木曜喫茶 〜Discussion like a Radio〜vol.2 前編「フラットな組織」ってなんだ?


YADOKARIメンバーが夜の喫茶店で駄弁っているような、あれやこれやの盗み聞きラジオ「木曜喫茶 〜Discussion like a Radio〜」。第2回は、「「フラットな組織」ってなんだ?」。

「世界を変える、暮らしを創る」ビジョンの下、住まい方だけでなく新たな働き方も探求するYADOKARI。会社の成長に伴い所属するメンバーの人数が増えていった時、どう組織の形は変わっていくのか。変えていきたいのか。YADOKARIメンバーがお菓子をつまみながら、ざっくばらんなラジオのように掘り下げています。

食と、遺伝子と、意思と。

さわだ「りおなは、何か最近楽しいことあった?」

りおな「料理・・!今まで包丁を持つのも危なかったんですけど、仕事の合間に料理するようになって、その時間が楽しみになってきて。自分でもびっくり。」

さわだ「この間今まで作った料理の一覧見せてくれたよね。焼き芋とか目玉焼きもあったけど。笑 どういうところが楽しい?」

りおな「錬金術しているみたいで。元々あったものがギュッてなってボン!みたいな。笑」

きむら「僕も料理好きなんですけど、いかに効率よくやるか。終わった時にいかに洗い物がないか。頭の整理になりますよね。」

さわだ「楽しみポイントは、いくつかあるかもね。冷蔵庫がきれいになったり、工程考えたり。二人とも相手(パートナー)のために、というのはあるんでしょ?相手の反応とか気にする?」

きむら「どちらかというと気にするけど、好き嫌いははっきり言ってほしいですね。言われても怒ったりはしないかな。」

りおな「私が育った実家は円卓でずっとご飯の感想を言いあっていたから、全く感想がない食卓がちょっと寂しいかも。食育って大事だなって思う。雰囲気も含めて。この間、会社のメンバーと一緒に断食をした体験を記事にしてもらったんですけど。その時にライターさんに聞いたのが、食を整えることは「自分の暮らしに主権を取り戻すこと」。自分で選択したもので自分の体を作る、食の民主化と聞いて。いつも食が隣にあるからこそ、その中から自分が食べたいものを「自分で決める」ことって大事だなと思った。」

さわだ「断食している中でも色々と思うことがあった?」

りおな「そうですね。普段どれだけ食にこだわることに労力をかけないでいたけど、食べれないものが多い時むしろすごいストレスだったよねって。」

さわだ「意思を持って選ぶことかもね。食について、「好き嫌い」ってどうなのかな?僕は今子育ての中で、子供の好き嫌いについてちょっと悩んでるんだけど、好きなものだけ食べさせた方がいいのか、嫌いなものも食べさせた方がいいのか。嫌いななものは嫌いなんだという想いを尊重して自己肯定感を高めることが正しいのか、何でも食べられた方が大人になると豊かだよね、健康にもいいよねということを優先した方がいいのか迷ってる。」

きむら「生物的には、人間は本来多様なものから多様な栄養を取るようにできていて、基本何でも食べられたほうがいいはずと思いながらも、うちの奥さんは鹿とかジビエは食べられなくて。どこか鹿やうさぎは「食べ物でない」イメージがあるようで。そういう心象風景と結びついているあたり、面白いなって。生き残るためには何でも口にできた方がいいはずなのにそれを否定して「食べない」って、何かしら自分にとって毒になっているものがあるのかなと。」

さわだ「仲間を食べる、カニバリズムみたい感じなのかな」

きむら「その根底に何があるかは面白いですね。かつては、農耕より狩猟民族の方が食生活は豊かだったみたいで。狩猟だと季節にあったものを食べるのが前提で、肉も野菜も食べて栄養バランスも優れていたけど、農耕民族になると穀物に依存して、栄養素が偏ってくるとか。農耕型は(食べ物を自給できて)種としてはいいはずだし、これだけ栄えてるから成功のはずなんだけど。一方実は何かしら身体にバグが起こっているのかもしれなくて。生き物としての繁栄と個の幸せは、別個なのかなと。」

一同「おお〜深い。笑」

りおな「都会に育って野菜嫌いだったけど、地方に移住して好きになる人もいますよね。やっぱり地方の野菜とか水って味が全然違うなと思うし。いいものが手に入る生活圏にいたいと思う。」

きむら「そう考えると、子供の舌って一番ピュアで遺伝子として食べるべきものが刻まれているはずなのに、それでも食べれない、食べ物ではないと認識されているってことは、加工されていたりして、そのくらいのグレードのものなのかも。」

カビとコミュニティの話

りおな「さわださんは子育ての初めから逗子に住んでいたんですか?」

さわだ「元々東京に10年くらい住んでいて、長女が1歳の頃に逗子に引っ越した。自然も沢山あって街も急かせかしてなくてゆるい感じが好きで、家族で住むのにこれ以上の場所はなかなかないよなーって思ってて。もう彼これ12年くらい住んでるね。僕は兵庫県姫路市出身で実家の裏が海だった関係で、そばに海があるだけで心が落ち着くんだよね。人やコミュニティもめっちゃ良い。」

りおな「みんなで子育てしてる感もあるんですかね。」

さわだ「そうだね。うちは築50年くらいの平屋に住んでいて、その流れで近所に仲良し家族が自然と増えていったという感じで。そこに小さな子供が15人くらいいるんだけど、皆んな勝手に庭に入って来たり、家の中を通り過ぎて行ったりして。笑」

りおな「そういうコミュニティってどう形成されていくんですかね?」

さわだ「起点は(0歳から小学生くらいの)小さな子供だったと思う。そこから親同士が話し始めて。東京から逗子に引っ越してきた人たちって、より伸び伸びと自然の中で子育てしたいという人が多いからマリンスポーツやアクテビティとか共通の趣味で繋がれることも多いかな。」

りおな「行政のサービスでも子育てサークルとかあるけど、そういう風にナチュラルに繋がれるってすごい。」

さわだ「そんな自然なコミュニティをYADOKARIでどうやったら作れるんだろうと考えるんだよね。この前メンバーに「コミュニティって大事なものだけど、さわださんはお金払って入りたいと思います?」って聞かれて。確かにお金払うイメージってあんまりないな、と。近所のコミュニティはメリットとか打算的なものはなく、単純に居心地の良さでそこにいるみたいな。」

きむら「コミュニティは家に紐づいていると思いますか?」

さわだ「そうかもしれない。家の場所や立地も大事だと思うし、気軽さってのも重要かもしれない。自分が思うに、パジャマで行ける距離感であることかな。」

きむら「コミュニティという言葉ができたからこそ、作るものとなってしまったかもしれないですね。

今、カビの話を思い出して。例えば何にもない清潔なところにカビを繁殖させようとするとカビって、人工的に作ろうとすると栄養や湿度(環境)を維持しないといけなくなる。それって行政がお金を投じてコミュニティを維持しようとしているのに似ているなと思って。でも本来カビはカビとして繁殖しやすい環境が本来あるからこそ生きるもので。それが今の話でいう家とか場所とかで、やっぱり空間性ってめちゃくちゃ大切なんだろうなっていうのが、改めて。そう考えると、場所とか空間って大事かもしれない。」

さわだ「今の家のコミュニティを分析してみたいね。どうして自然発生的に広がっていったのか。立ち寄りやすい立地やサイズ感だったとか、平屋であることとか、古い家の気楽さであるとか、奥さんが明るいとか。笑」

りおな「8/8に行う未来サンカク会議は次回、「コミュニティの解剖」をテーマにするのだけど。企業で活躍している若手がそれぞれのコミュニティ持ち寄って要素を解剖してコミュニティとはなんぞや、2050年のコミュニティはどうなるのか考えてみたりバーチャル空間も含め。」

さわだ「コミュニティについて考えるのは、YADOKARIにとっても大切で。タイニーハウスというハードからのアプローチもあるけど、やっぱり幸せの根源は人との繋がりだと思っていて、それをどう熱量を保ったまま広げていけるか。そこが課題ですね。YADOKARIのメンバーがその波紋の中心なんだよなーとは思ってる。」

拡大する組織、自発的な組織

りおな「YADOKARIはコミュニティなんですか?」

さわだ「コミュニティ、とも言えるよね。色々な捉え方があるとは思うけど。YADOKARIは最初ウェブからスタートして、次第に建築やまちづくり、コミュニティの仕事がやってきて。でも自分たちはその辺りの知見に関しては素人だったからFBグループを作って各分野で協力してくれる仲間を募ったんだよね。そのグループは最終的に3000人を超えたけど、正直熱量を意識せずに拡張の方を考え過ぎたのかな。双方向に情報をギブアンドテイクする形ではなくて、一方通行な情報共有グループになってしまった。」

りおな「人数が拡張しすぎると限界があると聞いて。スモールチームの時みんなで作っている状態が一番いいみたい。そう考えると、スモールチームがいっぱいある状態もありなのかも。円が複数あるような。」

ゆき「人数が多くなって、どういう状態に限界を覚えるんだろう?」

りおな「関わり始めた時に、自分という存在意義なのか、自分が何かを持ち寄れている感覚があるか疑問に思いはじめる、と聞いた気がする。」

きむら「人数が多すぎるとだんだんと希釈されて、自分の影響力も希釈された時に、モチベーションが低下していくのかもしれない。発言権も低下して。影響力の範囲みたいなことはあるかもね。」

ゆき「自己肯定感に起因するのかな?人数が多くなっても何かしら自分の存在意義が感じられていればいいのかな。」

きむら「究極はそうなのかも。それが何なのかはわからないけど。ある程度自分が走ったものでみんなが影響されていることが、自己肯定感につながるのかも。」

ゆき「大企業もある意味一つのビジョンのもとに集ったコミュニティで、その中に千人、一万人といて。その中にも同じような帰属意識があるのか、ある程度どこかのラインで諦めているのかとしたら、どうだろう。」

きむら「良くも悪くも、ある数を超えた時、コミュニティの中にコミュニティができてくるんじゃないかな。社内ベンチャーみたいな。ゆるい繋がりで集っている安心感がありながら、その中で自分の影響力を発せられる場所がある。いわゆるパラレルキャリアもそうなのかなと。所属があって安心できる中で、挑戦できる環境。ある種の打算かもしれないけど。それって両立できるよね、というのが一般的な価値観になりつつあるのかなと思う。」

さわだ「社内ベンチャーのようなトップダウン型のコミュニティと、自発的に生まれるコミュニティとの違いって何だろう?」

きむら「そこに所属している個体としての強度があるのかも。一定の自発的に回せる頭の良さというか、クレバーさがある人たちが集まると、自発的にまわるコミュニティになるんだと思うし。それができないからコンダクターがいてデザイン、設計するのかもしれないけど、それって往々にしてうまくいかないじゃないですか。その匙加減でみんな苦しんでいるんじゃないのかなと。

みんながクレバーで自発的に回るのが理想だけど、いつもそういうわけにいかない。自然淘汰と考えると、そう言う段階で人が抜けて、続かなくて滅ぶなら、滅ぶべきコミュニティだったんだと思う。

だけど僕らがもらうお仕事って、それをどう延命させるか、次のステージに持っていくかという違うストレスをかけた上で成長していかなくてはいけないので。だから、難しいなと思う。」

「フラットな組織」を考える上で避けられない問い、「コミュニティとは」。有機的に物ごとを生み出す集合体にもなり、ある時に限界が来て突然滅ぶこともある。
YADOKARIが目指すコミュニティとは?「フラットな組織」はその先にどう形成されていくのか?

後編に続く。