小屋に暮らすって、どういうこと?“モノを持たない暮らし”を極めたら、こうなった。|フリーランスエディターのDIY的八ヶ岳暮らし

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こんにちは。フリーランスエディターの増村江利子です。東京・神楽坂から長野県諏訪郡富士見町に移住し、賃貸のトレーラーハウスで“小さく”暮らしています。
その“小さく”って、どういうことなのか。今回は、私の持ち物から、小屋に暮らすことの意味について考えてみたいと思います。

持ち物をミニマムにすること

この古い箪笥の3段分が、冬物のコート類を除いた私のワードローブの全てです。3段の中には、愛用のカメラと、家族分のタオルも入っています
この古い箪笥の3段分が、冬物のコート類を除いた私のワードローブの全てです。3段の中には、愛用のカメラと、家族分のタオルも入っています

私は、毎日使う物だけを身の回りに置いて、頻繁に使わない物は他の物で代用し、ひとつの用途にしか使えない物は持たないようにしています。

洋服は、徹底して持たないようにしているモノのひとつです。象徴的なのは、下着が2枚しかないということ。ご想像のとおり、毎日洗濯しなければならないのですが、毎日洗濯すればいいのです。

そして毎日洗濯をするようになると、ワードローブに劇的な変化が生まれます。靴下も2足でいいし、シャツも2枚でいいし、ボトムスも2本でよくなる。下着は、洋服の量の“要”なのです。

決しておしゃれとは言えないかもしれませんが、ベーシックで着回しがしやすい、本当に好きな服だけを持つこのスタイルが気に入っています。
モノが減ってくると、収納場所がいらなくなるので、例えば階段下の収納をDIYで解体して、空間を広げています。

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大は小を兼ねる、ではなく、小は大をつくる。見栄を張らず、必要なモノだけ、必要な広さだけ。私にとって、小さいからこそ、少ないからこそ工夫することは、他に変えがたい楽しみでもあるのです。

憧れは、生きていくのに必要な物を、スーツケースひとつ分にすること。家族がいるのでキッチン用品などを考えるとなかなかできませんが、モノをひとつひとつ妥協せずに選んで、大切に使うことは、私なりの“大量生産、大量消費”への反抗のかたちでもあります。

本当に必要なのか?を考える

モノの持ち方を徹底していくと、身の回りの物事やサービスについても、それは本当に必要なのか?と考えるようになります。

例えば、携帯電話。いつか携帯電話を手放したいですが、まずは携帯電話の料金について。本体料金も含め、月々の支払いを年で換算すると、相当な金額になります。

携帯電話を使うことに、本当にそれだけのお金を掛ける必要があるのでしょうか。提供されているサービスをただ受けるのではなく、SIMフリーの携帯電話を選ぶなど、自分で他の選択肢を選びさえすれば、格段に費用を抑えることができるはずです。

iPhoneをやめて、海外製のスマホに。もちろん、SIMフリーです
iPhoneをやめて、海外製のスマホに。もちろん、SIMフリーです

他には、電気のアンペア契約。一般的には、家に電気が備えられる時点で、30A(アンペア)に設定されていると思います。でも本当に30Aも必要なのでしょうか?

このように、あらかじめ決められている物事やサービスをひとつひとつ丁寧に検証していくと、実は過剰なサービスを受けていて、その分過剰に支払っていることに気づくはすです。

もちろん結果として節約になりますが、節約をするためでなく、提供されるものを、何も考えずに受け取ることは、少し怖いなと思うのです。

私は、身近なサービスはもちろん、政策やまちのことも、何も疑問を感じずに、ただ受け入れるだけの“お任せ”民主主義から脱して、意志を持って、納得する選択をしたい。住宅購入でローンの返済に縛られてしまうのではなく、“小さく”暮らすことで、場所も、暮らしかたも、もっと自由に選びたい。
小屋に暮らすことは、“お任せ”民主主義から脱するための、ひとつの方法なのではないかと思うのです。

みなさんも、もし、何か疑問に感じることや、窮屈に感じることがあるのなら、“小さく”暮らしてみませんか?