【後編】YADOKARIメンター対談 Vol.1「YADOKARI文化圏」の創造に向けて

「世界を変える、暮らしを創る」をビジョンに掲げるYADOKARI株式会社(以下、YADOKARI)。YADOKARIのフィロソフィーに共感し、それぞれに専門性を持った方々をメンターに迎え、これからの新しい組織の在り方を日々模索している。そんなメンターの方々との対話を通して、YADOKARIの現在地、そしてこれから目指すべきものについて理解を深めようと始まったのがメンター対談シリーズだ。

今回は共同代表のさわだいっせいが、2022年からYADOKARIの組織開発・人材育成顧問を務める立石慎也氏、YADOKARI編集部の中核を担うライター・森田マイコ氏と行った鼎談の後編をお届けする。

▼前編はこちら
https://yadokari.net/interview/85377/

魂の脱植民地化を果たし、「生きるを、啓く」ために

メンターの森田さん(写真左)と立石さん(写真右)。鼎談は、YADOKARIが市政100周年を迎える川崎市の新庁舎周辺で2024年3月1日〜31日に市と連携し開催した実証実験「カワサキミーツ!!!」の会場で行った。

森田:後編では未来に向けたお話をお伺いできればと思うのですが、 誰もが魂の脱・植民地化を果たし、「生きるを、啓く」ためにはどうしたら良いのでしょうか?

立石:ソース(源泉)に基づいて、魂に筆を預ける生き方をすることだと思います。ソースというのは“何かをしたい”という動機、魂の声のようなもので、僕はそれを”本来性authenticity”という言葉でお伝えすることが多いのですが、それは物質の分子に至るまで、この世のすべての物に存在しているのではないかと思っています。会社を経営したり事業を推進するにあたってやらなければならないことはたくさんありますが、その人が本当に魂の声に共鳴している活動であれば、モチベーションという発想がなくなるんですよね。

森田:モチベーションをアップしようとしている時点で、それはソースに基づいた行動ではないということですね。自分のソース、魂の声にはどのように気付くことができるのでしょう?

立石:分かりやすく言うと、違和感と怒りを持つことが大切だと思います。怒りというのは、自分の美意識や直観に従って「この場所にこういう椅子があるのが許せない!」という感情を持つことですね。「なんとなく気に入らない」ではなく、「ありえない!」と怒りが湧いてくるもの。このようなエゴを超越した本心からの怒りがあると、自分のソースに気付くことができるのではないかと思います。その怒りは、合理性や客観性を超越し、多様なエゴを包含した我汝な意識に根ざすロックな在り方から生じるスパークのようなものです。僕は、さわださんの着想や活動のベースはそういう怒りを帯びているのではないかと感じています。

さわだ:確かにそうですね。10代の頃から、親や先生、社会など、自分を枠にはめようとするものへの怒り、反抗心が強かったので、それが抑え切れなくなって、音楽を始めて上京しました。怒りというのはその人の大事にしているものやコンプレックス、壊されたくないもののシグナルでもあるので、自分がどうなったらカチンとなれるかを紐解く大切さについては、社内でも話をしています。

森田:なるほど。違和感と怒りによって自分のソースに気付くことができるのですね。一人ひとりが個に内在するソースを知ると、組織にはどのような影響があるのでしょうか?

さわだ:YADOKARIという組織は全体が相関し合っているので、それぞれが自分の自由ややりたいことを追求して個が成長すると、会社全体が強くなっていく感覚があるんです。会社が強くなると社外とも影響を与え合うことができるので、それが連鎖すると社会が変わり、地球が変わっていくのだろうと思います。

みんなでYADOKARIという神輿を担いでいるような感覚で、担いでいるうちにオーディエンスが集まってきて、彼らも仲間に加わってくる。そしてソースに基づいて「こっちに行きたい」と声を上げた人の方へ、神輿が動いていく。誰かが声を上げる人になっても良いし、声を上げる人がどんどん移り変わっても良い。そのエネルギーが社会に向かっていくような組織にしたいと思っています。

立石:共通の精神がありながらも、ソースに従うと一人ひとりやることも向かうベクトルも異なるので、多様性が生まれるんですよね。多様性が生まれるけれど、そこには共感も共鳴もあるから、共創が起きる。そうすると、複雑性を帯びた組織だからこそ、いろいろな人と共鳴できるし、新しい何かが生まれる。文化圏の中に複雑性を保持しつつ、深層や中核が共鳴し合う日常が実現できたら、理想的で美しいなと思います。みんながそれぞれに自分自身の魂の声に基づいて生きるようになると、仕事という感覚は薄れていきますよね。

さわだ:自分の生き方と仕事が一体化した状態になるのでしょうね。

立石:そうなるとその文化圏に触れた人は、感染症のようにみんな、自分の「生きるを、啓く」ようになる。それをやり切っている組織は世界にまだないような気がしていて、僕はYADOKARIならそれが実現できると期待しています。

カオスに寛ぐ在り方

立石:いろいろなものが脱・植民地化されてカオスになると、「普通」というものがない状態になっていく。そういう状況の中で生きていくために、「カオスに寛ぐ在り方」というモードが一助となると思います。

森田:カオス、つまり混沌とした状態に寛ぐには、どういう意識が必要なんでしょう?

立石:「今までこうだったからこうする」と、これまで自分自身が育んでは慣れ親しんできた秩序(コスモス)に従うのではなく、自分のソースを信じて魂に筆を預けること、エゴの求心性から距離を置くことを選択できる意識が必要なのだと思います。

「秩序が保たれているのが良い状態」と思われがちですが、秩序には、その秩序を脱構築する躍動(アンチコスモス)が内在しているという思想もあります。規定された秩序を疑い、コスモス依存症に気づき手放すこと、つまりアンチコスモスの風に乗ってみることからその意識は啓かれるでしょう。そして、少しずつ、秩序もカオスも自在に扱い、どちらも味わうことができるようになっていく。そんな意識を抱く人々が集う組織になれたら、脱植民地化され混沌とした社会で、互いに励まし合いながら、それぞれがそれぞれにアーティスティックに生きることができるのではないでしょうか。

僕が出逢ったプロのアーティストさんは、自分が意図してできあがった作品よりも、筆をとって気付いたらできていた作品の方が美しいとおっしゃる方が多いんです。アーティストのように自分の根底から湧き上がる躍動そのものに自分自身を委ねること。カオスに寛ぐ生き方にはそんな一つの側面もあると思います。

森田:自分の奥底から湧き出るソースに委ねながら生きる。それが人々の間で同時多発して、それぞれがそれぞれの宇宙を映し合うということですね。今のお話を聞いて、YADOKARI文化圏にいる私たちは、それぞれのソースを持ちながら、一つなんだなと思うことができました。立石さんの中に私の色も入ってるし、私の中にさわださんの色もあるのを感じると、とても安心します。

立石:僕はそれを、無限なる可能性を秘めたカオスだと思っているんです。いかなる制限もなく、いかなるものでも生まれ出る状態ですね。

森田:本当の混沌ということですね。混ざり合っていて、生まれるし、戻れるし、また生まれるし、循環もするという。そういう文化圏が、きっとYADOKARIの周りで作られていくんだろうなと私は期待しています。そういう組織だったら、私も会社員になれそうです。

立石:“本来性”とは魂の声、その人がこの世に生を受けた存在意義のようなもので、美意識や創造性は本来性と仲良しです。一方で“社会性”は、一般的な言葉で言うと道徳や倫理を意味します。多様な存在同士が共存し合うためのプロセスやメカニズムを構築したり、それらにうまく適応したりするのが社会性です。この二つはしばしば対立してしまうものですが、霊性的な知性は、うまくこの二つのバランスをとったり、統合したりしてくれます。カオスに寛ぐ在り方は、霊性的な知性が高まるほど豊かになる印象があります。

森田:なるほど。社員全員が霊性的知性を備えた状態で、ミーティングや議論ができる会社があったら良いですよね。

立石:それはなかなかすごいですね。そういった共通理解を前提とする文化圏から、何かを生み出そう、変えていこうと創り出されたものは、きっと最高だろうと思います。

森田:そうなったら、留まるところを知らない果てしのない欲望はなくなりそうですよね。何もかもを生む無限のカオスに寛ぐ在り方が、豊かな在り方のような気がしています。それが会社という組織、ビジネスのフィールドでできたとしたら未来は明るいなと思います。

YADOKARIの目指す未来と美しさ

立石:経済性に上手に順応しないと生きづらく、キャリアも市場にふさわしいものでないと対価を得ることが難しい社会では、市場が求める水準に適応している人は生きやすいし、逸脱すると生きづらい。今は規定から外れた存在は”出る杭”として打たれてしまう状況だけれど、存在の本来性や多様性を受容する社会全体の水準が上がれば、人はそこに順応して成長していく生き物だと思うんです。

社会の水準を押し上げるのもその社会で生きていくのも個人なので、誰かがリーダーシップを発揮して特定の色に世界を変えていくというよりは、一人ひとりが日常の暮らしにその人らしさを滲ませて、その多様性や複雑性が社会を常に新鮮で純粋な玉虫色に変えていく方が自然だろうと思います。その玉虫色に生命が宿るには、表層的な暮らしや佇まいはそれぞれに異なるけれど、内なる聖なる暮らし、つまり「祈り」は共鳴していることが必要でしょう。多様性を抱擁する美しくオーガニックなこの玉虫色の「文化圏」は、そこで相互浸透する多彩な存在を脱・植民地化していき、多義性を取り戻した豊かな暮らしが、その美しい佇まいが、世界を日常から変えていくのだと思います。このビジョンは、僕自身の希望のシンボルでもある「存在の百花繚乱」とも重なり、授かった生命を遣わせたいと心から願う希望の一つになりました。

YADOKARIはこの希望を資本主義のど真ん中で目指してらっしゃる。組織メンバーのそれぞれの日常的な暮らしを起点として、チーム、組織へと相互に循環しながら拡張し、そのムーブメントが「文化圏」として組織を超えて社会、世界へと滲み出していき、新たに出逢う多様な存在との化学反応によって「文化圏」がアップデートされていく。そんなビジョンが実現することができたら、なんと美しい景色になるだろうと心から楽しみにしています。

森田:今のYADOKARIは伸び盛りの成長期に見えるけれど、より大きな時間的尺度で見ると、タイニーハウスやYADOKARI文化圏の周りに、循環型の豊かな生態系をつくり出す種を撒いているフェーズなのだと思います。

私は地球や人をむさぼり食うような成長は美しくないと感じているので、企業や人々の「経済的成長」への美意識の持ち方を注視しています。本来地球は豊かで、再生力の範囲内で暮らしていれば資源は無限に与えられるようになっているので、その本質的な「足るを知る」が美意識のような気がしています。最近は意識のレベルが高まっていて、個人だけでなく、YADOKARIのように法人がこういった美意識に基づいて活動をしているので、常識が再創造されそうな気配を感じています。霊性的知性を持ち、目の前のビジネスや活動にYADOKARIらしく仲間と共に取り組んで、「社会変革だ」、「社会課題の解決だ」と声高に言わなくとも結果的に世界が変わっている。YADOKARIが創るそんな未来に、とてもワクワクしています。

さわだ:18歳でミュージシャンを目指して上京した頃は、とにかくビッグになってやろう、お金持ちになって大きい家に住んでやろうという気持ちでいました。その後一般企業での勤務を経て、フリーランスとして稼げるようになってきた頃に東日本大震災が起きました。この震災が自分にとって衝撃的で、死を身近に感じたときに、名誉やお金は持ってけないと改めて気付いたんです。そこで研ぎ澄まされたミニマルな暮らしを目指したいと、YADOKARIをスタートしました。YADOKARIの文化圏を広げるにあたって、自分たちのあるがままの精神だけではたどり着けないその先の景色を見るために、ベンチャーキャピタルから資金を調達して資本主義の力も借り、自分も身をすり減らしながら、次のステージを目指しています。

幸せには欲的なプラスのベクトルと、削ぎ落としていくマイナス・リセットなベクトルの2種類があるように感じていて、世界を見ると資本主義とそうでないものの間を生きようとしている人たちが存在します。目の前の家族や仲間、小さな豊かさを大事にしつつ、メタで見てそれを広げていく。その2つを同時に思考するのは難しいですが、少しずつそういった人たちが集まって力を蓄え、グラデーション的に社会が変わっていくのかもしれないなと思っています。それが何かに囚われたり縛られたりしている人たちを解放するのかもしれない。資本主義とそうでないものの間でバランスとるのは難しいからこそ、それをやることは美しいと信じています。