社屋焼失から再興へ、職能集団ようびがそれでも前に進めた理由|第②回 株式会社ようびインタビュー
仕事や家事、学ぶこと、休むこと、様々なことを積み重ねて、私たちは毎日を過ごしています。
日々を過ごしていると、やがて卒業、転職、結婚や出産などの転機が訪れることがあります。転機は良いことばかりとは限りません。何かを得る時もありますし、その逆に失うことも。人との別れや、望まない結果に見舞われるなど、何かを失う転機に直面すると、悔しかったり悲しかったり惨めになったりして、とても辛いものです。
岡山県英田郡西粟倉村で国産ヒノキの家具と木造建築を手がける「ようび」は、2016年に社屋の焼失に見舞われました。
幸い社員さんは怪我もなく無事でしたが、火事によって、家具を作る機械や、材料になる木材、納品する予定だった家具など、事業に関わるすべてを失ってしまったそうです。
ようびは、家具や建築を作るだけでなく、その原料がとれる森を育み、「やがて風景になるものづくり」を掲げて事業を続けています。そんなものづくりを続けてきたようびは、社屋の焼失を乗り越え、新社屋の再興に向けて動き出しています。
今回はようびの代表、大島正幸さんと大島奈緒子さんのご夫妻に、社屋の焼失から再興に至るまでのお話を伺いました。失ったものを乗り越えて、その先に進もうとする背景には、どのような思いがあるのでしょうか?
◎ようびの創業ストーリーやものづくりについて
⇒「ものづくりは、森づくり」人口1500人の山村に家具工房ができるまで|株式会社ようびインタビュー
2016年の社屋焼失、再興は鎮火直後に決まった
2016年1月、社屋の焼失当時を振り返って大島さん夫妻はこう言います。
大島正幸さん(写真左 以下、正幸さん):火事が起きていることを知ったのは村内放送です。急いで現場に駆けつけると大きな火の手が上がっていて、すでに消火活動がはじまっていました。
大島奈緒子さん(写真右 以下、奈緒子さん):現地に到着した時は、社員全員に連絡がつかなくて、気が気じゃなかったのを覚えています。社員の安否もそうですけど、『来月からどうやって事業を進めていこう』『お給料が払えないかも』『工房そのものをたたまなければいけないかもしれない』と様々な言葉が頭に浮かんでは消えていったんです。
幸い社員は全員無事でしたが、工房兼事務所の社屋は全焼。火事がおさまり、社員全員が集まった元社屋の敷地には、茫然自失になる男性社員や、泣いている女子社員の姿がありました。そこで正幸さんが発したのは「みんなが無事でよかった。さぁ、もう一度つくろう」という言葉だったそうです。
奈緒子さん:その時は、私も社員も、みんな不安だったと思うんです。家具にする木材がない、工作機械もない、すでに完成した家具も焼失してしまった。私も含め、社員全員が「もしかしたら会社が解散してしまうかもしれない」と考えたと思うんです。きっと正幸さんも同じことを考えていたと思うけれど、不安を吐き出さずにみんなの感情を背負い込んでくれました。
正幸さん:その言葉は自然と口から出たものだったんです。僕たちの会社は岡山の山奥にあるから、社員が入社する時には移住してもらわないといけない。大きく環境を変える選択をしてここに来てくれるなら、雇う社員は家族のように接したい。そう考えているから、まずはみんなが無事でよかったと思いました。
ようびをまだ続けようと考えたのも、自然に思ったことです。目に見えるものはなくなったけれど、ようびが目指している「いつか風景になるものづくり」という未来は僕たちにしか作れない。
ようびという居場所を継続することは、社員を守ることと同義です。そして、事業を続けることは、「いつか風景になるものづくり」という未来をつくることにつながる。ようびを続けることを選んだのは理屈で決めたことではなかったんです。
その日から片付けを開始し、2週間後には、ようびは仮工房で制作を再開。同時に、新社屋の再建に向けて動き出していました。
ゆうび新社屋再興プロジェクト「ツギテプロジェクト」とは?
ようびの新社屋再建プロジェクトは「ツギテプロジェクト」と呼ばれています。このプロジェクトで再建が進められている社屋は、9cm角の杉の間伐材を組み合わせた格子状の建物です。
使用される木材は約5500本。新社屋につかわれる木組みは、ある方の発案と多大な協力により実現しようとしています。そして奈緒子さんが室長をしている「ようび建築設計室」の設計によって建てられる予定です。2階建ての建物には工房のほかに事務所や大きな食卓、来訪者が泊まる居室が設けられます。
これらの木材は全て、ようびの社員さんや大工さん、ボランティアスタッフによって、1本1本丹念に加工されているそうです。
奈緒子さん:再興の話が出た時には、鉄骨で早くしようって話も出ていたんです。でも、それじゃ私たちらしくないと思って、森で木を育てる時に出る「間伐材」を使った社屋を設計しました。
木材の加工に協力してくださっているボランティアのみなさんは、今までに約250名以上の方が集まってくれています。その中には、遠方から繰り返し来てくれる人も多いんですよ。
ツギテプロジェクトのツギテとは、木材をつなぐ木組みのこと。プロジェクトに関わる人同士の「つなぐ手、継いでいく手」そして、「未来への次の手」のことを指します。ツギテプロジェクトが過去に行ってきた再建ワークショップは約200件以上。材料の提供や、ごはんの炊き出し、作業への参加などたくさんの人が集って進んでいます。
新社屋の外壁に使われる予定の合板足場板の材料はプロジェクトを応援したいと提供されたもので、広島県廿日市に拠点を置く古材の専門店、株式会社WOODPROからの贈り物でした。
正幸さん:提供された木材は、京都の東本願寺が修復される時に使われていた足場板だったんです。計900枚にもなるそれらの板は、WOODPROで販売される予定のものでした。代表の中本さんは大事な足場板を「必要なものだろうから、使ってくれ」と譲ってくれたんです。バトンを渡されたような、とても嬉しい出来事であると共に、とても責任のあることだと思いました。
奈緒子さん:WOODPROの中本さんや地域の方々、ボランティアの皆さんに支えられてとても嬉しい反面、プレッシャーに押し潰されそうになることもあります。プロジェクトを進める重圧もありますし、実を言うと、今でも火事のことは乗り越えられているかよく分からないんです。
でも、ここまで続けられてきたのは支えてくれる人がいてくれたこと、やらなきゃいけないことが粛々と続いてきたからだと思うんです。ひとつひとつを取り上げると辛いかもしれない。でも、ひとつひとつ片付けていると心に余白ができてくるんですね。全部片付けたら見る必要がない過去になるのかなって、そう思って過ごしています。
正幸さん:僕も火事のことは乗り越えられていません。僕の人生の中で、あれほど激しい感情を覚えたことはありませんでした。感情の種類も深さも様々なことが入り混じって、諦めや怒りに変わりそうになったこともあります。でも、その感情をどのように転じるべきなのかを試されてるんでしょうね。
僕達のような普通の人間が身の丈以上のことをしようとすると、たくさんの人に協力してもらうしかないんです。でも、普通の人が何人も何人も集まると、普通じゃないことができるんですよ。そうやって、集うことでできることを僕は「民技のものづくり」と言っています。
再建の作業は業者さんに頼めばきっと楽に早くできますし、自分たちやボランティアのみなさんと作業をすることは効率の悪い方法かもしれない。でも、人が集い、建物が建った後に「自分もこれを作ったんだ」って思ってもらうことができたら、建築物と人のつながりができて、またこの土地に来てくれるかもしれない。新しい社屋もまた、「やがて風景になるものづくり」という志につながるものなんです。
大島さん夫妻が、社屋を失ってもまだ前を向けた理由は、「やがて風景になるものづくり」という指針と、周りの人々の支えがあったから……。とまとめるのは少々乱暴かもしれません。
大島さん夫妻は、まだ当時のことを受け止めきれていないそうです。それはまだ、大島さんたちが火事を乗り越える渦中にあるからなのでしょう。
何かを失った時や、人を亡くした時は、悲しみに暮れている暇はなかったりします。慌ただしく次から次へとやるべきことがやってきて、ふと落ち着いた時にはじめて悲しみが襲ってきて涙を流したり……。
大島さん夫妻が本当の意味で社屋の焼失を受け止められるのは、おそらく新社屋が完成した後になるでしょう。
過去を過去として受け止めた大島さん達のそばには、きっとようびの社員さんの姿があるはず。新社屋にはお手伝いをしてくれたボランティアの人々が遊びに来て、新社屋を目当てに村を訪れる人もきっといるのではないでしょうか。
生きていると、何かを失うことがあります。でも、新しいひとやものに出会うこともたくさんあります。入れ替わり立ち替り、その流れに必死に向き合うことが、何かを乗り越える秘訣のひとつなのかもしれません。
最終回となる次回は、ツギテプロジェクトに関わる人たちや、プロジェクトの目指すものをご紹介します。
◎ようびWebサイト⇒ http://youbi.me/
◎新社屋再建プロジェクト「ツギテプロジェクト」⇒ http://tsugite.youbi.me/
◎ようび特集記事はコチラ
第①回⇒ ものづくりは森づくり、人口1500人の山村に職能集団「ようび」ができるまで
第③回⇒ 社屋を失った職能集団「ようび」、その先に得た人との出会い