アレクサ・ミードから考える、僕らの2Dな日常

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芸術の秋、とは誰が考えた言葉だろう。確かに秋風に吹かれると、アートや読書に勤しみたい心境になる。しかし秋でなくとも、Instagramを始めとするSNSには年がら年中アートな写真が満載だ。実際、毎日のように自撮りに躍起になっている現代人は少なくないし、そのせいで心地よい秋風の感触に疎くなってしまうことさえあったりする。

特に最近は、Prismaなどのいろいろな写真加工アプリが登場したため、写真を修正するというより、もはやアート的に表現する、といった方が的確かもしれない。自分の日常がワンタップでウォーホル風、リキテンスタイン風、ゴッホ風、ピカソ風、葛飾北斎風、何にでも早変わりするのだ。

しかし、デジタル技術によって3次元世界がここまで容易く2次元的に表現できる時代となった一方で、その過程をコツコツと自分の手だけでやり遂げる芸術家もいる。それがアメリカのアーティスト、アレクサ・ミードである。

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ミードは1986 年、ワシントンD.C.生まれ。大学では政治学を学ぶが、ひょんな思いつきがきっかけでアーティストの道へ進むことになる。彼女は、絵具をカンヴァスに置くのではなく、対象となる物そのものに直接置く。人や食べ物、椅子など、3次元世界に存在するありとあらゆるものを、一筆一筆、絵具で覆いながら、それを2次元性のなかで再認識しようとするのだ。

それは確かにものすごくアナログな労力を要する行為である。しかし彼女がこの手法を始めた当時は、まだInstagramも写真加工アプリも発達していなかったのだから、それは実際とても純粋かつ斬新なアート行為だった。そんな芸術も今となっては、骨が折れるだけのただのエンタメになってしまったのだろうか。答えはノーだろう。なぜなら彼女は科学の進歩を横目に、それでも今もなお、この手法で作品づくりを続けているからだ。

平面に取り込まれていく自我

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おそらく時代が進んだから今だからこそ、私たちはミードの作品にデジタル社会に対する批評性を読み取ることができるのだろうと思う。彼女は絵具によって人体を新たな色に再分析していく。それは私たちが一昔前からやっている写真のポスタライズにも似ているし、CDの音楽をコンピュータに取り込んでデータ圧縮して聴くといった行為とも類似性を見出せるかもしれない。認識し直すということ、それはすなわち一種の翻訳作業であり、その結果、対象は新たな形態として生まれ変わるのだ。

しかし一方で私たちが現在住んでいる世界とは、あらゆる意味で、すでに翻訳後の世界になっている気がする。音楽の例でいえば、聴き放題のストリーミングシステムなどの台頭で、もはやCDの音楽を自分でmp3に圧縮する手間さえなくなったのが現実だ。SNSへの写真投稿でも、自分で苦心して手間をかけて加工するのではなく、ワンタップでとても高度なアート作品に似せることが可能になっている。

このまま時代が進めば、私たちの子ども世代はきっと、翻訳で失われるものは多いという事実にすら気づかずに育つ世代になるだろう。翻訳後の世界が当たり前ということは、例えていうなら、人が皆、ミードの描く肖像のように街中を歩き、物が皆、ミードの描く静物のように見える世界になっていても、誰も不思議だとは思わないということだ。それはハロウィンでも何でもない普通の日に、こんな人物を街角で見かけても、もはや誰も驚かない社会である。

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だからこそ今、私たちはミードの作品を前にして気づくべきなのだろう。いかに2次元世界に取り込まれ、多種多様な配色で翻訳された身体であっても、決して心までが薄っぺらくなるのではないと。この作品の眼がかろうじて生きていて、ちゃんとこの世界を捉えようとしているのと同じように、私たちも平面に取り込まれていく自我というのを客観視できる眼を持ち続けたいものだ。

翻訳を受け入れると同時に、それに抵抗する。その葛藤が少なからず垣間見える肖像を描くのが、アレクサ・ミードというアーティストなのであり、だからこそ彼女の作品はクールな反面、人間としての温かさを失ってはいないのである。

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