「幸せ」を先送りしていませんか? YADOKARI × 新世代僧侶が説く死生観のゆくえ

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「幸せ」を先送りしていませんか? このフレーズにはっとする方も多いかもしれません。

東京大学卒業後にお寺に入門。その後、インドに留学し、MBAを取得するなど、異色の経歴をもつ若き僧侶。10年以上前からネット寺院を開設し、僧侶のための経営指南を行うなど、既存の僧侶像をことごとく変えていく新世代のオピニオンリーダーでもある。次代を担う気鋭の僧侶が同時代を生きる人々へ説く、珠玉のメッセージ!!

※このインタビューは月極本2-幸せな死に方-特集対談インタビューを一部抜粋にてお楽しみ頂けます。

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松本紹圭(まつもと・しょうけい)

1979年北海道生まれ。本名、圭介。浄土真宗本願寺派光明寺僧侶。一般社団法人お寺の未来理事。蓮花寺佛教研究所研究員。米日財団リーダーシッププログラムフェロー。東京大学文学部哲学科卒業。超宗派仏教徒のウェブサイト『彼岸寺』(higan.net)を設立し、お寺の音楽会『誰そ彼』や、お寺カフェ『神谷町オープンテラス』を運営。2010年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド留学、Indian School of BusinessでMBA取得。2012年、若手住職向けにお寺の経営を指南する「未来の住職塾」を開講。200名を超える意識の高い若手僧侶が「お寺から日本を元気にする」志のもとに各宗派から集結し、学びを深めている。2013年、世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leaderに選出。著書多数。近著に『お寺の教科書未来の住職塾が開く、これからのお寺の100年』(徳間書店)。

お寺の未来について

──松本さんはいわゆるミニマリストという言葉が話題になる以前から、精神的なシンプルさを追求する著書を多く出されています。

そもそもお金にしても土地にしても所有というのは幻想だと思っています。例えば、どこかの遠く見知らぬ広い土地を手に入れたとして、自分の中の何が変わるのかというと今まで通りの日常が続くだけ。結局、幻想にしがみつくことが所有の実態ではないでしょうか。

言い換えれば自分のものであるという領域をどれだけ大きくできるかという「自我の肥大化」ということになるのだと思います。

──大きな家に住んでも使ってない部屋はないものと一緒みたいなところがあります。

「でっかい家が欲しい」っていう価値観自体、あんまりクールじゃなくなっていくんだろうなと思います。それよりも大きな家があったら、シェアするほうに時代はますます向かっていくのではないでしょうか。

『月極本』を見ていて、僕はむしろ「タイニーハウス」ならぬ「タイニーテンプル」を作ってみたら面白いなと思いましたけどね。

──それは、モバイル式の?

ええ。今は、なかなかお寺に人が来てくれない時代です。もともとお寺って年配の方が多く来られますけど、例えば、ずっと通っていたのに足を痛めて行けなくなったり、入院されたりすると、じつはいちばん私たちを必要とされているときに、年配の方と接点がもてないというジレンマがあります。だったら「モビリティ」という発想はいいんじゃないかと。

ここ(東京・神谷町光明寺)も見ていただいたら分かりますけど、維持していくにはそれなりのコストが掛かります。建立300年の本堂を改修するとなれば億単位です。今の私たちには、これを維持するだけの基盤もないですし、もっと言えば国にも助けるだけの体力がない。ならば、小さいけどきちんと次世代に受け継いでいく仕組みを提案していくことが重要なことだと思っています。だから、タイニーハウスに思わず反応してしまったんです。<月極本2抜粋>

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過去でも未来でもなく、今

──今回の特集テーマでもある「幸せな死に方」において、ブッダの教えにある因果の道理を考えたとき、「生き方」との相関関係はあると考えていいのでしょうか。

う〜ん、まずはどこから話そうかなと思うのですが……。今、「因果」というふうにおっしゃられたことについて、仏教としては「原因があるから結果が生まれる」というふうに捉えているわけではありません。そうではなくて、「結果には必ず原因がある」というふうに見ているのです。つまり、つねに「今ここ」にある結果からものを見るということ。「結果」から振り返って「因」を見ていく、そっちの方向です。最近は、「マインドフルネス」という言葉がよく使われますが、仏教では「今ここにある私にフォーカスしましょう」ということを強調します。

人間は放っておくと、どうしても思考が回ってしまい過去を後悔したり、未来のことを憂いたりします。「何であんなことをしちゃったのだろう」「ああなったらいいな」「こうしたほうがいいのかな」と未来に向かって考え、どんどん「今ここ」にある自分から離れてしまう。かくいう私もそうです。座禅や瞑想をするときに、今、何を自分自身が感じているか、聞こえているかに集中しようとするけれど、5秒もすれば過去や未来を考えることに引っ張られます。「幸せな死に方」ということですが、死に方を考えることは、あまり意味がないかもしれませんね。

なぜならば、未来の「幸せな死に方」を目指すこと自体、観念的で今という「リアル」からは離れてしまうからです。考え方によっては、人は「今ここ」の瞬間瞬間に、生まれて、死に、また生まれ、を繰り返しているとも言えます。不変の私、は存在しませんから。私たちは、つねに変化を続けています。

──未来にとらわれてしまっているということですか?

そうです。現代人は、とくに幸せを未来に先送りしてしまう癖があります。私たちはその未来のために今を犠牲にすることをずっと繰り返してきました。以前、東大の学生がインタビューに来たときにも話したのですが、青春を犠牲にして勉強を一生懸命やり、大学に入ると今度は官僚になろう、一流企業に勤めようとして、どんどんどんどん今を先送りしている。頭上にニンジンをぶら下げて、走っていくような生き方は確かに資本主義を土台としている「カラクリ」ではあるけど、それに取り込まれ過ぎてはいませんか、という話を学生たちにしました。「幸せな死に方」という発想も、どうやったら最期に幸せになれるのだろうっていう、先送りの思考法で、今を犠牲にしかねないところがあります。もちろん、死を思うことによって「生き方」を見直す機会にはなります。

「私とは何だろう」「私の生き方はどうあるべきだろう」という疑問は国や文化を問わず、すごく重大なテーマですし、それを考えるきっかけとして「死を想う」ことは有効です。でも、「こういうふうに死ななきゃいけない」という方向に考えるのは、逆効果ということになるのではないでしょうか。

──松本さんの言葉は、例えば禅に傾倒していたスティーブ・ジョブズが言った「今日が人生最後だとしたら、今日やることは本当にやりたいことだろうか」というフレーズにも通じる気がします。

あの言葉は私が思うに禅で言う「前後裁断」です。人間は、さっきのニンジンをぶら下げた馬のように今を犠牲にして未来という幻想を求めてしまう生き物。それは言い換えると、1本の連続した時間の線上を移動しているだけで、昨日までの連続の上に今日、そして明日があるという発想です。確かにそれはそうなのですが、その考えでいくと人生は惰性的になってしまいます。

つねに前とか後ろのことばかり考えて、その中で今という部分はおろそかになってしまう。ジョブズは、それを毎日断ち切っていくようなことを、ある種の儀式としてやっていたのではないでしょうか。だからこそ、偉大なイノベーションが生まれたのだと私は思います。

「ここまでやってきたプロジェクトだから、このまま完成させよう」ということにジョブズはきっと「何かが違う!」と言ってすべてをリセットできたわけです。<月極本2抜粋>

続きは 「月極本2-幸せな死に方-」 でご覧ください。

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月極本について

世界中のミニマルライフや新しい暮らしの事例を纏めた定期雑誌「月極本」。年間で3冊を発刊。YADOKARIのコアファンに向けた “プレミアムメンバー会員制度” があり、定期雑誌提供の他にオリジナルコンテンツ配信や特別イベント・交流会などを行っている。

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