NEWPEACE 高木新平×YADOKARIさわだいっせい|ビジョンをつくり続ける理由【CORE SESSIONS Vol.2 後編】
株式会社NEWPEACE CEOの高木新平さんをお迎えし、YADOKARI共同代表のさわだいっせいが生き方のコアに迫る対談。後編では、博報堂を経て、3.11を機に高木さんが「自分を生きる」ことを始めた瞬間や、これからやりたいことについて、さわだと語り合う。
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高木新平|株式会社NEWPEACE代表取締役CEO(写真右)
富山県射水市出身。博報堂から独立し、各地でシェアハウスを立ち上げ。ネット署名を活用し、「One Voice Campaign」を展開。ネット選挙運動解禁を実現。2014年NEWPEACE創業。未来志向のブランディング方法論「VISIONING®︎」を提唱。スタートアップを中心に様々な企業や地域のビジョン開発に携わる。その他、富山県成長戦略会議委員、株式会社ワンキャリア社外取締役など。起業家の思想と人生に迫るPodcast番組「インサイドビジョン」も配信中。
さわだいっせい|YADOKARI 代表取締役 / Co-founder(写真左)
兵庫県姫路市出身。10代でミュージシャンを目指して上京し、破壊と再生を繰り返しながら前進してきたアーティストであり経営者。IT企業でのデザイナー時代に上杉勢太と出会い、2013年、YADOKARIを共同創業。YADOKARI文化圏のカルチャー醸成の責任者として、新しい世界を創るべくメンバーや関係者へ愛と磁場を発し続ける。自身の進化がYADOKARIの進化に直結するため、メンターとなる人に会うことを惜しまない。逗子の海近のスモールハウスをYADOKARIで設計し居住中。
希望のない国への憤りに気づく
さわだ: 博報堂ではどんなお仕事をされていたんですか?
高木さん(以下敬称略): SNSを使ってソーシャルムーブメントをつくるような部署に配属されました。当時はまだまだマスメディア主導の時代で、SNSやりたいって新卒もほぼいなかったみたいで。
ファッションサークルの活動もそうですけど、大学の時に、村上龍さんの『希望の国のエクソダス』を読んで衝撃を受けたんですよ。中学生が一斉に不登校を起こして、インターネットを駆使して新たな世界を立ち上げていくという物語で、そういうことをしたいと思ってたんですね。
彼らは10代ながら独立国家をつくるんだけど、大人たちから何不自由なく育ったお前らがなぜそんなことをするんだ?と問われた時、主人公のポンちゃんが言うんです。「この国には何でもある。本当に何でもあります。だが、希望だけがない。」と。
まさにその通りだと思ってて。僕はゆとり世代で、「失われた30年」と呼ばれる時代をずっと生きてきて、この希望がない感じに言いようのない怒りがあった。
それで当時あまりやりたがる人がいなかった政治や公共系の案件に手を挙げて、そのネット戦略やクリエイティブを担当させてもらいました。先輩からも「お前、広告会社に来たのにCMとかやりたがらないの変わってるな」って言われてました。
高木: 原発関係のSNSにも携わりました。当時、フランスでエネルギー政策の議論がFacebook上で起きていて、日本でも、皆で議論をするプラットフォームをつくろうという案件だった。Facebookが日本に広がり出したばかりで誰も使い方も分からない中、僕がリードしたんです。
その頃は皆まだネットリテラシーも低いから、不都合なコメントが来たら「消せばいい」なんて担当者も平気で言っちゃう感じで。僕も共創することの可能性を感じてやってるので、「いや、そんなことをしたら意見の押し付けで、プラットフォームの意味がないですよ」と年配の方々とだいぶ戦ったんです。でも当時の僕には説得して押し通せるほどの力がなかった。そのプラットフォームは2012年の4月1日ローンチ予定だったんですが、準備を進めている最中に3.11が起きて世界中が原発の議論になった。その時、僕は大事な仕事をしているはずなのに、社会的理想をいろいろ曲げてしまったことをすごく反省しました。
自分の人生を生きるための決断
高木: それが序章で、その後の出来事が決定打になりました。3.11の後、北野武さんが「東日本大震災というのは、2万人が亡くなった事件が1個あったんじゃなくて、1人が亡くなった事件が2万個あったんだ。そういう想像力が大事だ」というようなコメントをされていて、本当にそうだなと。
その時、僕も何か東北のために動きたかった。メーカーであれば食料や物資を配ったりできるけど、コミュニケーションの会社は何ができるだろうと悶々としてました。メディア上で、被災者が全壊した家で写真や思い出のモノを探している姿を見ていたので、何かできないかなと。
当時、警察が死者の名前と住所をネット上で公開してたんです。そのデータを引用して、マップ上にお墓をつくり、そこに皆が寄せ書きや寄せ写真ができる「3.11メモリアル」というサイトを立ち上げました。
ただつくっただけでは広がらないから、せっかく広告会社にいるんだし、現地のメディアと組んで、被災地の人たちの心の拠り所になるようなプロジェクトにできないかと、社内で呼びかけたんですね。でもそれは難しかった。
そしたら企業として、そのサイトをやってる個人がいるのはリスクだという話になり、サイト自体も閉鎖する方向になっていった。押し問答の末、思わず「だったら辞めます」って言っちゃったんです。
入社して1年そこそこの話。でも僕は、もしこのサイトをここで消しちゃうと、自分の意志として始めたものが組織の論理に飲み込まれてしまって、自分の人生じゃなくなると思ったんです。今なら僕もいろいろ学んだし、会社が言っていた意味も考えも理解できます。でもその時は、どうしても自分の中で譲れない一線という感じがしたんですよね。
起業家の卵たちが出入りするシェアハウスで壁打ちの相手に
さわだ: じゃあ、何か次のあてがあって辞めたとか、起業しよう!と決意して辞めたわけではなかったんですね。
高木: そう。こんな性格だから貯金もしてないし、まず速攻で、当時住んでいたマンションを解約しました(笑)
さわだ: 住む場所がないじゃないですか(笑)
高木: うん。それでシェアハウスを始めることになるんですよ。
正確には始める前に一時、宮下という友達の家に居候していたんだけど、僕があまりにも暇だから「会社なんて辞めよう、辞めよう」と誘っていた。そしたら本当に辞めて(笑)、その時に立ち上げた会社が後に「ワンキャリア」という人材ビジネスになって。宮下が社長をやって上場までしましたけど、その最初の立ち上げ期を一緒に過ごさせてもらったのはとても良い機会になりました。今も株主で社外取締役をやらせてもらってます。ただその頃は、僕はそんなにビジネスに興味があったわけではなく、シェアハウスづくりが楽しくて、そっちに邁進していくんです。
さわだ: そうなんだ(笑)
高木: 居候していた宮下から、寝言と寝相がひどいと追い出されて、でもお金がないからシェアハウスしようと。僕のように3.11で人生考え直してた同世代の仲間を5人集めて六本木の古いマンションを借りたんですが、せっかくだからメディアにしようと思って、家の中の様子をネット配信し始めたんです。当時はニコ生とかUSTREAMとかが出始めてて。それとTwitterの相性が良くてけっこう面白がられました。いろんな人が遊びに来てくれる家になって、確か年間3000人くらい来てました。
さわだ: すごい人たちが集まってましたよね。
高木: ホットスポットでしたね。そんな中で当時、連続起業家として若い人の憧れの一人だった家入一真さんが面白がってくれて、しかもめっちゃ近所のマンションに住んでいて、毎日一緒に過ごすようになって。そのシェアハウスをその後「リバ邸」に変えて全国展開したり、家入さんや鶴岡くんらと「BASE」の前身となるサービスをつくったり、「One Voice Campaign」を立ち上げて、1年半ほどかけてネット上で署名を集めて、ネット選挙運動を解禁させたりして、好奇心のままに動いてましたね。
シェアハウスには起業家の卵みたいな人たちがたくさん出入りしていて、僕は暇だしずっと壁打ちをしていたんです。コンセプトを言語化したり、イメージを形にするのが得意だから、何十社ものスタートアップや起業のお手伝いをしてました。そこから何社も会社が生まれて上場していった。NEWPEACEでは、そういう会社とずっと一緒に仕事をさせてもらっているんです。
さわだ: その辺りから「何者でもない高木新平」ではなくなった?
高木: そうかもしれないですね。圧倒的にいろんな変な人たちとセッションしまくっていたので。あと、今もベースとしては企画とか裏方なんですけど、この時に人前で話すことはめちゃくちゃやりました。お金はなかったので、脚本も出演も自分という(笑)。でもその経験のおかけでステージの上に立つことに慣れていったんですよね。人前に立つか立たないかで見える景色は全然違うし、オーディエンス側ではなく演者側に立つという目線は、人生をだいぶ変えると思います。
人と違うことを恐れない。「Be different」の肯定
さわだ: ちなみに今は、生まれつき障がいのある左手をどう思っているんですか?
高木: 気にならないと言ったら嘘ですが、以前ほどコンプレックスではなくなりました。僕は、今は障害者手帳を持っていますけど、社会人何年目かまでは取得しなかったんです。認めたくなくて。小学校や中学校の頃はずっと「普通になりたい」と思っていました。でも日本史の教師だった父は、歴史上の変な人の話をたくさんしてくれたし、養護学校の教師だった母は、いろんな障がいを持った人にも区別なく接していて、両親から「人と違ってもいいんだ」と気づかせてもらったかもしれません。
上京してからは、海外の一人旅でかなり発想が自由になりました。また家入さんのおかげで、堀江貴文さんやチームラボの猪子さん、DMMの亀山さんといった、いろんな「different」な存在に出会う体験があり、左手のコンプレックスがどうでもよくなってきたというか、もっと「生きるスタンス」みたいなことが大事だと思うようになった。
僕が会社を辞めた時に、同期の仲が良かった奴に「なんで辞める決断ができたの? 」と聞かれ、「うん、俺は生まれながら人と違うからな」って答えた。それは才能とかではなくて、物理的に違うから、他の皆と同じように生きられなくて当たり前だと思ってると。
そしたら彼が「羨ましい。俺はマジで普通だから、俺もそういうのが欲しい」と言ったんです。驚きましたね。でもそう言われて「だから俺は人と違うことを恐れないのかもな」と思い始め、それを何かうまく回収できるなら、むしろ「Be different」になれと思うようになりました。
全ての人にビジョンを。未来があることで、過去が変わる
さわだ: この対談シリーズの裏テーマが「スーパーヒーローのコンプレックス」なんですよ。
高木: いいですね、家入さんともよく話してることだけど「コンプレックス is モチベーション」ですよね。揺るぎない強さがある。何か突出した原体験がなくちゃいけないという話ではないけど、僕にはそれがあったから良かったのかもしれない。
NEWPEACEの仕事で、卓球メーカーVICTASをリニューアルしたんですが、そこで日本代表のユニフォームやアイテム一式もプロデュースさせてもらいました。それも昔「卓球はダサい」と思われていたイメージを変えたかったからです。
今、富山県のブランディングや生まれ故郷の新湊の10年後のビジョンをつくる仕事をしているのも、富山時代の辛い思い出とか、早稲田に入った時に富山訛りとか、富山県を皆が知らなかったことがコンプレックスだったからです。それを良いものに変えていけば、自分の人生を肯定できるじゃないですか。
「未来があることで、過去が変わる」って、すごくうれしいですよね。僕は常々、全てのものはイメージ、物語だと思っていて、しかも物語は「因果」ではなく「逆因果」だと思うんです。つまり何かが積み上がっていってるのではなく、未来があることで過去の意味が変わる。卓球の仕事も富山の仕事も、僕の中では「過去の回収」なんですよ。人生の回収をして、肯定感を上げて、自分の不安定だった人生を取り戻している感覚がある。
高木: 僕は最終的には「日本の総理大臣のスピーチを書く」というのが人生前半の、50歳までの目標なんです。失われた30年と言われるのは日本に新しいビジョンが無かったからだと思ってるので、それをつくってみたい。後々「失われた…と言われた時代があったね」というふうにしたくて、それが僕の野望ですね。
さわだ: コンプレックスを持つのも悪くないってことですよね。
高木: そう。原動力ということですよね。痛みであり、エネルギーでもある。コンプレックスがある部分は、それについて誰よりも向き合い考えていると思うし、だからこそアイデアもあると思います。源泉という感じですよね。
あと近い将来やりたいことの一つは、障害者手帳をへラルボニーとコラボしてめちゃカッコよくしたい。勝手に言ってるだけですが(笑)
さわだ: 新平さんは今、幸せですか?
高木: 幸せですよ。というか楽しい。こんな僕でも何とか生きて来られたし、こういう生き方、こういう選択肢もあったんだねと、救われる人が一人でもいたら、生きててよかったなと思います。
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編集後記
「この国に希望を」と高木さんは願う。失われたなら、自分たちの手でつくり出すしかない。高木さんのクリエイティブには、苦しみや悲しみを反転させる力や、違いを光に変える力がある。
コンプレックスはエネルギーの源泉でもあると言う高木さんの生き方から、人間の奥底には「本当は自分を愛し、世界を愛し、肯定して生きたい」という、どうしようもなく強い願望があることを感じずにはいられないし、もしかしたら、それこそが希望なのかもしれない。
一人一人の自分を愛そうとする力、この命を肯定しようとする力が、きっとこれからの世界を変えていくのだ。