作り手のワクワクが伝わるデザイン。「ロマンとムダ」で出来た旧車が愛しいワケ
レトロブームが来て久しいなか、父からこんなつぶやきを聞いた。「一昔前なら、テールランプを見さえすれば、すぐに車種がわかった。今はどれも同じで、つまらない。」昔の車は一台一台まったく形が異なり、テールランプの形や色もさまざまだったのだという。言い換えれば、「今の車にはロマンがない」とのこと…昭和生まれの父はそういうものの、平成生まれの私にはいまいちピンとこない。
それもそのはず、「車離れ」と叫ばれてこそいたものの、車から離れていると言われる若者世代は、車にトリコだった時代の人々を知らない。だから、自分たちと車の距離感が遠いのか近いのか、よくわからないのだ。昔の車って、そんなに面白い形をしていたのか?かつての若者の心をつかんで離さなかった旧車とは、どんなものなのか?その問いを解決するため、私は愛知県豊田市にあるトヨタ自動車博物館に行き、実際に旧車を見つめてみることにした。
旧車の突飛なコンセプトに心が動かされた
博物館をぐるっと回ってみて、父の言葉が腑に落ちた。二階建ての博物館にずらりと並んだ旧車は(誤解を恐れず言えば)どれもユニークなのだ。他社が大きな車を出してきたら、こちらも負けじと出す。自社のエンブレムやカラーをふんだんに使い、「このブランドの車に乗る」ことに個性を見出す。博物館に並んだ旧車たちには、今でいうファッション/着こなしのような、パーソナルな独自性を感じさせるものがあった。
なかでも私が心惹かれたのは、「それやってもいいんだ?!」と言いたくなるようなマニアックな旧車たちだ。コンパクトな車体と一つ目のランプが特徴的な2人乗りのフジキャビン(1955年)や、車両前方がカパッと開き、ハンドルをすり抜けて乗車するという特殊なデザインが目を引くBMWのイセッタ300。「いったい誰かこんなこと考えたんだろう」と思いながら、突飛な空間デザインや色あいに、ワクワクしてしまう自分を隠せなかった。
作り手のワクワクが、利用者に伝播していく
旧車を見てこんなにワクワクするのはなぜか?考えたところ、一つの仮説が出来上がった。それは、「作り手の想いが感じられる作品に、人は惹かれる」というものだ。先ほどの車の開発者は、「ライトが2つの車ばかりだから、ライトを減らしてみよう。」「前方が開けば、狭い道路の横幅を気にせずに乗り降りできるだろう」こんな感じに考えたのかもしれない。本当にそう思ったかはさておき、技術者の想いやこだわりが感じられる見た目に、心が動かされてしまった。
現代の車は、一部を除いて似かよった見た目のものが多い。技術革新により、空気抵抗が低く、安定して走行できる車の形が明確になったからだ。加えて、法律の範囲内に収まる大きさで、最大のスペースを生み出せば大衆によく売れる。このように、燃費や走行効率のよさ、売れる、売れないを考えると、出来上がるモノが似通ってくるのは自然なことなのだ。
誤解のないように言えば、現代の車が旧車に劣るということは決してない。現代の車に多く見られる、効率や安さ重視の思想は、私たちの生活を便利で暮らしやすくするのに大いに役立っている。現代の車が価値をもたらしてくれたからこそ、旧車の価値を再認識できるということも、忘れてはいけない。
効率的でも、安くもない。ムダにしか出せない「ロマン」がある。
旧車の魅力は、作り手のワクワクした気持ちが利用者に伝わることで伝播すると言えそうだ。そして、その「ワクワクする気持ち」は、効率や安さに必ずしもつながっている必要はない。
日常生活のなかで例えるのであれば、大切な人への贈り物を丁寧にラッピングしたり、テーマパークの景色の中にこっそりと小さなキャラクターが隠されていたり…といった、作り手の遊び心や想いが込められたもの、効率や安さという視点からすればムダとも取れるようなもののなかに、そのワクワクした気持ちは生まれるのだ。そう思うと、自分の身の周りには、たくさんのロマンがある。あれもムダ、これもムダと考えるより、「これはロマンだなあ」と捉えてみると、モノの意外な側面に気づけるかもしれない。