Staple 岡雄大×YADOKARIさわだいっせい|まっすぐ進まない人生がくれるもの【CORE SESSIONS Vol.4 前編】

YADOKARIと共振共鳴し、新たな世界を共に創り出そうとしている各界の先駆者やリーダーをお迎えして、YADOKARI共同代表のさわだいっせいが生き方のコアに迫る対談シリーズ。Vol.4は、株式会社Staple代表取締役の岡雄大さんだ。前編では、日本とアメリカを行き来した岡さんの少年期と、青年期の旅が育んだアイデンティティ、そしてアマンリゾーツ創業者エイドリアン・ゼッカ氏との運命的な出会いを紐解く。

岡 雄大(おかゆうた)| 株式会社Staple代表取締役(写真右)
岡山生まれ、米コネチカットと東京育ち。世界や日本各地の多様な文化に魅了され、旅を仕事にすることを志す。早稲田大学政治経済学部卒業後、スターウッドキャピタルグループを経てシンガポールで独立、ホテルブランドへの投資戦略や経営企画を手がける。2019年からはStapleを本格稼働、K5やSOIL Setoda、SOIL Nihonbashi等のプロデュースやマネジメントを行う。広島・瀬戸田と東京・日本橋を拠点に「都市一極集中に依存しない社会」を目指し、場やまちの企画・開発・運営に情熱を燃やしている。

さわだいっせい|YADOKARI 代表取締役 / Co-founder(写真左)
兵庫県姫路市出身。10代でミュージシャンを目指して上京し、破壊と再生を繰り返しながら前進してきたアーティストであり経営者。IT企業でのデザイナー時代に上杉勢太と出会い、2013年、YADOKARIを共同創業。YADOKARI文化圏のカルチャー醸成の責任者として、新しい世界を創るべくメンバーや関係者へ愛と磁場を発し続ける。自身の進化がYADOKARIの進化に直結するため、メンターとなる人に会うことを惜しまない。逗子の海近のスモールハウスをYADOKARIで設計し居住中。

この日の対談は、Stapleが手がけた施設「SOIL Nihonbashi」で行った。築38年のオフィスビルを一棟リノベーションし、都市とローカルで活動する人の拠点として2021年12月に開業。1階部分は、地域の子ども達が駆け回る、緑豊かな児童公園に隣接したカフェベーカリー、2階以上は公園ビューのコーポラティブオフィスからなる。

日本とアメリカの間で揺さぶられたアイデンティティ

さわだ: 僕らYADOKARIもかつて「BETTARA STAND 日本橋」というプロジェクトをやっていて、日本橋は半ばホームグラウンドのようなエリアなんです。

僕は以前からStapleの社員さんや周辺に集まってくる人たちが皆、すごく良い雰囲気だなぁと憧れまじりに感じていて、それはきっと岡さんが醸し出す何かがそうさせているんじゃないかと思い、その秘密に迫るべく、今日は岡さんの人生のお話を聞かせていただきたいなと。ご出身は確か岡山?

岡雄大さん(以下敬称略): 母方の実家が岡山で、そこで生まれたんですが、その後東京で暮らし、3歳の時に家族でアメリカに引っ越しました。で、10歳の時に東京に戻ってきて、小学4年から日本の学校に。だから地元がここだと言い切れないコンプレックスもありますが、そんな中でも岡山は夏休みに毎年帰ってきていたので、自分のルーツの一つだと思えます。だからこそ瀬戸内での今の仕事にもつながっているんですけどね。

非常に中途半端な帰国子女で苦労もしました。帰国当時は英語の方が得意でしたが、東京の小学校に入ったら「なんか違う」と思われている感じが嫌で、一切英語を使うまいと。加えて僕はアメリカではNBAばかり観ていてバスケが大好きだったのに、日本ではJリーグが始まった頃で、学校の皆はサッカーに夢中。自我が出来上がる前に帰国しているから、仲間外れにされないように日本に染まろうとサッカーも始めたし、英語も絶対使わない。それで2年ほど頑張ったら英語は完全に忘れたというもったいない状態に(笑)。英語はその後少し盛り返しましたが。

アイデンティティを「揺さぶられた」という感じですね。一方でアメリカの学校は自由で、何でも好きなスポーツをやればよかった。いろんな文化圏の子がいて、日々違う国の子のお祈りやお祭りが学校でも行われていた。でも日本ではサッカーをやってないとダサいし、発音良く英語を話せばアメリカ人だってからかわれる。ひとりっ子だから兄や姉を通じて数年先の生き方の事例を見ることもなく、ひたすら日本の文化に馴染もうとしました。

さわだ: 同調圧力ってやつですよね。


岡: そんな体験があったので、小中学校は自分を出すのが怖かったですね。まずは皆の会話を聞いて、状況を見て、出る杭にならないように自分を殺して馴染むようにしてました。壮絶ないじめを受けたわけではないですが、窮屈で。あの頃の同級生から見たら「まさかあの彼が社長になるとは!」みたいな感じだと思います(笑)

さわだ: そんな境遇に対して、親に何か思わなかったですか?

岡: 家庭には安心感がありました。母は超ハッピーガールで「もっと前に出て、どんどんチャレンジすればいいじゃない!」という人だし、父は「お前が選んだ道ならきっと何をやっても正しい」と全面的に応援し続けてくれる人だった。そんな両親が、何かきっかけをもらえたらどこまでも挑戦できる土壌をつくってくれたのかなと思います。

大学時代の旅がもたらした人生の広がり

さわだ: その岡さんが社長になる道筋は、どの辺りから始まっていくんですかね?

岡: 高校から大学にかけて徐々に変わっていきましたね。高校は早稲田大学附属の一学年600人くらいいる男子校に行ったんですが、私服だし、進学のためにテストで良い点取って…というよりは、好きなことを突き詰めていいという教育方針で。目立つグループもいれば控えめなグループもいて、各々好きなことに取り組んでいるんだけど、全体としては成立していて、たまたま同じクラスで授業を受けている、みたいなテンションと多様性が安心感につながったんでしょうね。思い切りバスケもしたし、バンドもやったりして楽しい学生生活になってきました。それでもやっぱり「調和を生み出さないと」と思っていましたが。

もっと自分が変わっていってもいいのかなと思えたのは大学ですね。入学直後に、アフリカで育ったという日本人の女の子と出会い、「私はアフリカの貧困を目の当たりにして育ったから、世界平和を実現するんだ」みたいなことを滔々と語られ、自分がすごく小さく思えた。「バスケが好きなのにサッカーをせざるを得なかった」とか、いつまで言ってるんだ?って。その子だけじゃなくて、社会のことや世界のこと、自分が今まで考えたこともなかったスケールのことを語っている子がたくさんいて、すごく悔しくなりました。

どうやったら自分は面白い人間になれるだろう? どんな体験をしたら人に語れる人生になるだろう? 人と違うことをやろう。その答えはクラスルームで授業を受けて良い成績を取ることの中には無さそうな気がしたから、クラスの外に求めに行くようになりました。面白そうなバイトを見つけてお金を貯めて、旅をする。おそらく人生で初めて、自分の意志で自立して行ったのが「旅」。そこから自分が広がるようになって、自分にとって三つ目、四つ目、五つ目の場所が生まれていった時に、日本とアメリカを行き来しているだけだったかつての自分の世界が小さく見えたし、この旅という行為はきっと自分の人生を広げ続けてくれる素敵なものだと実感しました。

それから就活などを機にこれからどう生きていくかを突きつけられた時、「旅」を人生のテーマにしようと決めました。そのくらい旅は僕にとって重要なものになっていましたね。

蛇行する人生が養う、社会を見るまなざし

さわだ: 岡さんは自分の軸をつくるために旅に出て、それが人生のテーマになり、今に続いているんですね。何か社会課題を解決したいという思いが先にあったというよりは。

岡: そうですね、明確な原体験があって社会を変えるような仕事をしたいと思っていたというよりは、「旅」が自分の軸となった後に、そのレンズを通して世界を見た時に、もっと変わっていくべきだと思う課題に気づいたという感じです。

観光は地域に光を当てて社会を良くするためのものなのに、オーバーツーリズムなどの問題が起きてしまうのはなぜだろう。グローバリゼーションが進んでどの国も同じになっていってしまうのはなぜだろう。僕が好きな旅というのは、多様な世の中に触れたり、そこに暮らすように泊まってみることで誰かの生活を垣間見たりすることだし、それこそが美しい行為なのに、なぜ社会は均質化していってしまうんだろう。

僕は就職した1社目が金融業界だったので、「金融×旅」、「金融×ホテル」みたいな視点で眺めた時に、そういう課題が見えてきた。僕の軸をつくってくれた、僕を変えてくれた「旅」という行為は、ひょっとすると100年後には無くなってしまい、どの国も同じになっているんじゃないかと気づかせてくれたのが金融です。

僕は自分自身の生き方も、会社の経営も、立脚点とゴールが直線的につながっている人間ではないんです。昔も今も蛇行しながら、あっちに行ったらこんなものが見えて、また次の方向へ進んだらこんなものが見えて、という進め方をしている。「ここを目指します!」と言ってお金をそこに集め、そこにだけ向かっていく経営をしていると、自分が心地いいスピードで仕事ができなくなるような気がして。会社の事業内容もどんどん変わってきていて、その変わってきたことが良かったよね、と後から正当化するタイプの経営をしています。

アマンリゾーツに見る小規模の美しい経営

さわだ: 金融業界ではどんなお仕事をされていたんですか?

岡: 学生時代に「旅」というテーマを見つけ、金融業界が非常に盛り上がっていた時代だったので、デスティネーションづくりやホテルづくりができる金融と投資ファンドの会社に入社して、ホテルをつくっていました。資本はスピードと規模を後押しする生き物なので、巨大な資本でホテルをつくろうとすると、やはりスピードと規模を追い求めるホテルに傾きがちになります。お金の力に任せて早く大きなものをつくろうとすると、僕が旅で感じていた世界の多様性とは反対の、どこに行っても同じようなものになってしまい、世界がどんどん面白くなくなると気づいて。

どうにかしてお金の力を使って、僕が好きな、スモールで多様で、その街角にしかない家族経営のビストロみたいなものが増えていく世の中をつくれないかと思い、独立しました。Stapleを始める4年ほど前です。金融の知見を活かしてホテル会社やホテルブランドに対するコンサルティングをしていた時代があり、その時に出会ったのがアマンリゾーツです。

岡: アマンは、元々ジャーナリストだったエイドリアン・ゼッカさんが始めたホテルブランドです。まだ誰も見たことがない、誰も行ったことがないような場所にゼッカさんが先に出向いて魅力を掘り起こすことで、世界中から「アマンができたのなら、きっと素晴らしい場所のはずだ」と人々が来るようになり、経済がなかった場所に経済が生まれ、放っておけば失われるかもしれない地域が未来永劫栄えていく。そんなことがやりたくて、彼はアマンを始めている。

僕が金融にいた当時、ホテルは300部屋くらいないと儲からないというのが定説だったのですが、アマンは平均して30部屋に満たないくらいのホテルを、30年かけて世界中に1000部屋くらいつくっているブランドで、ヒルトンホテル2つ分くらいの規模なんです。金融の常識では説明がつかない。小さいけれど、社会的にはとてつもなく大きなインパクトをもたらしていて、やはりアマンがあることで無名な地域に世界中から人が来たり、地元の人にとってはアマンに認めてもらえたという誇りにもなっている。地元の料理やクラフトなどにちゃんと価値が付いて、地域経済も生まれている。そして会社としても利益を出すモデルをつくり上げている。僕はそれを見て、純粋に美しいと思いました。素晴らしいし、いつか自分がやってみたい。ゼッカさんの生き方や経営の仕方を見て、Stapleの事業に挑戦したくなってきたんです。

旅を人生の軸に据えたところから、蛇行しながら行く先々での学びを掛け合わせて今の姿があるという感じですね。

ゼッカさんの旅する人生が詰まった夜のこと

さわだ: ゼッカさんには、僕は勝手にシンパシーを感じているんです。上京して以来、三浦の海が好きで時々通っていたんですよ。ある時、知らない雑木林みたいな場所に迷い込んで、どんどん歩いていったら急に視界が開けて、目の前に富士山がドーンと見える場所を見つけて。そこは一般には知られていない場所で、ポツポツと数軒の家があるくらい。その中にスタジオみたいな建物があって何だろうと思っていたのですが、後日ある本で、ゼッカさんが東京在住時代に別荘として使っていた建物だったと知ったんです。ゼッカさんはあの景色を見てアマンをやることを決めたと書いてあって、めちゃくちゃ共感したんですよね。

岡: ゼッカさんがAzerai(アゼライ)という新たなレーベルをアジアに立ち上げた時のパーティーも、僕の原体験の一つかもしれない。彼は84歳くらいの時に、35年間大事に守り続けてきたアマンを追い出されてしまったんだけど、2時間くらい意気消沈した後に、もう「次は何をつくろうかな」って言ってるんですよね。そして2年後にはAzeraiを立ち上げた。ベトナムで一つの島を貸し切って行った新しいホテルのオープニングパーティーでは、世界中からいろんな人が集まり、彼を祝福しました。食事の後、ホテルのバーで飲むゼッカさんの元に、アフリカやキューバ、オーストラリア…彼がこれまで世界中を旅する中で知り合った人々が話をしに来て、そんな人たちに対してゼッカさんは「ありがとう。俺、こんなブランドつくったぜ、どうだ!」みたいな話じゃなくて、「お前元気か? 次は一緒にどんなプロジェクトをやる?」って話しているんです。87歳のおじいちゃんが、誰よりもイキイキと未来を語ってた。

その光景を見て改めて、この人は旅をしてきたんだな、旅をしてきたからこそこういう多様な人たちと仕事をし続けてきていて、人生を賭けた大事なものを失うようなことが起きても、やっぱり世界中に自分が旅する中でつくってきた仲間がいるから、新しいものを生み出そうというエネルギーが湧いてくるんだなと。僕も87歳になった時に、上場して一丁上がりというよりは、お金はないかもしれないけど世界中に自分の人生でしかつくり得なかった仲間がいて、90歳になっても「この先何やる?」みたいな会話ができている人生がいいなと、その時、強く思いました。

岡: 経営する中で蛇行しながら、どこかのタイミングで大型の調達をして上場を目指そうと言い出すこともひょっとしたらあるかもしれないけど、基本的には一度仲間になったら、その人が辞めたり、会社が解散したりしたとしても、いつかまた集まって何か一緒に生み出したり、未来を語れる。そういう会社経営がしたいです。これは僕がずっと言い続けていることだから、今のところ良い人に恵まれ続けているのかなと感じています。

さわだ: 僕も全く同じ考えです。YADOKARIもそういう会社でありたいと思っています。

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日本とアメリカの文化の間で揺らぎながら、旅を通じて人生が広がり、自分の軸を見つけた岡さん。
エイドリアン・ゼッカ氏との出会いから、この世界で小さくも美しい旅を続けていくためのホテルと経営の姿、人生の在り方を学び、Stapleでの挑戦へ踏み出した。

後編では広島・瀬戸田での地域創生や、それを成功に導く手法とこだわり、岡さんが描く未来のライフスタイルと幸せな人生の終え方について、さわだが対話を深める。

後編へ続く>>