第12回:島々で、私たちは生きている|女子的リアル離島暮らし

 

YADOKARIをご覧の皆様、こんにちは。小説家の三谷晶子です。宮古島から福岡、鹿児島によって現在、ようやく加計呂麻島に戻ってきています。
さて、今回、宮古島に行ったのは第11回でお話したギブミーベジタブルを見に行くことが目的でしたが、もうひとつ、理由がありました。 それは、私の祖父が揮毫(きごう)した俳句碑を探すことです。

自分が生まれる前の、祖父とその友人の方の交流に思いを馳せる


私の祖父は三谷昭と言い、新興俳句と呼ばれた俳句の俳人でした。
新興俳句とは、従来の花鳥風月を描くだけではなく、もっと人々の生活に寄り添ったリアルな心情を俳句にしようというムーブメントのこと。
その、新興俳句の潮流の中で、当時、宮古島在住の俳人、篠原鳳作さんとのご縁ができたのです。

宮古島の海岸からの写真。祖父とゆかりのある俳人の方もきっとこの景色を眺めていたのでしょう。
宮古島の海岸からの写真。 祖父とゆかりのある俳人の方もきっとこの景色を眺めていたのでしょう。

篠原鳳作さんは鹿児島出身。当時、教員として宮古島に滞在し、その間に制作した俳句が高く評価されました。 しかし、篠原鳳作さんは30歳の若さで亡くなります。その後、日本は戦争に入り敗戦。戦争後、沖縄は長く米軍統治下に置かれました。
存命していた頃は宮古島、鹿児島在住だった篠原鳳作さんは、東京にいた私の祖父と会ったことはないものの、作品を通して交流を深めていたようです。

沖縄が日本に返還された昭和47年。宮古島で篠原鳳作さんの句碑を建てようという話が持ち上がりました。句碑の文字は、ご存命であれば本人が書くことが多いようですが、篠原鳳作さんは既に故人。
そこで、生前の篠原鳳作さんと親交があり、互いに作品についての意見を交わしていた私の祖父が句碑の文字を書くということになったようです。

鹿児島と宮古島をつなぐ、対になっている句碑


句碑の建立は私が生まれる前。父は建立してすぐに行ったことがあるようですが、何分40年以上も昔のことなので、場所もうろ覚えです。
父のおぼろげな記憶だけを頼りに、私と父は宮古島内を探し回りました。

「なんとなく、公設市場の近くの病院のあたりにあった気がする」

父の記憶はその程度。病院の近くにはカママ嶺公園という大きな公園があったのですが、あまりにも広大過ぎて本当にここにあるのかも不安になるぐらい。

カママ嶺公園内にあるシーサーの滑り台。広大過ぎて遠近感を見失うような景色。
カママ嶺公園内にあるシーサーの滑り台。広大過ぎて遠近感を見失うような景色。

「やっぱり、こんな昔の記憶だけじゃ見つからないのかも……」
と弱気になりだした時に、句碑は見つかりました。

最近できたばかりのきれいな建物の横に句碑はありました。なぜか、大通りに面している方向とは逆を正面に建っています。 それは、句碑が鹿児島の方向を向いているからです。

こちらが句碑。正面が道路とは反対方向に向いています。
句碑はこちら側が正面のはずですが道路とは反対方向に向いています。

篠原鳳作さんの代表作、『海の旅』は、宮古島からご自身の出身県である鹿児島へ帰省する際の船の上で書かれた作品。鹿児島には逆に宮古島の方を向いた句碑が、本州最南端の場所である長崎鼻に残されています。宮古島から鹿児島へ、鹿児島から宮古島へ、対になっている句碑なのです。

本当ならば今回は鹿児島に行く予定はなかったのですが、急遽予定が変更になり行くことに。対になっている鹿児島・長崎鼻にある句碑がこちらです。
今回は鹿児島に行く予定はなかったのですが、急遽予定が変更になり行くことに。鹿児島・長崎鼻にある句碑がこちらです。

満天の星に旅ゆくマストあり

しんしんと肺碧きまで海のたび

幾日はも青うなばらの円心に

篠原鳳作さんの代表作と呼ばれる句はこちら。

当時、宮古島から鹿児島までは三日間にも及ぶ船旅をしなければ渡れなかったそう。日々、船の上から遮るもののない青い海を眺めていた篠原鳳作さんの心境がそのまま、こちらに染み込むような俳句です。

今も昔も変わらない、肺碧くまで染まるような海


私が住んでいる場所も鹿児島県、加計呂麻島。今回は飛行機で宮古島まで向かいましたが、前回は奄美大島から那覇まで船で向かいました。 奄美大島から那覇までは現在でも船で一泊します。

宮古島の東平安名崎の景色。この先の海が鹿児島にもつながっています。
宮古島の東平安名崎の景色。この先の海が鹿児島にもつながっています。

船の上での夜は、闇を流したように真っ暗な海と、頭上に輝く星だけが視界に広がります。
そして、朝。全てを染め変えるような朝日の光が照らし出す海は、それこそ肺の奥深くまで染み渡るほどにどこまでも遠く紺碧です。

鹿児島・長崎鼻から見る開聞岳と海。この海を渡り、篠原鳳作さんも私もここまで来たと思うと感慨深い。
鹿児島・長崎鼻から見る開聞岳と海。この海を渡り、篠原鳳作さんも私もここまで来たと思うと感慨深い。

何十年も前、祖父と親交があった方と同じルートで、こうして宮古島に来ている自分に自分が生まれる前からの時間と日々に思いを馳せ、その広がりに圧倒されました。

島に来たからこそ広がる不思議なご縁


宮古島では、そのほかにも不思議なご縁に恵まれました。10年以上前に沖永良部島に滞在した時の友人にばったり会ったり、その友人と食事をしていたら東京に住んでいた時に渋谷のバーで何度か会った方が開いているお店だったり。

6月の宮古島滞在時に行われた『美ぎ島 ミュージックコンベション』というフェスでの夕日。主催や出演者の方々が10代の頃の知人でびっくり!
6月の宮古島滞在時に行われた『美ぎ島 ミュージックコンベション』というフェスでの夕日。主催や出演者の方々が10代の頃の知人でびっくり!
宮古島で再会した沖永良部島にいた頃の友人が作ったキャンドル。奄美の海をイメージしたもの。
宮古島で再会した沖永良部島にいた頃の友人が作ったキャンドル。奄美の海をイメージしたもの。

「なんで、宮古島で!」
「それ、こっちのセリフ!」

なんて会話をして、懐かしい共通の友達と連絡を取り合ったり。

「遠い島にいるのに」
「でも、日本ってもともと島国だし」

そんな話をして盛り上がりました。

学ぶことは必ずしも情報量の多さで決まるわけではない


加計呂麻島は、第1回でも書いたように東京からものすごく遠い島です。 しかし、第5回で書いた伊良部島に住む友人や、今回、宮古島で再会した友人、そして、加計呂麻島でもなんと世田谷区に暮らしていた時に中学の同級生だった方と偶然再会したりと、島で暮らし、島に訪れたからこそ、また会えた人々もいます。

そして、祖父と篠原鳳作さんの関係を、時代を超えて私が知ったように、また、新たな広がりを島に住むこと、島で暮らすことで私は学んでいます。

この景色も宮古島からフェリーで20分の大神島のもの。大神島は現在人口20人ほど。しかし、脈々とこの島独自の文化が息づいている場所です。
この景色も大神島のもの。大神島は現在人口20人ほど。しかし、脈々とこの島独自の文化が息づいている場所です。
宮古島でお世話になっていた友人宅の犬。泳ぐ飼い主を追いかけていく忠犬です。
宮古島でお世話になっていた友人宅の犬。泳ぐ飼い主を追いかけていく忠犬です。

ものも、情報も、人も、都市部に比べれば断然少ないのが離島。

しかし、学ぶこと、知ること、人と出会い関わることは、量の多寡で決まるものではけしてない、というのが現在の私の実感です。

むしろ、「昔があるから今がある」という当たり前の事実を、素直に感じることができる、なかなか得難い環境なのではないかと思います。

島々で生きた人々の歴史と今を感じることができるこの環境。そして、それらを教えてくれる先人と今を一緒に過ごす方々と会えたこと。

肺碧きまで染まるような海と、満天の星のもと、自分が生まれる前から今まで思いを馳せる時、今ここにいる不思議さと喜びを何も遮ることなく、感じています。