お金も通学もいらない?~インドで出会った小さな学び場が教えてくれたこと~

何かを学びたいと思ったとき、あなたはどんな方法をとるだろうか。
まずはテキストを購入したり、オンラインの講座を受講してみたり、思い切って学校や塾に通ったりと方法はさまざまだ。
しかしどの方法を取るにしてもお金が必要になる。
最近は、Youtubeやアプリなどを使用して「無料」で勉強することも出来るのだが、それらを利用するのにもパソコンやスマートフォンが必要だ。
それでは本当に無料とはいえない。しかし、

「学ぶためには本当にお金が必要なのだろうか。」
そう考えさせられる出来事があった。遠く離れた南アジアの地で。

温かい家族が住むアパートの一室で

空港や観光地が再び賑わい始めた今年のゴールデンウィーク、私はインドを訪れた。
なるべく現地の人と交流できるような旅がしたい。
そう思った私は、現地で出会った家族のもとを毎日訪れていた。日中はお母さんと私の2人で過ごし、夕方になると学校を終えた子供たちが帰ってきた。
そして気づけばその家族の子供たちだけではなく、子供たちの友人らもたくさん訪ねてくるようになり、小さな友人に囲まれて過ごすことがインドでの私の日常になった。

 

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ある日、1人の女の子がノートを私に差し出して
「日本語を教えて」
と言ってきた。

私は学生時代に1年間、ヒンディー語を学んだことがあった。学んだことのほとんどを忘れてしまっていたのだが、幸いにも彼らが使うデーヴァナーガリー文字は覚えている。
私はそのノートに彼女の名前を日本語で書き、デーヴァナーガリー文字を添えたひらがなの表を書いて手渡した。それを見た子供たちは、目をキラキラさせてどこかへ行った。そして各々のノートを持って戻った子供たちは、それを私に差し出して、自分にも書いてほしいと言った。

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学生時代、先生が書いたホワイトボードの文字を写真に取って保存をしたり、ノートを写真にとって友人と共有し合うことが多かった。そのためノートを差し出す彼らを愛らしく思いながらも、
「写真をとってシェアすればいいのに。」
と思ってしまった。しかしここにはコピー機もスマートフォンもない。
「私が書いたこのひらがなの表が彼らにとって、たった一冊の日本語の教科書になるんだ。」
そう思い、はっとした私は身の引き締まる思いで一つ一つのノートにひらがなを書いた。

次の日また子供たちのもとを訪れたときには、子供たちが練習したひらがなを見せてきた。発音が合っているのか確認してほしいと、1から10までの数字を唱え始める子もいた。前日、子供たちは私が帰った後も日本語の勉強をしていたようだ。一晩でこんなにも覚えてしまったのかと子供たちの意欲的な姿に驚いた。

何かを学ぶために必要なものは「お金」じゃなかった

「Life is learning」
滞在中、チャイ屋で出会った地元の人からこの言葉を聞いた。
その言葉を体現しているのが、目の前にいる子供たちであるように思えた。

ある日、日本人が家に来るようになった。彼女は日本語と、ヒンディー語が少し分かる。ならば彼女から日本語を学ぼう。このチャンスを逃したくない。
そういった思いが彼らの姿から感じられ、日常の中にある偶然の機会から存分に学ぶ姿はまさに「Life is learning」だ。

そんな彼女らの熱心な姿と思いに魅了され、気づけば私も毎日彼らの家に通い熱心に日本語を教えていた。
滞在中、私は40℃を超えるインドの暑さにへこたれ、熱や吐き気がある時もあったのだが、
子供たちが熱心に学ぶ姿を頭に浮かべると、会いたくなって、一緒に勉強をしたくて少し無理をしてでも家を訪ねていた。

旅をする前は、まさか自分が子供たちに日本語を教えることになるなんて思っていなかった。
みんなで日本語を学ぶ小さな教室をつくったのは私ではなく子供たちだった。私を、日本語を教える「先生」のような立場にしたのも子供たちだった。彼らの学びたいという意欲に突き動かされ、つくられた空間だった。
この地で何かを学ぶために必要なのは「お金」ではなく、日常の中から何かを学び取ろうという強い「想い」なのだと気づかされた。

常に情報やデバイスがすぐそばにある私は、知りたいことをいつでも知ることが出来る。そして身の回りに学校やオンラインの講座などがあり、学ぶための箱はいくらでもある。
しかしそんな環境にいるからこそ、調べることや学ぶことをつい後回しにしてしまったり、選択肢がたくさんあるからこそ、とりかかるまでにすごく時間がかかってしまう時もある。そんなこんなで、買った本やテキストが結局読まれずに積まれていく、なんてこともしばしば。

一方で、公立学校以外の学ぶことの出来る施設やスマートフォン、お金が手元にない子供たちは、日本語を話す人が今家に来ているという目の前にある事実に目を向けて、日本語を学ぶ環境を、お金を使わず自らつくり、熱心に学んでいた。
学ぶためにはお金が必要だなんて思っていたことが、インターネット環境や本など、周囲にありあまるほど存在する学ぶチャンスを十分に活かせていない自分のことが、なんだか恥ずかしく思えた。

本当に豊かなのは私と子供たちのどちらなのだろう。
何かを学ぼうと思ったとき、まず用意しなくてはならないものはお金や環境だと思っていた。しかしその固定観念が大きく覆されたように思う。
同時に、大人になるにつれ、便利さや速さを求めるにつれ、忘れてしまった大切なものがたくさんあるような気がした。

お金を持っているか、そうでないか。
地方に住んでいるか、都心に住んでいるか。
大学に通っているか、そうでないか。
どんな動機を持って始めるのか。

そんなことはどうでもいいのかもしれない。
いつでも、どこにいても、学びたいという想いがあれば学ぶことが出来るのだろう。

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また、大好きなあの家族に、あの家にいる子供たちに会いに行きたいと思う。そのときには、色鉛筆で絵を描いた手作りの日本語のテキストを持っていくつもりだ。
ひとりひとりにちゃんとした日本語のテキストを買ってプレゼントすることも出来るのだが、それはどうも違う気がする。

なぜならあの場で生きる子供たちに、お金では買うことの出来ない、「想い」を強く持つことの大切さを教えてもらったからだ。