第1回:日常から、一歩踏み出せばそこはジャングル|元新聞記者の、非日常生活。<ジャングルを走る編>

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前方の茂みから乾いた音がした。何か動物がいる。立ち止まり、いつでも引き返せるように半身の姿勢を取る。気休めなのはわかっている。草むらの向こうにいるのがジャガーだったら決して逃げられまい。
「今のうちに遠ざかれ」「きっと違う。正体を見極めろ」。
頭の中では相反する命令が主張し合っていた。流れ落ちる汗が足元の枯葉を濡らす。僕は息を殺して立ちすくんでいた。
不意に草むらから黒い影が飛び出した。安堵のため息をつく。小さなトカゲだった。
「ふうー」と息をついて、額の汗をぬぐって天を仰ぐ。うっそうとしたジャングルは昼でも薄暗い。空を覆う高木の隙間から差し込む光はわずか。見渡す限りどこまでも緑が続いていた。

足を止めたせいで、背中のバックパックがずしりと重くなった。いつまでも、うかうかしてはいられない。敷き詰められた落ち葉を蹴り、ジャングルを抜け出すために僕はまた走り出した。
日常の先は非日常。一歩先には見たこともない世界が広がっている。
願いは一つ。ジャガーと遭遇しませんように。

革靴をランニングシューズに

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昨年10月、ブラジル北部のジャングルに渡り、7日間のレースを走りきりました。上の回想は、そこでの一コマです。それまでは足でネタを稼ぐ新聞記者として働いていました。
すり減らした革靴を、ランニングシューズに履き替えたのは、ちょうど30歳の誕生日を迎えた去年の夏のこと。何の展望もないまま、退職した直後でした。

次はどんな仕事をしようか、自分の立ち位置を置くべきところはどこか。
青春の悩みリバイバルです。完全にこじらせている状態でした。どう働くのか。学生時代に悩み抜き、通り過ぎたと思っていた地点まで逆戻りです。

出口の見えない深い森に迷い込んでしまったかのようでした。

道に迷って密林へ

そんな折に、ブラジルの密林を走る「ジャングルマラソン」とたまたま出合いました。ネットで見つけた大会概要によると、気温40℃、湿度100%、黄熱病の予防接種とマラリアの予防薬の所持が必須とあり、なんとも刺激的でした。

ふと自分の足でどこまで走れるのかを試したい。見たことのない風景を見てきたい。そんな思いが湧き上がってきました。それまではハーフマラソンに出場したことすらなかったのに。
何かを成し遂げることで、自分の中で新しいスタートが切れるのではないだろうか。そんな期待もありました。仕事を辞め、人生に迷っている状態が、深いジャングルに分け入っていくイメージと自分の中で重なったからです。

価値観を変えるジャングル

大会に出場するだけで一苦労です。日本の真裏にあるブラジルから、さらに奥地のジャングルに行くには、50時間以上かかります。飛行機を乗り継ぐこと3度、最寄りの都市サンタレンからは船に乗り、アマゾン川の流域に広がる熱帯雨林、タパジョス国立公園にようやくたどり着くのです。
公園とは言うものの、観光地化はされていません。大会スタッフが言うには、旅人がほとんど足を踏み入れたことのない地域でした。

見渡す限り、眼前に広がっているのはジャングルと大河。過酷なレースに身を置き、ジャングルで過ごすことで、自分の考えや生活に変化が生まれました。
唯一の楽しみは走り終えた後に毎日眺める夕日でした。川で汗を流しながら、飽きることなく太陽が軌道を目で追い続けました。アマゾンの大河の果てに太陽が消える、最後のきらめきは何物にも代えがたい美しさです。

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そして、穏やかに時を刻む大河とジャングルは、ゆったりとした時の流れに身を委ねる心地よさを教えてくれました。
日本で会社勤めをしていたころとは180度異なる日々です。あくせく働き、休日にも予定を詰め込んでいました。何もせずに過ごすのは、怠惰に思えていたからです。
本当はオシャレなカフェや映画館、流行のスポットに行かずとも、夕焼け一つで満ち足りた気持ちになれるのに。

ジャングルに自分の足で立つと、日本からアマゾン川流域に入植した移民の存在が頭に浮かんできました。そのほとんどは農業移民でした。幾多の困難を乗り越えてジャングルを開拓し、農地を、自分たちの暮らす大地を作ってきた先人たち。異郷の地に骨をうずめる覚悟を抱いていたことは想像に難くありません。
そんな方々と自分を比べるのはおこがましいのですが、ジャングルに分け入り、果てしない森を進み続ける。この一点においては、自分と姿を重ねてしまいます。

ジャガーに遭遇したくないなら立ち続ける

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いよいよスタート。その前に、ジャングルに関してのレクチャーです。密林の脅威の一つ、野生動物への対処法でした。陽気で大ざっぱ、細かいことは気にしないスタッフが唯一、教えてくれたのがこれです。
以下が主だったポイントです。

◆一人きりのときは極力、座らない 重要度・必須
ジャガーは自分よりも小さな動物を獲物にするため、身をかがめていると襲われる危険性が上がります。

◆複数人で身を寄せる 重要度・高
ジャガーに遭遇してしまったら、イワシが大群を作るように、自分たちが大きな存在であることを誇示します。一人のときは両手を上げて威嚇を!

◆休憩前に近くの草むらを棒でたたく 重要度・中
毒ヘビなどが潜んでいないかを確認します。

◆噛まれた時こそ冷静に 重要度・中
毒の有無を見極めるために焦らず、襲ってきた個体の模様や特徴を観察しましょう。

◆手で払う 重要度・低
タランチュラやサソリは動作が遅く、毒性も弱いので素手で払いのけられます。

基本的には、動物たちも人間を警戒しています。スタッフは「ジャガーに遭遇できたらエキサイティングだね」とはしゃいでいたくらいです。出合い頭でなければ、そうそう襲われることはありません。終わってから振り返れば気楽なものです。

頭では分かっていても毎日、出発前には不安と期待が入り混じっていました。待ち受けているのは、ジャガーの潜む原生林、ヘッドライトを頼りに泳ぐ真夜中の川、腰まで浸かる泥沼など。
「今日は恐ろしい何かに出くわすかもしれない」。
明日が分からないから不安に駆られる。分からないから面白い。どちらにしても未知なる大地に一歩を踏み出し、自らの道を切り開くのです。

ジャングルの過酷な環境に翻弄されながらも、走り続けた1週間の出来事や感じたこと、密林で見つけた、暮らしの中で本当に大切にしたいもの。新聞記者から転身した、駆け出しの極地ランナー兼ライターが紹介していきます。どうぞ、よろしくお願いします。