第2回:新島の架け橋となり、多くの思い出を運ぶ大型客船|東京の離島暮らし
「人生とは旅であり、旅とは人生である」
この言葉は、中田英寿さんが引退時に書いたブログのタイトルです。
6月8日は、その言葉を思い出させてくれる一日でした。
伊豆諸島の大型船航路
新島がある伊豆諸島には有人島が9つあります。伊豆大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島です。これらの島々をつなぐ東海汽船の船が東京港(竹芝桟橋)から就航しています。
島々をつなぐ船の名前は、かめりあ丸、さるびあ丸、橘丸。
このうち、かめりあ丸が6月8日に最終航海をしました。
28年間ありがとう、かめりあ丸
伊豆大島の名産ツバキの英名から名付けられた、かめりあ丸。総トン数は3,751t、全長102.87m、全幅15.0m。旅客定員638名。1986年に就航し、2014年6月8日に最終航海を行いました。
かめりあ丸は複数階の開放的な外部デッキが特徴です。客室は個室から、じゅうたん敷きで区画されている大部屋(車の駐車場のような)まで様々な等級があり、客室が満室でも「席無し券」というチケットが存在し、デッキで過ごすことも可能でした。
東京から島々へ向かう便は夜22時(夏期は23時)に出発します。シャワー室もあるので仕事帰りに船に乗ることも可能です。朝6時頃、目を覚ますと最初の島である伊豆大島に到着です。
かめりあ丸がもっとも活躍したのは、沖縄やハワイへ行くには敷居が高い1970年代、離島ブームが起こった時です。
パスポートはいらないのに、一晩かけて行く場所。とても心躍る旅だったのだと思います。
当時は「ナンパ島」と呼ばれていた新島は、ピーク時の1973年には人口3,000人の島に136万人もの観光客が伊豆諸島を訪れたそうです。
離島ブームがすっかり終わった昨今、新島の話をすると、20代の多くの人は「どこにある島?」と聞き返してくるので、現代の若者にはマイナーな場所なのだと寂しくなります。
しかし、40代以上の方々は「懐かしい!久しぶりに新島って単語を聞いたよ!」と面白いほど同じ反応をしてくれます。昔は本当に有名な島だったのだと思いました。
「満員で席が無くてデッキで一晩過ごしたけど、行きはみんなウキウキなんだよね。帰りの船では勝ち組と負け組がはっきりしててさ。」と頭の片隅にしまわれていた青春の思い出を語ってくれます。
私が新島へ通い始めたのは昨年のことです。観光客シーズンが終わった11月だったため、乗客も定員の半数以下だったのではないかと思います。
その時、初めて見送りをしてもらいました。紙テープを持ってデッキから別れを告げていると「蛍の光」が流れ始めます。昭和の香りのするノスタルジックなスピーカーの響きで、寂しさが一層募り胸が苦しくなります。
長い汽笛が鳴り、船がゆっくりと岸から離れていく。色とりどりの紙テープがのびて笑顔が見えなくなっても、いつまでも手を振ってくれる島の友人たち。大型船ならではの濃密な別れの時間は忘れられません。
東京の都心に住んでいれば数分おきに電車がホームに滑り込み、アリの巣のような地下鉄を乗り継げば確実に目的地に着けます。しかし、新島では島から出る手段は船か飛行機。夏期や週末は増便しますが、船は一日一便。台風シーズンや季節風の西風が吹く冬期は、しばしば条件付出航になります。
条件付出航とは悪天候の場合、接岸せずに次の島へ行くこと。この時ばかりは人も物資も島に入れません。
この横断幕に書かれたメッセージを見れば、かめりあ丸がどれほど島の人に必要とされ愛されてきたのかが分かります。
小学校の修学旅行に行けば、帰りの船が欠航した場合に備えて多めに着替えを入れる。東京へ映画を観にデートに行けるかと、一週間前から海の状況が気になる。島内で出産ができないため、家族に見送られながら里帰りのために船に乗る。
28年間、生活航路として島民の暮らしを支えてきました。
私は4月から新島に移住し、ホテルで働いています。
6月8日、かめりあ丸最終航海日に帰るお客様がいました。釣りをしに初めて新島へいらした方です。しかし、大雨だったり、釣果ゼロだったりと島時間を楽しめたかなと心配になりましたが、不機嫌な態度は一切見せない温和な方でした。
帰り際にお話していたら、縁あってこの日にいらしたんだと。「横浜に寄港するから」という理由で、大型船就航日を選ばれていました。かめりあ丸引退日とは知らずに。
最終航海の話をしていたら「大学で船舶の勉強をしていたんですよ」と教えてくれました。現在は船とは関係ないお仕事をされていましたが、どの港でもお別れセレモニーが催され、快晴の航海日和となり、学生の頃のことを思い出したりしながら船旅を楽しんで頂けたのではないでしょうか。
見送る側になっても別れの時は、他の交通手段とは比べものにならない程切ないものです。船旅の時間の長さ、欠航するかもしれない危うさを知っているので「はるばる来てくれてありがとう」「また来てね」という想いを込めて、いつも船が小さくなるまで手を振っています。「私も島民になったのね」と実感する瞬間です。
働き者のさるびあ丸
かめりあ丸の後に新島航路へ就航した船は、さるびあ丸です。総トン数4,973t、全長120.54m、全幅15.2m。旅客定員816名。1992年12月25日就航のかめりあ丸より大きな船です。
現在のさるびあ丸は2代目で、初代は1973年〜現在のさるびあ丸が就航する1992年まで使用されていました。
主に東京ー三宅島・御蔵島・八丈島を結んでいた船です。
東海汽船初の5000t級の大型船のため、大型連休や夏期、年末年始は東京ー大島・利島・新島・式根島・神津島航路を就航していました。
客室は5等級に分かれて相部屋から和室、個室など様々な過ごし方ができ、レストランやコインシャワーも完備しているため、長い船旅も快適に過ごす事ができます。
また、夏期は東京湾納涼船として就航した後、23時に島々へ向け出航します。ふたつの顔を持つ、働き者の船です。
スーパーエコシップ橘丸
このさるびあ丸の後任として、2014年に東京ー三宅島・御蔵島・八丈島航路で橘丸が就航しました。 総トン数5,681t、全長118m、全幅17m、旅客定員は最大で驚きの約1000人。
かめりあ丸のほぼ2倍の定員を誇るスーパーシップです
橘丸は三菱重工業下関造船所で新しく建造された船で、橘丸としては3代目となります。初代は1923(大正12)年に房州航路に登場し、1934年まで就航。2代目は1935年〜1973年の長きに渡り活躍。「東京湾の女王」と呼ばれるも、戦時中には病院船として海外への航海もしています。橘丸事件で拿捕されたりと波瀾万丈な歴史を歩みました。
3代目は、客室は個室が多く、ラウンジやメイクルームが完備されホテルのよう。バリアフリーエレベーターやキッズルームもあり、家族連れの旅が増えそうです。
カラーリングは先代に使用されていたイエローオーカー色を採用し、トリスウイスキーのキャラクターで有名な柳原良平氏が担当しています。東海汽船のキャラクター船長「きゃぷてんたちばな」のデザインもされました。
後進の船の紹介はこれくらいにして、「旅」の話に戻りますね。
新島のホテルで働く私は、天気が悪かったり、トラブルがあったりすると、新島へ遊びに来てくれた方に申し訳ない気持ちになります。でもそんな事は旅の一部でしかありません。
計画、準備、家を出てから家に着くまで、おみやげを渡したり、写真を見たり、思い出を誰かに語るとき・・・。すべてが「旅」なんだと、かめりあ丸の最後の後ろ姿を見送りながら気付きました。
多くの旅と島民の生活を支えてきたかめりあ丸は、今後インドネシアの船会社に引き渡され、第二の航海が始まる予定です。
新たな航路でさるびあ丸、橘丸はどんな思い出を運んでいくのでしょう。
「人生とは旅であり、旅とは人生である」
まっさらで新しい人生をスタートさせた船、その思い出をつくるのはあなたかもしれません。
東京の離島へ「旅」に出てみませんか?