【鏡祭トークセッション④「悟」さとり】過去とこれからをつなぐ癒しの物語

2024年7月6日、YADOKARIは創業10周年を記念して、1人ひとりが自分の人生を取り戻し新しい世界を創っていくために、“自分と、他人と、世界と向き合い、共に行動するための集い”「鏡祭」を開催した。イベントテーマ「180 〜めざす、もがく、変わる〜」の下、各界のゲストを招き、今向き合いたいイシューについて行った4つのトークセッションの様子を、YADOKARIに関わりの深い3人のライターが「鏡」となり、映し出す。本記事は、セッション④「悟」のレポートだ。

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会場となったのは東急プラザ表参道オモカド内にある「LOCUL」

はじめに

空を切り裂く稲妻と、パァーンと何かが破裂するような鋭い雷鳴、滝のごとく降りしきる雨が続いていた。午後から首都圏を覆ったゲリラ豪雨で、表参道と原宿の交差点はみるみる冠水し、道路は川と化していた。この嵐の意味は? 私にはそれが、何か巨大な変化の前触れであるように思えた。

今やデファクトスタンダードと言ってもいいほど普及したクラウドファンディングサービスを運営する経営者と、YADOKARIのさわだが「悟り」について対話する。世の表象では科学や資本主義が依然として覇権を握っているように見えるが、潜象ではすでにそうではないのかもしれない。失われた30年と呼ばれる時代をインターネットの黎明と共に新しい世界をつくることで生き延びた、私と同世代の経営者である彼らが今、どのような心境に至り、どのような未来を見据えているのか。嵐の中から穏やかな佇まいで会場に現れた家入氏が着席し、この日最後のトークセッションが始まった。

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◆セッションテーマ:悟|さとり
悟りの民主化、コモンズ、互助、これからの会社組織と宗教組織

【ゲスト】

●家入一真|株式会社CAMPFIRE 代表取締役(写真左から2人目)
2003年株式会社paperboy&co.(現GMOペパボ)創業、2008年JASDAQ市場最年少(当時)で上場を経て、2011年株式会社CAMPFIRE創業。2012年BASE株式会社を共同創業、東証マザーズ(現グロース)上場。2018年ベンチャーキャピタル「NOW」創業。Forbes JAPAN「日本の起業家ランキング 2021」にて第3位に選出。

●さわだいっせい|YADOKARI 代表取締役 / Co-founder(写真右から2人目)
兵庫県姫路市生まれ。ミュージシャンを目指し上京。デザイン専門学校卒業後、アートディレクター/デザイナーを経て独立。2013年YADOKARI創業。逗子の海近くのスモールハウスをYADOKARIで設計、居住中。

●荒島浩二|YADOKARI 執行役員(写真左)
東京都台東区生まれ。鎌倉在住。コミュニティ型の住宅・ホテル・オフィスを一通り経験した後、2021年にYADOKARIジョイン。

●伊藤幹太 |YADOKARI ブランドフィロソファー(写真右)
神奈川県横浜市生まれ、新宿在住。2019年にYADOKARIへジョイン。自社施設「Tinys Yokohama Hinodecho」の運営を経て、公園・広場・団地などを舞台とした地域活性化支援や、タイニーハウスの企画・開発業務に従事。2024年から、ブランドの精神・思想・哲学を探究し、文化圏へ浸透させていく役割「ブランドフィロソファー」に就任。

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「悟り」というテーマの理由と自分の無価値感

伊藤: 今日の「鏡祭」ではトークセッションを4本やっていて、1本目のテーマが「祈 いのり」、2本目が「縁 えにし」、3本目が「馬鹿 ばか」で、ここで場が荒れまして。(笑)その後の4本目「悟 さとり」が、家入さんをお迎えしての今ということになってます。

さわだ: トークセッションで泣かされる人がいたり、怒る人がいたり…。

伊藤: うちっぽいですよね。

さわだ: うちっぽいです。「生きるを、啓く」です。

家入さん(以下敬称略): そうなんだ。

伊藤: 今回の4つのセッションテーマは、YADOKARIメンバーの中から「今、このことについて向き合いたい、考えたい」というのを抽出して設定したのですが、「悟り」を選んだのがさわださんなんですよね。どういうきっかけからですか?

さわだ: 約1年前、僕は会社を半年ほど休んでいたんです。理由は、僕と上杉で創業したこのYADOKARIという会社が資金調達もして大きくなっていく中で、子どもが親離れしていくように、自分の手からどんどん離れていってしまう感覚があり、距離の取り方が分からなくなって、「僕の存在価値は無いんじゃないか」という所に行き着き、ズドンと落ちてしまって。

そこから半年休んでいる間に、最初のうちは「上杉ムカつく、なんで分かってくれへんねん!」みたいな(笑)怒りが噴出してたんですが、休むことで肉体に蓄積していた疲労が抜けていくと、少しずつ精神も回復していき、落ちるのも底をついた感じになった。それから散歩や釣りに出かけるようになって、休養期間の最後の方は「なんて幸せな毎日だろう」と思うようになり、僕自身にこれまで経験したことのない変化が起きたんです。

これまで僕はどちらかというとアーティストタイプで、何かをつくっては壊し、さらに新しいものをつくってまた壊し…みたいなことを繰り返してきて、それが自分の美学だったんですよね。でもこの時、底まで落ちて僕は変容し、「利他的な精神」というか、家族や周りの人に感謝しないとなとか、遊びに来てくれるYADOKARIメンバーへのなんて良い奴らだろうという思いが心底湧き上がってきて、これからは自分のことよりも他者や社会へ貢献すべきだなと使命感のようなものに駆られる瞬間が訪れたんです。

そうしていくことで地球や宇宙にも良い影響を与えることができ、全てが一つになっていくんじゃないか。どこかで聞いた「ワンネス」的な感覚に包まれた瞬間があったんですね。それでその感覚に興味が湧いて調べるうちに、それは「悟り」というものに近いんじゃないかという考えに至って、ますます興味が強くなったというわけです。

今まで信じていた自分の「エゴ」みたいなものが死んで、新しい自分になったようなこの感覚。それは「変容」というものだと後で知ったのですが、こういう体験をくり返していくと、さらにヤバイ人になるのかなって(笑)

伊藤: 家入さんはこの「悟り」というテーマで僕らがトークセッションを依頼させていただいた時、どんなことを思いましたか?

家入: 僕がなぜこのテーマで呼ばれたのかで言うと、僕は数年前に浄土真宗で得度*①しているんです。出家みたいなものですね。もともと宗教学には興味があり、本などを通じて個人的に学んでいたのですが、いろいろな宗教の中でも仏教の教えが哲学として僕にすごくフィットした。身近な人の死などを発端に、親鸞の考え方に触れ、「この人のことをもっと知りたい、いや、むしろ親鸞を超えたい」というような動機から浄土真宗での得度に至りました。それで呼んでいただいたのかと思ったんだけど。

先ほど無価値感の話が出ましたが、僕も20歳くらいで最初の会社を立ち上げ、その後いろいろな会社を25年ほど経営してきて、いまだに僕自身がどんな価値を提供できているのか分かっていないんです。確かにゼロイチの立ち上げは言い出しっぺでやり始めるけれど、そこから先はいろんな人たちの力で事業が進んだり成長したりしていく。僕はいまだに財務諸表の読み方でさえ独学。ただ、ずーっと自分がどんな価値があるかわからないから挫折もないし、最終的に「僕はここにいていいのかなぁ」という感じになることが多い。今も透明度が高まって来てる。

さわだ: 後ろが透けて見えます(笑)

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*①:仏教の修行者が正式に僧侶になること。一般の人が出家して僧侶になるための儀式や手続き。

「悟り」とは、世界の見え方が変わること

伊藤: 家入さんの言葉を僕なりに捉えると、家入さんはどの会社でも、経営者という立場であっても、そこに家入さん自身そのものとしていらっしゃったということではないかと思いました。

家入: そう言ってもらえると救われますが、それを「自分で分かってそうしている」感じだと、嫌な感じじゃないですか? 「僕はこうだから」みたいな、開き直りや甘えのような。僕はそれとは少し違うんですよね。

伊藤: 実は今年、10周年のYADOKARIが新しいパーパスを設定しました。それが「生きるを、啓く」という言葉ですが、このプロジェクトにあたりYADOKARIのメンバー全員にけっこう時間をかけてインタビューしたんです。「あなたにとってのYADOKARIって何?」と。僕らは日頃、タイニーハウスや暮らしのメディア、まちづくりなどの文脈で知っていただくことが多いのですが、メンバーからはそういう話は全然出てこなくて、「“YADOKARIらしさ”というのは、ここにいて自分の人生が変わっていくこと。僕らがYADOKARIにいる理由は、自分の人生を在りたい方向へ啓いていきたいからじゃないか」という話がたくさん出てきた。僕らがお仕事でご一緒した方々のポジティブな反応として、会社を辞めて次の新たなステージに飛び出していくケースが多いのですが、僕たちが活動することで関わってくださる人の「生きるが啓かれていく」としたら、こんなに嬉しいことはないよねということで、この言葉をパーパスに据えたんです。

そうした時に、僕らYADOKARIが目指す組織の形として、メンバー一人ひとりの「生きるが啓かれていく」組織、その人がその人のままであることを許容できたり、その感覚を育てていけたりする組織ができないだろうかと考えていて。この「生きるを、啓く」と「悟り」は近い所にあるんじゃないかと感じているんですよね。

家入: なるほど。仏教的な言葉としての「悟り」で言うと、仏教は「生きるとは苦である」から始まります。その苦から解放されるためにさまざまな教えや無常無我などの概念、真理を追求していき、最終的に苦しさから解放されるというのが「悟りをひらく」ということになります。だから僕は、悟りをひらくとは、悟りをひらいた「状態(ステータス)」をいうのではなく、それを常に追い求める「態度」のことをいうのだろうと思います。仏教でも、悟りはひらいて終わりではなく、その先がまだあると言っている。生きるのは苦しい。そこで悩み抜いて、あらゆる感情や執着を手放していって、行き着いた先に悟りがあるとするならば、確かに自分自身は穏やかな気持ちでいられるかもしれませんが、側から見たら廃人同然かもしれない。それが本当に幸せなのかは僕にも答えが出ていません。別の言葉で言うと「ウェルビーイング」とか「より良く生きる」ということになるのかもしれないけど、それと「悟りをひらく」が本当に同義かどうか、そして、それが幸せなのかどうかは分からないです。

荒島: 今日僕が家入さんに聞きたかったことの一つが、聞けたかもしれない。悟りとは「点」なのか「線」なのか、ということ。状態ではなくプロセスなのかをお聞きしたかったです。

家入: 僕は悟りをひらいたことがないので分かりませんが(笑)、線というか、「態度」のことだと思います。苦しみの後に訪れる感覚に近いのかもしれない。悟りをひらくというのは、僕らが今目の前にしている現実の見え方に対して、全く新しい認識の仕方を体得することなんだと思います。その体得の仕方はいろいろあって、死のような大きな出来事がそうさせる場合もあるし、厳しい修行の末に体得するものかもしれない。でもこれは「点」で急にポンと来るものではなく、そこに至るまでの過程のことをいうのだろうと思います。

仕事と悟りの交差点

伊藤: 「悟り」の輪郭を教えていただきましたが、今僕らはYADOKARIという組織として、「働く」とか「仕事」の中でそれに出会っていけないか、生きるを啓きながらYADOKARIという会社をやっていけないかということを、大きな問いとして持っているんです。家入さんは会社経営や仕事のフィールドにおいて、悟りのような場面が交差していることはありますか?

家入: 今の問題提起は「仕事とはそういうものではない」という前提がありますよね。その一方で「自由」みたいなものがあって、その交差点はあるのか、というお話。それで言うと、皆が皆できることか分からないし、僕が今の立場にあるから言えることだよと言われてしまいそうですが、僕は20数年前に会社を始めてから今に至るまでずっと、家族や会社のメンバー、仕事相手、遊び友達などを、全部混ぜ合わせているんです。こういうイベントにも家族が来るし、仕事の場でも境界線を曖昧にしていくことを大事にしていて。仕事とプライベートというだけではなく、いろんなことにおいてそうしています。境界線をつくってゼロか1かとしてしまった方が人間は楽なんですよね。例えば俺は仕事一本でやっていくと決めたから趣味の時間は全部捨てる、みたいに。でも本当はその間のグラデーションに大事なものがたくさんあって、経営者だけどギターがすごく上手いとか、そんなゼロと1の間をどうつくっていくかをすごく考える。仕事もその中に溶かしていく、みたいな感じです。

さわだ: これからの会社組織は、働く人個人の幸せや、その人がどう生きるか、どう在りたいかということが、会社のビジョンや方向性に合致している必要があるんじゃないかと僕は思っていて、それをYADOKARIで実現したい。家入さんが言っていた一つに融和していく、プライベートも仕事も人生も全てを包括していくことが必要じゃないかと考えているんですが、会社経営の中で、個人の幸せや思いについてどんなふうに捉えていますか?

家入: 会社は誰のものか?という議論ってありますよね。株主のもの、社長のもの…いろんな見方があるけど、僕はそこにいるメンバーのための居場所であると捉えています。その居場所で一人ひとりが気持ちよく働けることによって良いサービスが生まれ、お客さんに届き、数字となり、株主も喜ぶかもしれない。そういう構造であるべきだと思います。ただ、やはり全ての不安や不満を取り除けるわけではないということも、一方ではあきらめとしてあります。

さわだ: あきらめ…?

家入: 「あきらめ」というのは、これも仏教的な言葉で、本来はネガティブな意味ではなく「明らかにする」ということなんです。いろんなものを手放していくことでもあります。例えば自分がこうなれるとか、モテたいとか、そういう感情がポジティブに自分をモチベートして行動につなげられている時はいいのですが、いつか無理が来た時、心はしんどくなってしまいます。だからそういう感情や執着を一つひとつ手放していくことが、真理に辿り着くための道であると仏教では言われます。だから「明らかにする」と「あきらめる」は同じ意味で、決してネガティブではない。

僕は居場所づくりも行なっていますが、全ての人を受け入れる場所をつくるのは無理があって、僕らだからこそやる、僕らがやるべき対象の人たちにやる、ということが大事かなと考えています。心が疲れて学校や会社に行けなくなってしまった人がたくさんいたので、彼らが寝泊まりできる「リバ邸」という駆け込み寺のようなシェアハウスをつくったのですが、ある時、重い鬱病の方が来てしまい、場がクラッシュしてしまったことがありました。全ての人の居場所をつくるんだという気概でやっていたけど無理だった。それである先輩に相談したら、「全ての人を救おうだなんておこがましい」と。リバ邸にはリバ邸だからこそできることがあり、世の中にレイヤーのように重なるいろんな居場所をつくっていくしかないし、それはリバ邸だけがやることではない。そういうレイヤーが網目のように重なる世界では、社会から人がこぼれ落ちたとしても、どこかの層で何かしらの網目に引っ掛かる可能性が生まれる。その網目をどれだけ増やしていけるかが大事なんだと話をされて。

だから会社を「居場所」と捉えた時に、全ての人の居場所になるとは思っていないんです。もちろん今いるメンバーとそういう場所にしていきたいという思いはあるけれど、人生は流れる川のように出会ったり別れたりしながら進んでいくものなので、一人ひとりに執着しすぎて「絶対にこの人は手放したくない!」と心乱すよりは、またいつかどこかで一緒に仕事しようねという関係の方が健全だと思います。それでまた戻ってくる人もいますし。

でも難しいなと思うのは、一人ひとりに対してあまり執着しないというのは、自分自身が心穏やかでいられるやり方ではあるけれど、本当にその人のためを思ってやっているのか、ただ自分が傷つきたくなくてそういう態度に行き着いたのか、僕の中でも答えは出ていません。

さわだ: 経営者は傷つくことも厭わないというか、目の前の壁を大きなストレスを抱えてでも超えていく、そのために生きてるぞ!みたいな人もいますよね。

家入: 僕はそんなふうに生きたくはないですよ。でも経営だけでなく、僕は僕の人生の中でいろいろな傷を得てきたので、その中で結果的にこういう経営スタイルになったんだと思います。できることなら傷つきたくないですねぇ(笑)

数字を追うことと執着を手放すことの折り合い

荒島: 今の、執着しないとかあきらめるというお話は、人材などに関してはそうかもしれませんが、例えば数字を追わなきゃいけない時などは、どんなふうに折り合いをつけていらっしゃるんですか?

家入: これは逃げるような答えになってしまうかもしれませんが、僕らにも僕らの目標数字があって、社内会議などでそれに対してどうこう、という場面がありますよね。そこで僕がする話としては、そもそもなぜ数字を追わなきゃいけないんだっけ?という所から始まります。僕らのミッションは「一人でも多く一円でも多く、想いとお金がめぐる世界をつくる。」というものですが、こういう世界をつくるという目的があって、その上でどう「インパクト」を出すかという話があって、それが数字になり、結果的に社会に対する約束になっていく。なぜ数字を達成しないといけないかというと、僕らのミッションを達成するためにやるべき、やらなきゃいけないんですよね。みんな日々、自分の持ち場でタスクに追われていると、なぜ自分がこの仕事をしているのか分からなくなる瞬間がある。その時に目標を立てたからやらなきゃいけないのではなく、この山の向こう側の世界をつくりたいから、そこに行き着くために、この社会に対する約束を実現していかなくちゃいけないよね、それをブレイクダウンしたのが数字である、という視座を持てるようにすることが大事かなと思っています。

伊藤: 僕らにも見たい世界があって、そのためにやっていきたいことと、それを支える指標や数字があるはずで。こんなふうに生きていきたいというビジョンを描くけれども、日々が自動操縦になってしまった瞬間にこぼれ落ちていく「怯え」や「恐れ」のようなものがある気がしています。それはYADOKARIだけじゃなく、今日来場してくださった方全員にあると思う。そういうことにちゃんと向き合う機会をつくりたくて企画したのがこの「鏡祭」というイベントで、これは毎年やっていきたいと思っています。家入さんの経営者としての日々の中に、「小さな鏡祭」みたいな瞬間がたくさんあるのかなと思いました。

山の向こう側を信じる

伊藤: 「生きるを、啓く」というパーパスを議論している際、これは一人でもやれそうじゃないか?という問いもありました。会社である必要があるのか?と。

さわだ:  僕は「生きるを、啓く」をYADOKARIに設定してから、YADOKARIの中で起こるすべてのことをあきらめないと決意したんです。皆にもそう在ってほしい、YADOKARIは本気で人生を変えようとする場で在ろう、と求めてしまう。

家入: そんな一面があるんですね。荒島さんは、これをどう感じているんですか?

荒島: 僕はけっこう共感しています。

さわだ: 荒島には、ふだん僕は全然共感されないんですよ(笑)

荒島: でも僕は、「生きるを、啓く」に対する共感度は社内でも高めじゃないかと思うぐらい共感してます。家入さんは、「一人でも一円でも多く…」という“山の向こうの世界”を強く信じていらっしゃるじゃないですか。それをあきらめないという気持ちと、物事にあまり執着しないという仏教的な心境とは、どういう整合性になっているんでしょう?

家入: 難しいのでうまく説明できるか分かりませんが、僕らがCAMPFIREを立ち上げたのが東日本大震災の直後だったんです。あの震災は、地方の課題を浮き彫りにしましたし、被災された方だけでなく多くの人が、短期的なものではなく長期的なものとして価値観の変化を強いられた出来事だったと思います。その最中で僕らはCAMPFIREを立ち上げ、事業をやっていくにあたり、クラウドファンディングというものが本質的に何を体現すべきかを考え続けました。今では多様な使われ方をしているクラウドファンディングですが、僕らは人口減少社会において、既存の社会からこぼれ落ちていってしまう人たちにとっての新しい経済圏をどうつくるか、極端に言うとそこにしか興味がないんです。それを言葉を換えて「一人でも多く一円でも多く、想いとお金がめぐる世界をつくる。」と言っている。

ここから先、人口減少は、嫌だとかダメとかいう話ではなく、そうなってしまうと決定していて、自治体や国が提供していたインフラやサービスが崩壊していく。そういう世界の中で僕らの子どもやそのまた子どもの世代が、この国にいて良かったと思える社会をどうつくっていくのか。それがスタートアップ企業の役割だと思います。社会課題を解決したいとか、そういうことではなく、単純に自分の子どもたちの世代がどう在れば幸せかということを実現しようとすると、それは民間でやっていくしかなく、だからミッションを達成したいとか、そこへの執着ということではなくて、「せねばならん」「それがないと成立しない」という感覚…うまく伝わってます?

荒島: すごく面白いお話を伺っている気がしています。ビジョン・ミッションとか、それを浸透させるとか、会社のみんなが同じ熱量で「生きるを、啓く」を捉えていく状態をつくるのは非常に難しい。でも今、何か、その次の次元のお話をされている気がして。そういう感覚ではなく、「当然につくらなくてはいけない未来だよね」みたいな感覚で捉えていらっしゃるんだなと。

家入: それはメンバーもわりと信じてくれていると思います。その世界をつくるためには、やはり僕らが自分たちの掲げた言葉をどれだけ信じ込めるかどうかだと思うんです。

幸せとは? より良く在るとは?

さわだ: 僕が今、会社でとてもやりたいことは、個人の幸せやどう生きるかみたいなことを会社の中に組み合わせていきたい、会社も個人も同じ方向を向いて進んでいきたいということです。会社のミッションやパーパスの中に、個人の生き方や哲学みたいなものも反映されているような状態。家入さんはどう思いますか?

家入: 社員個人の幸せという言葉が出るたびに感じていたんだけど、僕はあまりそこだけを重視しているわけではないかもしれない。

さわだ: 社員は皆幸せであってほしいが、そこに対して一人ひとりに自分がコミットする時間は無い?

家入: いや、時間の問題ではないかもしれない。矛盾してますね、さっきは会社は皆のための場所だと言いながら。本当にそれは信じていますが、一方で全ての人の幸せなんて実現できるわけがないと思っているし、それも真理。幸せになるための場所はここだけじゃないと思うんです。

伊藤: 伺っていて思うのは、僕らは今「生きるを、啓く」をパーパスに設定して、メンバー一人ひとりの幸せを支えたり引き出すことができる組織とは?という問いの下に話をしてしまっていましたが、僕は家入さんが一人ひとりの幸せに興味が無い、そこに愛情が無いというよりは、幸せとは誰かや何かに「してもらう」ものではなく「自分でなるもの」だと考えていらっしゃるように感じて、そこが大きな気づきでした。

家入: 「幸せ」って何でしょうね?

さわだ: 家入さんは今、幸せですか?

家入:それなりにいろいろありましたが、不幸せだと思ったことはあまりないかもしれない。幸せって何でしょうね。「ウェルビーイング」って何ですか? より良く生きるってこと? 「より良く」って何でしょうね。

「より良く」というのは、こう在るべきというものがあり、それに対する差分を明確にして、そこに至るまでのステップをどう踏んでいくかという発想ですよね。だからある意味、資本主義と非常に相性が良い。資本主義の本質にあるのは、自分じゃない誰か、ここじゃないどこかという夢を見させて、その夢と現実との差分をマネタイズすることでドライブさせる仕掛けだと思うんです。そういう意味でウェルビーイングは資本主義に乗っかりやすい思想だし、「より良く在る」って何だろうなと今、改めて思いました。どこかに何か、違う人生があったんじゃないかとか、自分はきっとこう在ることができるとか、そう考えるのって結局は苦しいですよね。

「悟り」は現実を書き換え、自分をケアしていく物語

家入: 今回、この「悟り」というテーマをいただいた時に、悟りって何だろうと考えたんですよね。もちろん仏教的な悟りの概念はありつつ、この場でいう「悟り」とは、至極個人的な人生において「悟り」というものをどう捉え直すか、みたいなことだろうと。先ほど「悟り」というのは状態ではなく、それを求めていくプロセスをいうんじゃないかという話もありましたが、そのプロセスが何を意味するのかを考えると、僕は悟りをひらくために動いていくプロセスは「自分をケアしていく物語」なのだろうと思ったんです。今置かれた現状を不幸で辛いものとして見るのではなく、そこに違う視点を持ち込むことで現実を捉え直すことが「悟り」だと思います。それは言い方を換えるなら、「違う現実をつくり出す」ことでもある。他に分かりやすい言い方ない?

伊藤: 「意味を書き換える」?

家入: そうそう。それはどのように行うのかというと、過去に起きた自分の出来事をただの辛い経験で終わらせず、「だからこそ今この活動をしている」ということにつなげていけたら、その過去の辛さや傷、劣等感や怒りなどの負の感情に意味を見出すことができますよね。そうすることによって現実を書き換えていくプロセスのことを、今回の場においては「悟り」というのかなと。「生きるを、啓く」もこれに近いかもしれません。だから「より良く在る」という話でしかないとしたら、現実とその先の差分をどう埋めていくかということしかないのだけど、「現実を意味づけし直していく」作業というのはきっと、生まれてから今に至るまでの自分の過去の出来事と一つ一つ向き合っていくことなんですよね。そこに意味を見出していくことによって、「だから今ここにいるんだ」と現状を再定義し、じゃあこの先の自分が何をすべきなのかにつながっていく。

僕は中学2年でいじめをきっかけに引きこもりになり、10代は家からほぼ一歩も出られないまま過ごした経験があります。僕がリバ邸をやっているのは、あの時、家でも学校でもない、こういう第3の居場所があったら良かったなと思っているから。だから僕がやる意義がありますよね。そこに接続できた瞬間に、過去が隠すべきものではなくなった。過去に向き合い、過去に意味づけをし、今に接続をつくっていく、それが「悟り」であり「生きるを、啓く」なのかなと思いました。

働き方も生き方も、皆が一つに溶けていく世界

さわだ: 僕の理想として、個人の幸せを会社でも実現していきたいという思いがある中で、AIやロボティクスが進化して、人は本当に好きな仕事をやれば良いという世の中になるのだとしたら、もしかしたら場としては会社じゃなくてもいいかもしれないし、そうなったら何によって皆とつながるんだろうと考えたりもします。哲学や思想でつながるコミュニティといえば宗教組織もそうだけど、会社組織と宗教組織は何が違うんだろう? どうですか?

家入: そうですね、いろんな宗教の定義があると思いますが、僕は宗教の本質というのは、「人智を超えた所に生きる意味を設定してくれる存在を置く」ことだと思うんです。人間は理由を求める生き物なので、特に自分がしんどい時に、なんで自分だけがこんな辛い目に遭うんだ、そこには理由があるはずだと思うわけです。その理由を解き明かしたいけれど、理由が無いことも往々にしてありますよね。僕がいじめを受けた明確な理由なんて分からない。でも僕が、なぜいじめられたんだ?とその理由に執着している限り、その過去の苦しみからは逃れられない。その時に、ある宗教では前世の行いが悪かったからだと言うかもしれないし、別の宗教では神様の試練だと言うかもしれない。でも、その理由を人生を超えた所に設定してくれることによって、理由を求めずに済む。しょうがないかと思えたり、じゃあせめて今世は良いことをして来世につなげよう、みたいにポジティブに変換できる。「生きる理由を異なる所に設定して、それを信じることができるかどうか」が宗教の定義だと思います。

そうだとした場合に、それは宗教組織・宗教法人である必要はないと思うんです。「生きるを、啓く」を皆で信じていて、自分がなぜ生きるのかに対して理由を設定してくれる存在が会社であるならそれでいいかもしれませんし、コミューンや共同体でもいいのかもしれない。特に日本においては宗教関連の事件の影響で、批判的な意味で「宗教的だ」という表現をすることが多いですが。

さわだ: それは外の人が僕らを見た時にどう捉えるか、ということですね。YADOKARIの未来を考えていくと、「生きるを、啓く」が進んでいった人ほどYADOKARIの枠にはまらなくなっていくんじゃないかとも話していて、現に新卒で入社して2年前にうちを辞めた子が、お金も持たずに海外へ行って絵を描きながら発信して何万人ものフォロワーができ、今や世界中を旅しているんです。そういう人を留まらせておくべきではないと僕は思うし、辞めた後でも「あの子はYADOKARIだ」と思っている。そんなふうに、思想なのか、価値観なのか、YADOKARIを一回通りましたという事実だけでもいいのかもしれないけど、それがつながり合っているコミュニティみたいな会社に少しずつしていきたい。今はもうオフィスが無くても、どこにいてもいい時代だし。

家入: そうですよね、働き方もグラデーションだと思うんです。社員か否かとか、メンバーの定義とか、そういうことはどんどん曖昧になっていき、かつタイニーハウスやスポットバイトみたいなものがさらに普及していくと、「働く」とか「仕事」の意味もきっと変わっていく。そうすると最終的に何をもって組織とするのか、メンバーとするのかはどんどんグラデーションになっていって、ぐちゃぐちゃになっていくし、それでいいんだと思う。皆、溶けていなくなる。でも何かしら関わり続けていく。会社の形はそういうものになるのかもしれないですよね。

終わりに

いつしか嵐は収束に向かっていた。まるで世界がすっかり洗われたように感じられた。「悟り」とは、過去に向き合い、意味を書き換えることでそれを癒し、今とこれからに接続するための物語。それが「生きるを、啓く」と限りなく同義であるならば、このパーパスは、泥臭くもがき続けてきたYADOKARIという会社とそこに関わる人々のこれまでを肯定し、そこから続く未知の世界へと進む勇気をくれる。一人ひとりが自分の人生を本当に愛することを思い出すための鍵だ。

その鍵を手にした途端、個人や、会社や、仕事や、立場…あらゆる境界が溶け始め、世界が再創造されるような気がした。そんな感覚を共有し合える人々がつながるYADOKARI文化圏。それは既存の会社や組織の形では到底捉えきれない、一つの宇宙のようなものかもしれない。

取材・文/森田マイコ