【前編】YADOKARIメンター対談 Vol.1「YADOKARI文化圏」の創造に向けて
「世界を変える、暮らしを創る」をビジョンに掲げるYADOKARI株式会社(以下、YADOKARI)。YADOKARIのフィロソフィーに共感し、それぞれに専門性を持った方々をメンターとしてお迎えして、これからの新しい組織の在り方を日々模索している。そんなメンターの方々との対話を通して、YADOKARIの現在地、そしてこれから目指すべきものについて理解を深めようと始まったのがメンター対談シリーズだ。
今回はその Vol.1として、共同代表のさわだいっせいが、2022年からYADOKARIの組織開発・人材育成顧問を務める立石慎也氏、YADOKARIに多数の記事を寄稿し、現在は編集部再編の中核を担うライターの森田マイコ氏と鼎談を行った。YADOKARIが目指す世界を実現するために、組織はどうあるべきなのか。そして彼らのつくる未来の可能性とは? 前後編に渡ってお届けする。
立石慎也氏(写真右):2022年からYADOKARIの組織開発・人材育成顧問を務める。30代〜40代にかけては自ら設立したシステム開発会社を経営し、首都圏の巨大企業を顧客に夜中まで働き、接待し、自宅にも帰らずホテルから出勤する日々を過ごす。そんな働き方に疑問が湧き、40代後半に半ばファイヤーする形で意識の深化や発達の探求へ。現在は成人発達理論やインテグラル理論等を援用しながら独自に開発した「識育コーチング®︎」を用いて、プロアーティストや中小企業、ベンチャー企業の人材育成、組織開発に尽力。YADOKARIの組織としての進化と創り出す未来に大きな期待を寄せている。
*参考記事:https://yadokari.net/inspiration/74595/
森田マイコ氏(写真左):3歳頃から社会に違和感を感じ、いまだしっくりくる居場所を見つけられず各地を転々としながら執筆活動を続けるさすらいライター。都心での会社員時代に、まだ法人化する前のYADOKARIの“移動する暮らし”の発信を見つけて以来ファンになり、数奇なご縁からさわだ・上杉と対面。「世界がどうなっていくのか」を探求テーマに、サステナビリティ、ウェルビーイング、建築、農業、食、地方創生、働き方、経営者インタビューなど多分野を行き来しながら取材と執筆を重ね視座を養う。近い未来「YADOKARI国」に住むのが夢。
YADOKARIの根底を表す「生きるを、啓く」
森田さん(以下敬称略):今年に入ってからYADOKARIの根幹を表すキーワードとして「生きるを、啓く」という言葉が使われていますが、これはどういった経緯で生まれたのですか?
さわだ:仲間がどんどん増えていくなかで、YADOKARIという会社が(創業した)僕と上杉だけのものではなくなっていき、子どもが巣立っていくような感覚に葛藤して、半年間休職をした時期がありました。仕事に復帰するタイミングで、「YADOKARIで何を成すべきか、なぜ生きるのか、なぜ働くのか」というYADOKARIがこれからやるべきことの根底をもう一度問い直さなければと思い、立石さんにも助言をいただきながら「フィロソフィーボード」という新たな枠組みを社内に構築しました。
無印良品ではクリエイターで構成された「アドバイザリーボード」という組織が社のデザインや思想を検証しているそうなのですが、YADOKARIでは会社の根底にある思想や哲学を明文化するために「フィロソフィーボード」という名前にしました。YADOKARIのフィロソフィーボードは僕と二人の社員でスタートし、三人でYADOKARIの根底にあるものを話し合ってみたら、「ミニオス」、「アドリブを奏でる」、「常識を打ち破る」というワードが出てきました。
森田:ミニオスというのは何でしょう?
さわだ:ミニマルとカオスを組み合わせた造語です。ミニマルは研ぎ澄まして自分に本当に必要なものを知り、こだわりを持つこと。カオスは個性的なメンバーが集結しているYADOKARIを表していて、その2つを組み合わせた言葉として使っています。この「ミニオス」、「アドリブを奏でる」、「常識を打ち破る」の3つを他のメンバーにも問いかけ、それを集約した言葉として、クリエイティブディレクターの工藤駿さんが「生きるを、啓く」というキーワードを出してくれました。
YADOKARIの周辺では、クライアントも含め関わった人たちがYADOKARIらしい言葉を発するようになって、チャレンジングに変わっていくということがよく起きるんです。これまでの枠組みから飛び出して、自分の人生を拓いていく。そういった文脈も含めて、YADOKARIの根幹を「生きるを、啓く」というキーワードに落としこみました。
立石さん(以下、敬称略):昨今は人も会社も組織も、ありとあらゆる存在や形態が規定されすぎてがんじがらめになっていますよね。「これはこう」と常識化され、規定されてしまう「存在の植民地化」がありとあらゆるもので起きている。そういった状態から解放する「存在の脱・植民地化」、「存在の百花繚乱(※)」が自分の大きなテーマでもあり、僕はそれをコーチングとプロコーチ養成のビジネスで地道にやっておりました。しかしそのテーマをなんと! 会社レベルで実現しようとしているYADOKARIに出会い、伴走させていただくことになったという経緯があります。
現代では、個人の意識が成長し、自己実現や自己超越の次元で生きていこうとする人ほど、社会が個人に求めるレベルや社会的に構成され共有されるシステムから逸脱してしまい、生きづらくなってしまうんです。なので個人の進化の前に社会構造そのものがレベルアップされなければならない。そんな社会変革を介して、がんじがらめになっているあらゆる存在、魂を解放していくことができたらと考えていました。そんなタイミングに、YADOKARIの文化圏に触れることによって、その人の「生きるが啓かれていく」という表現に出逢いました。まさに自分がこれまでコーチングの領域で探求してきたテーマである”意識を啓く”と一致し、胸が高鳴りました。
※百花繚乱:種々の花が咲きみだれること。転じて、すぐれた人・業績などが一時にたくさん現れることをいう(広辞苑)。
森田:私がYADOKARIに出会ったのは、東京都心のオフィスに通い、会社員をしていた20代後半の頃でした。オフィスでは灰色のパーテーションで仕切られた灰色の机に座り、勤務時間も決められ、規定の枠に収められるようにして毎日を過ごしていました。そんな中でふとYADOKARIのFacebookを見つけたんです。さわださんと上杉さんが2人で移動する暮らしにまつわる記事を発信していた時期で、それを見て「これだ!」と思いました。
上京して、何千・何億の値段がついた狭い土地を買い、一生をかけたローンを背負って小さな家を建て、ローンのために働き続ける。私は山も畑も田んぼもあるような広々とした田舎で育ったので、家のためにそんなふうに生きなければならないことに違和感がありました。そんなときに画面越しにYADOKARIさんに出会って、「なんて素敵な生き方を提案しているんだ」と、自由への匂いを感じてファンになりました。それから仲間がどんどん増えて今に至り、YADOKARIのフィロソフィーもどんどん解像度が上がってきて、「生きるを、啓く」に至ったのかなと、お話を聞いていて感じました。
立石さんにお伺いしたいのですが、存在が植民地化している状態には、どうしたら気付くことができるでしょうか?
立石:今の自分にとって異質なものに触れて、違和感を抱くことですね。物事を合理化や均衡化の面だけで選択することは非常にリスキーで、自分自身が抱く違和感を信じることが大切ではないかと思います。自分のなかにある要素が反応して「何か違う」と感じているのに、”違和感”という曖昧な言葉にしかならないということは、自分のなかで未だ意識化されていない何かが生まれ出ようとしているということ。植民地化されている状態に気付くには、違和感を大切にして、限定的な物差しではなく多義的な角度で物事を見る必要があるのだと思います。それぞれがそれぞれの美を体現する社会、同一性だけではなくむしろ差異性が歓迎される社会。そんな日常が受容される社会になれば、こんな努力は必要なくなるのでしょうけれど。(笑)
森田:私は”違和感”を動機に行動することが多いように思います。実は3歳ぐらいから、社会にいつの間にか当てはめられた常識のようなものに違和感を覚えていて。幼稚園に入って初めて「社会」に触れたときに、幼稚園のバッグが男の子は青、女の子は赤と決まっていたのですが、「女の子だから赤のバックを選ばなきゃいけない」ことに強い違和感があり、私だけ黄色のバッグを使っていたんです。
上手く言葉にできないけれど、何か違う。そう思うことがあっても、「そういうものだから」と言われると、そのまま飲み込んでしまうことが多いですよね。それにどこまで敏感に気付いて、違和感を大事にする勇気を持てるか。そして大事にする余裕を社会が与えてくれるか。現代は「それはそういうものだから」とあまり猶予を与えてもらえない社会のような気がしています。私は黄色のバッグを選んだときの自分がずっと続いていて、しっくりくる居場所を今も見つけることができていません。だから私は、旅をしているんだと思います。
立石:森田さんは移動や旅を通して、「ご自身にとって真に美しい世界は、物理的な世界ではなく心の内にあるんだ」ということを思い出すような生き方をしてらっしゃるのでしょうね。「暮らし」にはもちろん物理的・肉体的な面もありますが、僕は「内なる聖なる暮らし」という言葉をよく使っています。内なる暮らしというのは、物理的に「何をするか」ではなく、自分自身の真心が何に反応し、何を美しく感じるかということ。人は自分の内側に美しい居場所があって、そこで自分らしく生きていくことさえできていれば、外側の環境でどんなことがあっても自由でいられるのではないかと思います。
さわだ:高いローンを組んででも家を建てることが一般化していることからも、社会には定着することへの信仰が根強くあるように思うのですが、定着しないことの怖さはないですか?
森田:土地に根差すと積み重なっていくものがわかりやすく見えますが、流転していると積み重なりが見えづらいので、不意に孤独を感じたり、自分はこの先どうなっていくんだろうと一抹の不安や空虚感を覚えることもあります。だからこそ私は、YADOKARIが創るYADOKARI国に住みたいと思っているんです。「コミュニティ」というと土着のローカルコミュニティをイメージすることが多いですが、世の中にはテーマや美意識、哲学に基づいたコミュニティも存在しますよね。さっきの内なる暮らしのように、心の内にYADOKARIの国があって、場所も時間も年齢も問わず、自分がここにいて良いと思える文化圏があって、私がそこに住んでいると実感できれば問題ない気がします。
中心点が無限にある組織を目指して
さわだ:僕は最近、会社の体制や制度を社員に伝えていくときにバリアを貼られていると感じることがあります。僕はみんなのことを「魂の植民地化」から解放したい、できると本気で思っていますが、今までの経験や世の中にはびこるものによって、”搾取されるかも”という思考の癖が染みついているのかもしれません。僕は自分が搾取する側に回ったら自分の美学に反すると思っているし、既存のそういったものを本気で壊すつもりでいるけれど、文化圏の中心を固めようとしている今、この本気をどう伝えていくかはすごく難しい課題だと感じています。
立石:大乗仏教を代表する経典の一つ、華厳経の宇宙観は、YADOKARIが目指す組織の在り方に通ずる部分がありますよね。さわださんの中にさわださんの宇宙があって、その宇宙にみんなが映っている。僕には僕の宇宙があって、僕の宇宙にさわださんも映っている。こんな風に一人ひとりのなかに宇宙があって、中心点が無限にある組織になったら、人の数だけ正解が存在することを認められますよね。そんなお互いにお互いの宇宙を映し合う組織にしたいと、以前さわださんと話したことがありました。
さわだ:お互いに作用し合うということですよね。それも端と端に極端な概念が存在する一本の直線があるのではなく、ありとあらゆる方位に対極的な概念が重なりあって、それをメタの視点で見たら球体のように広がっている。それをさらにメタで見たら宇宙になっている。そんなふうに組織を作っていけたら理想だなと思っています。
森田:「さわださんの中に私の宇宙も映っている」という今の話を聞いて、すごく楽になりました。「我=汝」というように、自分を取り巻くすべての人の中に自分の宇宙も映っている、内在しているとみんなが思えたら良いですね。
YADOKARIの目指す未来については、鼎談の後編に続く。