第22回:伝説が今も息づく島々|女子的リアル離島暮らし

喜界島の方に教えてもらった秘密のビーチ。
喜界島の方に教えてもらった秘密のビーチ。

『未来住まい方会議 by YADOKARI』をご覧の皆さま、こんにちは。
小説家の三谷晶子です。本日は、先日訪れた喜界島と加計呂麻島をつなぐ伝説についてのお話をしようと思います。

加計呂麻島も、喜界島も同じ奄美群島の島。
私が住む加計呂麻島から喜界島は船か飛行機のふたつのルートがあり、船なら古仁屋という港から5時間、名瀬という奄美大島の中心部から2時間ほど、飛行機なら奄美大島の空港から、20分ほどです。
加計呂麻島から空港までが数時間ほどかかるので、所要時間はそれほど変わりませんが、島で暮らし始めて2年半が経過した私からすると「意外と近い」と思いました。

さて、私がどうして喜界島に行くことにしたのか。まずはそこから、お話ししたいと思います。

加計呂麻島、喜界島、奄美大島。3つの島に伝わる「むちゃ加那伝説」

喜界島はサンゴ礁でできた平たい島なので、このように集落から海がなめらかに続く景色が見られます。
喜界島はサンゴ礁でできた平たい島なので、このように集落から海がなめらかに続く景色が見られます。

奄美地方では知らない人はいないシマ唄『むちゃ加那節』にも歌われるこの伝説。島々によって伝わり方が違うのですが、大筋はほぼ同じです。

詳しくはこちら喜界島ナビ内の「ウラトミ・ムチャカナ母娘の伝説」をご覧ください。
http://kikaijimanavi.com/rekisibunka/minwa/muchakana.php

奄美群島は江戸時代、薩摩藩に支配された歴史があります。薩摩藩は島の人々に圧政を敷き、過酷な労働と重税を強いたそうです。
薩摩藩の役人は各地の島に赴き、島の土地を検地し管理します。その際に、島の美しい女性をいわゆる現地妻として囲うことがあったようです。

私が住む加計呂麻島の生間(いけんま)集落には、当時、ウラトミという美貌の女性がいらっしゃいました。ウラトミは美しさ故に薩摩藩の役人の目に止まり、役人はウラトミを自分の現地妻(こちらの言葉では「アンゴ」と言います)にするよう両親に要請しました。
しかし、ウラトミは、役人の現地妻になることを拒否します。
当時の情勢では、役人に逆らうということは、自分のみならず集落全体にも目をつけられるということです。役人は、ウラトミの住む生間集落全体に重税を課しました。

こちらは喜界島の景勝地、さとうきび畑の中の一本道。島から海と空が一望できる場所です。
こちらは喜界島の景勝地、さとうきび畑の中の一本道。島から海と空が一望できる場所です。

集落全体に迷惑がかかることに悩んだウラトミの両親は、「せめて、どこかの島に流れ着いて生き残ってくれ」とウラトミを小舟に乗せて海へ流します。
当時の時代から考えると、ウラトミはまだ10代半ばぐらいでしょう。
年若い女性が、故郷を捨てざるを得ない状態に置かれたこと、現在のような航海技術もない時代に真夜中の海にたった一人、小舟で漕ぎ出すしかなかったこと。想像を絶する苦しみだ、と私は思います。

しかし、その後、ウラトミは喜界島に到着。ウラトミの美しさ故に、喜界島でも少々もめ事はあったようですが、それでも島の男性と結婚をして子どもを授かります。その子どもが、むちゃ加那です。
むちゃ加那は、母のウラトミよりもさらに美しく、そのせいで島の女性たちの嫉妬を買ってしまいました。そして、島の女性たちに、海に突き落とされ、殺されてしまうのです。

この「ウラトミ、ムチャカナ母娘の伝説」は奄美群島では有名なお話ですが、私は、この伝説を身近に感じる機会がありました。
それは、私が島に来て一番最初に借りた家の大家さんのお母さまがきっかけです。

大家さんのお母さまの一言で、伝説が今も集落に伝わっていることを知る

喜界島の絶景ポイント百之台公園で喜界島でお世話になった喜界アイランドサービスの方と、喜界町地域おこし協力隊の方と。
喜界島の絶景ポイント百之台公園で喜界島でお世話になった喜界アイランドサービスの方と、喜界町地域おこし協力隊の方と。

2013年の4月。連載第1回でも書いたような成り行きで島に来た私は、「ここに住みたい」と思い、家を探し始めました。連載第2回に書いたような事情を経て、家が見つかり、大家さんがご親戚の集まりにご招待をしてくださったときのことです。

大家さんのお母さまは当時93歳。少々、お耳が遠くはなっていらっしゃいましたがとてもお元気で、その時もビールを美味しそうに召し上がられていました。
宴会にはお母さまのご兄弟も数多くいらっしゃり、私は「ご兄弟がたくさんいらっしゃるんですね」と言いました。

すると、お母さまがこう言ったのです。

「私の上にもたくさん女姉妹がいたの。けれど、皆、胸の病で死んでしまった」

大家さんのお母さまは、むちゃ加那伝説の舞台のひとつである生間出身。生間集落には、今も「生間では女の子が生まれない」「生間にはきれいな女性が生まれない」という言い伝えが残り、それがむちゃ加那伝説によるいわゆる祟り、呪いだ、と言われています。
それらが真実であるかはさておき、私が見聞きした現実として言い伝えが現在も伝わっていることは事実です。

大家さんのお母さまは、続けてこう言いました。

「だけど、私の父と親戚がふたりで船を出して、むちゃ加那さんのご供養に行ってくれた。それから、生間の女は生きられるようになった」

その1年後、大家さんのお母さまは94歳で亡くなられました。体調を崩されることはあったようですが、最後までしっかりとされていて、いわゆる大往生だったと聞いております。

そして、今年になり、ふと、そのお母さまの言葉を私は思い出したのです。

どうして、私がその話を聞いたのだろう。
どうして、お母さまは私にその話をしてくれたのだろう。

日に日に気になり、私は、むちゃ加那伝説のもうひとつの舞台、喜界島に行くことを決めました。

喜界島についてすぐに、加計呂麻島やむちゃ加那ゆかりの方々と出会う

喜界島の秘密のビーチに続く道。島在住の方と出会えたからこそ教えてもらえた場所でした。
喜界島の秘密のビーチに続く道。島在住の方と出会えたからこそ教えてもらえた場所でした。

喜界島に到着したのは夜の9時。ホテルにチェックインして、夕飯を食べに喜界島出身の友人からおすすめされたFunky station SABANIへ足を運びました。すると、お店の店長さんから「どこからいらっしゃったんですか?」と声をかけられました。

「私、加計呂麻島から来たんです」

そう言うと、店長さんは「私も平家上陸800周年のイベント(奄美大島、喜界島、加計呂麻島には壇ノ浦の戦いで敗れて島に流れたと言われる平家の落人伝説が残り、その上陸800周年を記念して2005年にコンサートなどのイベントが行われました)で、加計呂麻島に伺いました」と言い、「諸鈍(しょどん)集落の区長さんにその時は大変お世話になりました。その後、亡くなられてしまったんですけど」と続けました。

諸鈍集落は、現在の私が住む集落です。
「え、ひょっとして○○さんですか?」と私が聞くと、店長さんは「はい。おうちにまでご招待していただいて本当に良くしていただきました」と続けました。

店長さんがお世話になった当時の区長さんは、私の大家さんのお兄さま。
そして、私が住んでいた家は、他界されたお兄さまがかつて住んでいらっしゃった家でした。

「私、その前の区長さんが住んでいる家に住んでいたんです。それで、その方のお母さまがむちゃ加那さんのことをおっしゃってて、気になって喜界島に来たんです」

不思議なご縁に、息せき切るような気持ちになりながらそう言うと、店長さんが島のご友人を紹介してくださり、翌日、喜界町地域おこし協力隊の方が、むちゃ加那伝説ゆかりの地を始め、喜界島の名所を案内してくださいました。

その道中、また不思議なご縁で喜界島のむちゃ加那伝説の舞台となった小野津という集落の方とご縁ができ、むちゃ加那さんの血筋にあたる方とお話しをすることに。また、シマ唄『むちゃ加那節』で日本民謡ヤングフェスティバルでグランプリを取った川畑さおりさんもご紹介していただき、その場で唄を聞くこともできました。

喜界島で出会った日本民謡ヤングフェスティバルでグランプリを受賞している唄者、川畑さおりさん。その後、加計呂麻島まで来てこちらのお祭りでも唄を披露してくださいました。
喜界島で出会った唄者、川畑さおりさん。その後、加計呂麻島まで来てこちらのお祭りでも唄を披露してくださいました。

むちゃ加那伝説は、加計呂麻島、喜界島、奄美大島とそれぞれ伝承が違います。
違いがどうしてあるのかを、加計呂麻島、喜界島の血筋にあたる方や関係者の方のお話を伺って私なりに推測したこともありますが、ここでは深くはお話しません。
興味がある方は、喜界島や加計呂麻島に、訪れてみるとよいと思います。

ただひとつ、言えるのは「美しい女性が犠牲になった、この悲しい出来事を二度と繰り返してはいけない」と誰もが思っていた、ということです。

喜界島のむちゃ加那さんの血筋にあたる方のお話を伺い、私はこう言いました。

「あの、それって、加計呂麻島と喜界島は、何も悪くないですよね。むしろ、本当だったらご縁がある島としてつながっていたんですよね」

その場にいる誰もが、深く頷いてくださいました。

そのお話を、喜界島でのさまざまなご縁をつなげてくださったFunky station SABANIの店長、栄さんにすると、栄さんはこうおっしゃいました。

「これからも、加計呂麻島と喜界島を行き来しましょう。つなげましょう。それが、きっと皆さんの望みだと思うんです」

「私もそう思います。思いますし、そうしたいです」

そう答えて、私は、喜界島の皆さんと握手をして、帰路につきました。

「むちゃ加那伝説」は「伝説」と言われ、その出来事が全て事実かどうかという確証はありません。しかし、それでもこの話は現在も島々に根付き、「悲しい話を二度と繰り返さない」とそれぞれの島の人々が誓っています。

さまざまなものが飛び立つような雲が見えた喜界島の空。
さまざまなものが飛び立つような雲が見えた喜界島の空。
喜界島に初めて訪れたときに見た夕陽。
喜界島に初めて訪れたときに見た夕陽。

語り継がれた伝説を知る旅に出て、人々と出会い、また加計呂麻島に戻ってきた今。

「過去を語り継ぐ」とはどういうことなのか。
「悲しい過去を繰り返さない」ためにはどうすればいいのか。

島々に生きる先人たちを感じながら、私はそのことを自分に問いかけていきたいと思っています。

取材協力/喜界島地域おこし協力隊Funky Station SABANI川畑さおり、喜界アイランドサービス