前編】

YADOKARIと共振共鳴し、新たな世界を共に創り出そうとしている各界の先駆者やリーダーをお迎えして、YADOKARI共同代表のさわだいっせいが生き方のコアに迫る対談シリーズ。Vol.3は、株式会社KOU代表取締役の中村真広さんだ。前編では、中村さんの少年期から場づくりの原点、建築やビジネスとの出会い、そしてツクルバ退任までを辿る。

中村真広|株式会社KOU 代表取締役(写真右)
千葉県千葉市出身。東京工業大学大学院建築学専攻修了。不動産ディベロッパー、ミュージアムデザイン事務所、環境系NPOを経て、2011年に村上浩輝氏と株式会社ツクルバを創業、19年に上場を果たす。18年、KOUを設立。21年8月にツクルバ共同代表を退き、取締役を経て退任。神奈川県相模原市藤野に移住し、感謝経済で回る未来の集落「虫村」づくりに挑む。著書に『場のデザインを仕事にする』(学芸出版社)、『自分とつながる、チームとつながる。:エモーショナルなつながりがつくる幸せな働き方』(アキラ出版)他。

さわだいっせい|YADOKARI 代表取締役 / Co-founder(写真左)
兵庫県姫路市出身。10代でミュージシャンを目指して上京し、破壊と再生を繰り返しながら前進してきたアーティストであり経営者。IT企業でのデザイナー時代に上杉勢太と出会い、2013年、YADOKARIを共同創業。YADOKARI文化圏のカルチャー醸成の責任者として、新しい世界を創るべくメンバーや関係者へ愛と磁場を発し続ける。自身の進化がYADOKARIの進化に直結するため、メンターとなる人に会うことを惜しまない。逗子の海近のスモールハウスをYADOKARIで設計し居住中。

中村さんが相模原市藤野で進めている、循環型の暮らしのコミュニティ「虫村(バグソン)」プロジェクト。敷地内にこの春完成したオフグリッド仕様の建物で対談を行った。雨水タンクやコンポストトイレなどを備え、屋根と一体化したソーラーパネルで発電した電力はテスラの蓄電池に貯めて室内からICTで管理できる。

大人の中で育った少年期。生徒会長で社会的使命感に目覚める

さわだ: 今日は未来のこともお聞きしたいんですが、その手前でどんな原体験が中村さんをつくっているのか、人生を変えた出会いや、中村さんの根底にあるものをまずは伺いたいです。

中村さん(以下敬称略): なるほど、ディープサイドですね。僕は二世帯住宅で祖父母・両親とひとりっ子の僕という、大人4人対子ども1人の環境で育ったんです。母方の祖父は校長先生まで務めた人で、祖母も親も教育には熱心だったし、父方の祖父も東大出身。幼稚園の頃から塾に行き、小学校受験をして、実家のすぐ近くの千葉大学附属小学校に入りました。

さわだ: 親はけっこう厳しかったんですか?

中村: というより教育系の家系で、勉強が身近に転がってたという感じです。習い事も一通り与えられ、Jリーグ世代なのでサッカーもやりましたけど、結局さほど才能がないと分かり、のめり込むまではいかず。でも勉強して良い点を取ると家族皆に褒められた。勉強が承認欲求を満たしてくれるからますますやるようになり、そのサイクルにハマって、気がついたら中学受験コースに乗ってました。

さわだ: 小学校の時はモテました?

中村: 後半戦で上がっていきました(笑)。勉強ができたのと、弁が立つ小学生だったので学級委員的な目立ち方をして。千葉大附属小では5年生から生徒会長の被選挙権が与えられていて、5年の時に手を挙げたら通ったんです。その時ちょうど阪神淡路大震災が起きて、このタイミングで生徒会長になったってことは、何か自分にできることがあるんじゃないかと思いました。初めて社会的使命感みたいなものが芽生えたのはその時かもしれないですね。

さわだ: 僕は姫路生まれだから震災体験者だけど、「えらいこっちゃ!」とは思ったものの、自分が何かしなきゃという視点は全くなかったなぁ。当時中1でしたけど。

中村: 生徒会長をやってたからというのもあると思います。小学生なので募金活動くらいしかできませんでしたが。

さわだ: 正統派中の正統派ですね(笑)

中村: いや、家の環境に身を任せていただけで、それがちょっと社会的意義に気づいたり、承認欲求とも交わったりしたという。いちばんの武器は勉強でしたが、それも危ういなと今は思います。「他律的」なんですよ、褒められるからやるというルートに乗っちゃってたので。たまたま受験に受かったから良かったものの、落ちてたら腐ってましたよね。

暗黒の開成時代、ギターと多様性に出会う

さわだ: それでも受かるのがすごい。開成中学って日本でも1番と言われる学校ですよね。

中村: 開成とか灘とかね。でもそこには本当にすごい奴ばかりいるんです。他律的に勉強してる僕なんて底辺。上には半端ない上の奴がいるのを見せつけられ、自分がよく分からなくなっちゃいました。サッカー部に入ってみるものの、勉強ができる上にサッカーも上手い奴がたくさんいるし、ゴールキーパーだったのでポジション争いに負けたら即ベンチだし。初めてでした、何やったってダメな自分。暗黒時代でしたね、ゲーセンに入り浸ってました。

さわだ: やっと友達になれそう(笑)

中村: その頃にギターも始めたんです。「ゆず」とかが流行り、弾いてみたいなと地元のギター教室に通い始めました。附属小も開成も受験で集まって来てるから似たような家庭の子ばかりですが、ギター教室で出会う仲間は本当のローカルの子で、やんちゃな子も含め、とても幅広かった。特定のコミュニティから解放されて「これが社会か」と感じました。

僕は開成だからと線を引かれるのが嫌で、地元の子とも仲良くなりたかったから、その評価軸に乗ろうと頑張りました。開成だったら勉強ができるとか一芸に秀でた奴が一目置かれるけど、地元のコミュニティでは、例えば近所のスーパーで真っ裸になれるかどうかで面白い奴と認定されたりする。そんなことをしているうちに、なんだかすごく「生きてる感じ」がしてきたんです。そんなふうに地元のコミュニティと、開成のコミュニティとを行き来してました。

さわだ: それをやれるってすごい(笑)。開成の子たちからはどう思われていたんでしょうね?

中村: どうでしょうね。開成の中でもバンドをやったり、運動会や文化祭の役職をいろいろ兼務したりして、そういう活動が好きなちょっと変わった奴だと認知されていたと思います。親もね、中学の頃は心配もしましたが、高校になると好きなようにやればという感じになってました。

ひとりっ子ゆえの独立志向。建築家に憧れて東工大へ

さわだ: 反抗期はどんな感じでしたか?

中村: 暴力的なことはしませんでしたが、僕は家ではずっと大人4人対子ども1人だったのが嫌だった。ひとりっ子で祖父母にとっては孫だから、いつも手厚くされる。子ども扱いされ続けるのが嫌で、早く大人になりたい、独立したいと思っていました。僕のメンタルモデルのコアは、子ども扱いされているが故に「自分は不十分な存在なんじゃないか」というバイアスが染み付いてしまっているのが特徴だと思います。だから大学1年で家を出ます。生活費も全然稼げないのにバイトすると言って。で、結局賄いきれず親を頼ったり。

さわだ: 東工大に入ったのは、建築をやりたかったから?

中村: そうです。高校時代に進路を決める時にけっこう悩んだんですよ。僕は幼少期から立体物をつくるのが好きだったんですが、中学で考古学や哲学を探求するのも好きになり、工学も哲学も面白そうだから、何か「思想」と「ものづくり」を掛け算するものはないかと探していたんです。そしたら黒川紀章さんを知り、建築家は思想家と紙一重だと気づいて。

さわだ: YADOKARIの最初のオフィスが中銀カプセルタワービル※①だったんですよ。黒川紀章さんは、建築物はもちろん思想も高く評価されていますよね。もう50年前からミニマリズムやノマド、モバイルハウスなどYADOKARIが言いたいことを全部言ってる。

中村: そうそう、すごくカッコいいなと。その頃、安藤忠雄さんもフィーチャーされていて、「思想」と「形」が交わる所が建築なのかと憧れました。

※①:1972年に黒川紀章が設計した集合住宅。メタボリズム運動の象徴的作品で、単身者向けの効率的で柔軟な居住空間を提供したが、老朽化により2022年に解体された。

場づくりの原点は地元のライブハウス

さわだ: 音楽はやめてしまったんですか?

中村: 音楽でプロを目指したいという地元の仲間もいましたが、僕は大学で建築学科に進もうと決めたので一旦やめました。でも、その頃出入りしていたライブハウスの店長が僕にけっこう影響を与えていて。「10代の時は皆だいたい音楽をやるもんだ。だけどずっと続ける奴はあまりいない。でもね、プロじゃなくても本当に音楽が好きだったら続けた方が楽しいよ」と言ってくれたことが、今だに心に残ってるんです。だからオッサンになった今、僕はまた音楽をやっている。

その地元のライブハウスが、僕の場づくりの原点。店長の結婚式もそのライブハウスで仲間たちが集まってやってたんです。10代の僕はそれを目の当たりにして心が揺さぶられた。いろんな人生がクロスしていく場って素敵だな、何かこういうライブハウスみたいな楽しい場をやりたいなって。それが原体験です。

NIKEとの出会いでビジネスに痺れる

さわだ: 東工大で建築家を目指した所から、なぜコスモスイニシアに?

中村: 僕は当時、若手建築家でオピニオンリーダー的存在だった塚本由晴先生に師事したくて東工大を目指したんですが、塚本さんの研究室に所属していた大学院生の時、NIKEと塚本さんのアトリエ・ワンが一緒に渋谷の宮下公園をリノベーションするプロジェクトを手伝うことになったんです。ある日、研究室に、明らかに東工大では見たことないような、ストリート感満載のイケてるNIKEのマーケティングチームの方々がやって来て、ものすごく目立つから学生たちもザワつくわけです。

塚本さんと仕事するために数億円の予算を持ってきて、宮下公園をスポーツパークに変える案件をポンと落としていくこの感じ、カッコいいな!と痺れました。ビジネスもクリエイティブも理解し、かつ塚本さんを選んで都市に仕掛けるプロジェクトを成功させようとしている、この人たちみたいになりたいと。その時初めて建築家じゃなくてもいいかもと思いました。

そういう仕事をするなら不動産ディベロッパーという選択肢があると知り、何社か受けてコスモスイニシアに入社しました。とにかく人が濃い楽しい会社で、そこが熱いなと思って。リクルートから派生してるから「お前は何がやりたいの?」みたいな風土もあり。でも半年しかいなかったんです。

カフェで起業するも1ヶ月後に閉店の危機

さわだ: 半年ですか?

中村: ちょうどリーマン・ショックが起き、大量に内定切りされた世代なんですよ。僕らは入社はできたものの、すぐに会社が事業再生ADRに入り、半年後に退社することになりました。新卒なのに退職金もいただいて。そのお金で、コスモスイニシアの同期だった村上浩輝と、もう2人の仲間と共に、池袋で小さなカフェを始めるんです。

僕も浩輝も転職して本業は別にあったけど、その4人でアプトという法人をつくり、学生の多いエリアなので、貸切できるラウンジカフェみたいなコンセプトで2011年の2月に始めました。ところが3.11が起き、予約も全部吹っ飛んで、開業1ヶ月で潰れるかもしれない危機。僕自身も3.11の翌々日くらいに肺気胸で入院することになり、余震が続く中、管につながれて、人生考えちゃって。

当時僕はミュージアムデザインの事務所にいたんだけど、浩輝に「辞めて、カフェの立ち上げとフリーのデザイナーでやって行こうと思う」と言ったら、彼も「俺も辞めるから一緒にやろう」と。それで僕の方が先に個人事業主としての「ツクルバ」を始め、半年後くらいに浩輝が会社を辞めたタイミングで法人として正式にスタートしました。

池袋のカフェはその間もなんとか生き延びて、途中からアプトはツクルバの子会社にして、一時は10店舗以上展開していたんですが、ツクルバの上場準備の時に他社に譲渡したんです。カフェはそういうふうに進化していきました。

日本を代表する会社をつくりたい。ツクルバ創業

さわだ: いよいよツクルバ創業ですね。始める時はどんなコンセプトだったんですか?

中村: 創業前のメモを見ると、「日本を代表する会社にしたい」とか「皆の自己表現を形にする会社でありたい」とか、半ば妄想みたいな抽象的なことが書き綴ってあります。でも、それはけっこう僕たちの判断基準になっている。

一つ目につくった池袋のカフェで、仲間内をクロスさせていっただけで勝手にコミュニティが生まれて混ざり合い、いろんなプロジェクトが勝手に発生していった。ライブハウスの原体験のように、人生が交差する場が小さいながらもでき始めたので、こういう場をもっともっとつくりたいねという思いから「ツクルバ」が誕生しました。

co-ba」でコワーキングも始め、それをきっかけにオフィスデザインを依頼されたり、リノベーションやプロデュースの案件も入ってきて、「企画不動産系の若手枠」みたいな感じでツクルバが認知され始め、楽しかったんですよ。でも、創業時のメモにある「日本を代表する会社にしたい」から見ると小さくない?と。

さわだ: 違和感があったんですね。それは創業して何年目くらい?

中村: 2〜3年目くらいですね。その時は上場もまだ考えてなかったですが、co-baに入居している同世代のスタートアップ企業は投資も受けながら急激に成長しているのに、僕らは今のままだと全然日本を代表する会社にならないなと感じていて。「成長曲線の角度が明らかに変わるような事業をつくらないといけないね」と浩輝と話し、つくったのが「cowcamo」です。その種ができた段階で資金調達に走り、スタートアップ企業らしくなって、そこからはめちゃくちゃ早かったですね。

会社が大きくなる中での葛藤

さわだ: 僕らも共同代表だし、一時期はYADOKARIもツクルバも同じような位置にいたのに急に手の届かない所へ行っちゃった、みたいな感覚がありました。

中村: cowcamoがベンチャー路線で戦い始めたのが大きかったですよね。VCからも資金調達して成長ルートに乗ってきて。一方で僕自身は葛藤もありました。ツクルバから初期のカルチャーっぽさが抜けていくと感じて、僕はそれに抗い、独自の予算を引っ張ってきていろんな挑戦をしていましたね。

今は「日本を代表する会社」にするやり方にも種類があるなと思うんです。経済規模を大きくする道もあるけど、今僕がやっている「虫村(バグソン)」みたいに、思想を凝縮して特異点を一つつくることでも影響は与えられるかもしれないし、僕はそっちの方が得意かもしれない。

さわだ: 上場は大変でしたか?

中村: もちろん大変でしたが、時代が中古流通・リノベーション主流になり、波にうまく乗れたし、数年前から仕込んでいたから先行者メリットも十分つくれました。

さわだ: 組織がどんどん大きくなる中で、中村さんが大事にしたかった思想みたいなものは一緒に広げていけましたか?

中村: そこは難しいなと思ってました。始まりは本当にワンチームで、「まだニッチなこのカルチャーを大きくしていくんだ!」みたいなインディーズ感があるじゃないですか。それが次第にメジャーバンドだと思って入社してくる人が増えてくる。僕はまだインディーズ感覚で「皆で祭りつくろうよ!」みたいな感じなのに、枠組みやマネジメントを求められるようになるとチューニングが合わなくなってくるわけです。

でも、それは当たり前のことで、もうそういう規模だったんですよね。その中でも自分を発揮できることを考え、僕がやりたいこともルールをつくって予算を取るなど、大人の振る舞いに変えていきました。僕自身も会社の変化に適応せざるを得ないだろうと。

一心同体だったツクルバから離れる苦しさ

さわだ: ツクルバとの距離を取るのが苦しくなかったですか? 僕はYADOKARIは我が子みたいなもの、一心同体なものだったから、組織が大きくなって自分から離れていくことにすごく苦しんだんです。

中村: 苦しいですよね、本当に一心同体。自分と相方で生んだ子どものような感覚。だからすごく苦しかったです。自分の人格とほぼ同一だったはずなのに、「ツクルバくん」が何か別の人格を帯びて、目指す人生が自分とは違ったものになっていく。法人という別の生き物が独り立ちしていくんだと感じて悲しくもありましたけど、そこはやはり分けるべきだと悟る瞬間がありました。

基本的に僕は、組織のルールで堅苦しくなるより、皆が自律的に自由にやったらいいと思っていて、初期の頃の、有象無象の集まりなんだけど何かフィーリングが合っている感じが好きなんです。でも上場し、200人規模になってくるとそうも言っていられない。予測できる未来への計画を実行し、事業と組織をマネジメントしなきゃいけない。起業家から、経営者になっていく変化が必要。それは理解しているけれど、自分の在りたい姿かと問われたらそうではない。それで悩み、退任したんです。

さわだ: 浩輝さんは納得できたんですか? 中村さんが外れることに。

中村: 浩輝に「俺はプロの経営者になりたいわけじゃないかもしれない」と正直に打ち明けたら、「上場後の様子を見ていて、そうじゃないかと感じてたけど自分からは言えなかった」と。「二人とも辞めて別の人が社長をやる道もあるけど、浩輝はどうなの?」と聞くと、「まさに今こそが自分のやるべきフェーズだと思う」と彼は言ったんです。浩輝はゼロイチも好きだけど、1-10、10-100も得意だから、上場していろんな関係者も巻き込みやすくなってからのフェーズで旗を振るのがいちばん楽しいと思います。

だから創業者二人でつくってきたツクルバはここでおしまいにしようと。共同代表という枠組みはリセットして、ツクルバ第2世代として誰が社長をやるかといった時に、浩輝という適任者がいて、「新たな覚悟で2代目社長に就任して俺がやりたい」と言ってくれた。だったらそこに託そう。共同創業の一人が辞めて、もう一人が残ったんじゃないことを皆にちゃんと伝えようと、その時話しました。

さわだ: 僕は共同代表という所やその役割に、リアルに上杉との関係が重なるから、めちゃくちゃグッと来ちゃいますね。

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多様性が交わるライブハウスが中村さんの場づくりの原体験。一心同体だったツクルバから、自身の在りたい姿に向き合い、悩み抜いた末に新たな道を歩むことを決めた。後編では、藤野への移住や「虫村」でつくりたい世界、敬愛する空海について対話が深まる。

後編へ続く>>