YADOKARIと共振共鳴し、新たな世界を共に創り出そうとしている各界の先駆者やリーダーをお迎えして、YADOKARI共同代表のさわだいっせいが生き方のコアに迫る対談シリーズ。Vol.5は、株式会社モノクロームCEOの梅田優祐さんだ。前編では梅田さんの少年期からユーザベース創業と躍進、そして退任までをふり返り、梅田さんが人生で初めて手にした「ある感覚」に注目する。
梅田優祐(うめだゆうすけ)|株式会社モノクローム CEO(写真左)
米国ミシガン州生まれ。愛知県岡崎市出身。幼少期に日米を行き来し、横浜国立大学進学を機に上京。2008年にユーザベースを創業し、企業向け情報サービス事業を展開。その後「NewsPicks」を立ち上げ、新しいメディアビジネスモデルを確立。2016年にユーザベースを東証マザーズ(現・グロース)に上場させる。2021年、太陽光発電事業を手がける株式会社モノクロームを設立。現在も同社を経営しながら、横須賀市の湘南国際村に国際バカロレアを取り入れた小中一貫校「秋谷葉山国際学園(仮)」の創設にも取り組む。
さわだいっせい|YADOKARI 代表取締役 / Co-founder(写真右)
兵庫県姫路市出身。10代でミュージシャンを目指して上京し、破壊と再生を繰り返しながら前進してきたアーティストであり経営者。IT企業でのデザイナー時代に上杉勢太と出会い、2013年、YADOKARIを共同創業。YADOKARI文化圏のカルチャー醸成の責任者として、新しい世界を創るべくメンバーや関係者へ愛と磁場を発し続ける。自身の進化がYADOKARIの進化に直結するため、メンターとなる人に会うことを惜しまない。逗子の海近のスモールハウスをYADOKARIで設計し居住中。

43歳にして思う、人生の豊かさを決めるもの
さわだ: お忙しいですか?
梅田優祐さん(以下敬称略): いやぁ、いろいろやりすぎちゃってて(笑)、山登りやトレイルラン、アウトリガーカヌー、スキー…40歳超えてからそういうアクティビティに熱中し始めましたね。いつかはエベレストにも登頂したいし、やりたいことがたくさんある。来年はヨーロッパアルプスの3000m級の山々を、スキー板を担いで190キロくらい縦走する“オートルート”にも挑戦したい。それに行くためには一定のスキー技術と体力が必要で、行ける人間かどうかを見定められる機会が5月にあるんです。それに向けて忙しい(笑)
さわだ: 若い時よりも、40歳超えてからもっとエネルギーが上がった感じ?
梅田: ユーザベースの最後の頃に、自分の中から湧き出るエネルギーが弱くなっていた。それでCEOを退任しましたが、「やり切った感」はすごくありました。そこに対する後悔はない。今まで何か一つのことをやり切るということができず、幼少期から何をやっても中途半端ですぐやめちゃう所があって、それがコンプレックスでもあったんだけど、人生の中で初めて「やり切った」という満足感があるのがユーザベースでの経験です。一度そこまで行ったから、そこから次は何をやるか特に決めずにしばらくゆっくり過ごしていたんだけど、その反動なのか…
さわだ: しっかりエネルギーが貯まって、それが外に出始めたんですね。梅田さんはどんな子ども時代だったんですか?
梅田: 僕の出身は愛知県岡崎市というトヨタの城下町の一つ。父もトヨタグループの会社に勤めていて、同級生の親御さんも大方そういう感じ。至って普通の環境だったと思いますが、父の勤めていた会社がデトロイトに事務所を立ち上げることになり、そのメンバーに父が手を挙げて、母もついて行って、そこで僕が生まれたんです。生後間もなく日本に帰ってきて、5歳の時に再びデトロイトへ行き、9歳の時に帰ってきました。子どもだから、どちらの環境にも言葉にもすぐ慣れて。
よく、帰国子女は日本だとすごく窮屈で…と聞くじゃないですか。僕はそんなこともなく、日本は日本ですぐ楽しめたんです。アメリカの学校は自由だったけど、日本の学校は校則があり、パンツの色も白、制服も統一されている。でもそれは僕の目にはかっこよく見えた(笑) そこから高校までは地元の公立へ。でも、小さい頃から世界を見たことは、大人になってからも選択肢が日本だけじゃないと自然と思える感覚のベースになっているかもしれないですね。
さわだ: ご両親の教育方針はどんな感じだったんですか?
梅田: それなりに自由にさせてもらっていたんじゃないかと思いますが、僕は常に天邪鬼な所があるから、親がやれと言ったことはやらない(笑)。ただ、何か熱中できるものをずっと探し続けてきた。好奇心は旺盛で常に新しい世界を見たい欲求はあったから、大学では絶対県外に出たいと思っていました。何があるか分からないけど東京に出ようと。とはいえ一人じゃ淋しいから、ユーザベースの創業メンバーの一人でもある、同じ高校の稲垣(*稲垣裕介氏/現・ユーザベースCo-CEO、NewsPicks Co-CEO)を巻き込んで。結局僕は横浜、稲垣は埼玉の大学に行って、上京した当初は横浜と埼玉を行き来し合っていました。ちなみに妻も同じ高校の二つ下で、一緒に遊んでいた仲間だったんだけど、彼女も千葉の大学に進学して。
だから、皆もう長いですよね。今43歳になって、結局「人生の豊かさ」は何なのかと考えると、こういう「背中を預けられる仲間」がどれだけいるのかが人生の質の高さを定義するという気がしてます。ユーザベースの創業時の仲間達は今でも大親友で、一緒にいろんな経験をしながら山を登ってきた。この歳になって親友と呼べるそういう仲間がいるのは、やっぱりいちばんの財産だと思いますね。
さわだ: 友達をつくるのが上手なんですよ、梅田さん。
梅田: いや、苦手ですよ。僕は狭く、深く。やっぱり何か一定の経験を共有することで、本当の意味で深い関係になれると感じています。
人生で初めて見つけた熱中。仲間と寝食を共にしたユーザベースの創業期
さわだ: 梅田さんは、起業される前はコンサルファームや証券会社にいらっしゃったんですよね。
梅田: そう。でもそれも、昔から何一つ長続きしない自分が没頭できるものを探し求めて、結局何も無かったから、就職活動の時にまずはジェネラルな所を見ようということでコンサルティングファームへ行ったんです。その後のUBS証券も、よりグローバルな世界を見ようというぐらいの安易な感じで。
さわだ: じゃあ、ユーザベースでようやく探し求めていたものに出会えた感じなんですね。
梅田: 「これだ!」みたいな感じはありました。起業当時、「なんでもっと早く起業しなかったんだろう」と思った感覚を今でも覚えています。品川のマンションの12畳の一室で創業したんですよね。真ん中に丸テーブルがあって、炊飯器が置いてあって、毎日皆でそこで米を炊いて食って、そこで寝る。文字通り寝食を共にするみたいな感じが最高に楽しく、全然飽きない。取り組んでいるテーマも、ゼロからつくっていくことも、そのプロセスそのものも、すごく楽しかったです。
さわだ: 何年くらいそういうのを続けたんですか?
梅田: 最初の1、2年かな。2008年5月に創業して、本当は半年でプロダクトを出す予定でしたがなかなか上手くできなくて、2009年の5月で資金が尽きるから何が何でもローンチしなければならないという状況だったんですよ。つくっていたのは「スピーダ」という、金融機関向けのプロが使う情報インフラ。僕らが本当に目指していた製品にはまだまだ及ばない状態だったけど、キャッシュがないと生きていけないから、最初の数ヶ月はまだ機能もコンテンツも十分でない製品を昔からのお世話になった方々に半ば無理矢理買ってもらいながら食いつないでいました。でも、その間にも稲垣を中心に技術チームが頑張り続けて、だんだん理想の製品に近づいて行ったんです。
明確に覚えているターニングポイントは2009年11月。あるファンドが僕らの製品の機能を純粋に評価して契約してくれたのを機に、その後は不思議ですがババッと売れていきました。それまでは、本当に正しいものをつくっているのか、方向性そのものが間違っているんじゃないか、日々迷いながらやっていた感じでしたが、臨界点を超えると一気に。
水面下に潜っている時も必死でしたから、あるコンペで他社にはあるのに僕たちの製品には欠けていた重要な機能を「ちょうど今開発してます。もうすぐ出ると思うので結論を待ってください!」と言って、その会場を出た瞬間に稲垣に電話して、「つくるって約束しちゃったから、一週間でデモを見せられるぐらいまでつくって」と。そこから技術チームが一週間徹夜してコンペを勝ち取った、みたいな感じでした。でも、そういう日々を必死に生き延びるための積み重ねが競争力のある製品に繋がって行ったのだと思います。
事業はタイミング。上場を遅らせてでも挑んだNewsPicks
さわだ: すごいなと思うんです。僕は「NewsPicks」を見始めた頃から梅田さんを知ったんですが、ホリエモンさんと一緒にやり始めて、ある時点から一気に加速していった感じがありました。何がポイントだったんですか?
梅田: 「NewsPicks」はやはり時代背景がすごく大きい。スマートフォンが人々の生活に一気に浸透していく、何十年に一度のスタートアップのゴールデンタイムだったんですよね。パソコンの市場はYahoo!が独占状態だったからスタートアップなんか入れなかったけど、ユーザーが一気にスマホにシフトしていく時に市場にまだ独占的なプロダクトが無く、メルカリなどいろんな会社が誕生していった黄金期。
この時すでに「スピーダ」が黒字化していて上場が見えてきたタイミングだったので、もう一度赤字にしてB to Cビジネスを始めるのか、手堅くB to Bで上場させるのか、創業メンバーの間でも意見が割れました。でも、事業は時代のタイミングが絶対に重要。これはメディア業界の大きな変革期で、ここを逃したら一生B to Cのメディア事業には進出できないと感じたので、半ば押し切るような形で始めたのが「NewsPicks」でした。
その頃はもう葉山に住んでいて、横須賀線で通勤する1時間が僕の思考の時間。NewsPicksの初期の事業構想も横須賀線の中で生まれました。経済コンテンツのキングはニュースなんですよね。だから絶対に扱いたいんだけど、日本では日経新聞という独占状態の企業がある。それに対抗するには、スマホベースのニュースメディアにすることによって勝算の余地がある。だったら今しかない。その時の、ある意味思い込みも含めた勢いで、3年以内に黒字化させると条件を決めて、やろうと。そこでもう一度資金調達をしてB to Cを始めました。ユーザベースの上場は2016年、「NewsPicks」を始めて3〜4年後ですね。
「自分が喉から手が出るほどほしいか」を手掛かりに、躊躇なくやってみる
梅田: 「NewsPicks」の一つの転換点は、初代編集長の佐々木紀彦さんを迎えて、自社のオリジナルコンテンツをつくり始めたことだと思います。
最初は自社コンテンツはつくっていなくて、いろんな所からコンテンツを集め、識者にコメントしてもらうという形で始めたんです。その時にホリエモンさんや竹中平蔵さん、出井伸之さんなどに入っていただいて。最初は僕が、「こういうニュースが出たからコメントしていただけませんか?」というメールを一人一人送って、返ってきたコメントを僕や他のメンバーが手作業で入力するみたいな、できる手段を全部使って、コンテンツ集めと価値付けをしていました。
その中で、やはりスマホに最適化させた、ユーザーが見たくなるオリジナルコンテンツを自分たちでつくる必要があると感じ、最も理想的な人材として佐々木さんをスカウトしに行ったんです。
さわだ: やっぱり梅田さんはゼロイチが得意なんですよね。最初にその熱量で引っ張っていく。
梅田: 僕自身やっぱりそこがいちばん好きだし、力が湧く。すぐにやってみて、違ったら調整していく。何事もやってみなきゃ分かんない。小さなピボットを躊躇なくしていく感じで、方向性を合わせていきます。
さわだ: その最初のアイデアみたいなものは、どういうふうに降りてくるんですか?
梅田: それは僕の場合、毎回ごくシンプルで、「自分が喉から手が出るほどほしいか」というユーザーとしての感覚です。そうすると迷わない。市場地調査の結果や人の意見をベースに考えてしまうと、常に変数が外にあるから振り回されてしまう。そうじゃなくて源が自分の中にあると、全てが自分次第になる。そうするとエネルギーがすごく出るんですよね。
アメリカで陥っていた傲慢さと、最後に得た清々しさ
梅田: 「NewsPicks」でもう一つチャレンジだったのが、有料課金です。当時、スマホのアプリで1500円というそれなりの高い金額を課金するビジネスがほぼ無かったんですね。課金に見合う価値を提供してユーザーを伸ばしていきながら、広告と組み合わせていくという、紙のメディアと同じビジネスモデルをスマホで再現する。そこが最初のビジネスモデルでこだわった所です。
この1500円はどのように決めたかというと、メディアの業界では長年、紙のメディアが強いビジネスモデルを築いてきたんですよね。例えば新聞が月額4500円くらいだとして、そこには紙や印刷、配達網のコストなど、デジタルでは必要ないコストが3分の2くらいあり、純粋にコンテンツにかかっているのは3分の1くらい。そうすると単純に考えて1500円くらいの購読料にすれば、紙のメディアと同じぐらい強いモデルを実現できるはずだという仮説の下で始めました。
ところが最初は有料会員がびっくりするくらい伸びなくて。毎日値下げしようと思いながら通勤しつつ、1500円を維持して帰宅する(笑)。今は、値下げしなくて良かったなと思います。
さわだ: その「NewsPicks」が少しずつ軌道に乗って、アメリカに進出していくんですよね?
梅田: 「デジタルメディアのビジネスはいかにして成り立つのか?」という問いに対して、「NewsPicks」が一つの先行事例なんじゃないかと、アメリカ最大手のメディア企業 ダウ・ジョーンズの社長がうちを見に来てくれたんです。それで彼らと一緒に合弁会社をつくってアメリカに進出するというのが最初のプロジェクトだった。
ところが出資比率が50%ずつだったから、経営する僕にとってはストレスフルだったんですね。僕らスタートアップの「走りながら考えて突き進め!」みたいな考え方と、歴史あるダウ・ジョーンズの考え方が違いすぎて。だから合弁の解消に至るのですが、アメリカに進出して1年で単独でやるのは難しいから、すでに読者を抱えているメディアを買収して、100%自分たちの出資でやろうというのが僕のプランだった。
そこでクォーツという新興メディアが買収に同意してくれることになったので、アメリカで一気に垂直立ち上げしてやろうというのが、僕が最後の頃に取り憑かれていたプロジェクトですね。
梅田: 結果的にこのクォーツ買収には失敗してしまって。クォーツは非常にブランドのあるメディアで広告収入が強かった。それに対して「NewsPicks」の強みは有料課金の売上が半分以上を占めること。クォーツに、僕らが培った有料課金できるコンテンツのつくり方と、専門家のコメントという外部のネットワーク性を投入することで、より強い成長を描けるだろうというのが戦略だったんです。
ところが、広告と有料課金は相反する性質がある。広告はページビューを増やす必要があるのでタイトルをキャッチーにして、コンテンツを多く出すことが重要。対して有料課金は、お金を払ってまでも読みたくなるコンテンツの質が重要になり、数は必要ない。編集部で常に量と質の議論が出ることになるし、有料課金にばかり注力すると、今まで会社を支えてきた広告チームの意欲も削がれてしまう。
クォーツの経営陣は経営戦略にも合意していたし、うまくマネジメントもしてくれていたんだけど、広告事業の責任者が他社にヘッドハンティングされてしまったのをきっかけに広告の売上がみるみる下がっていった。課金の売上は上がってきていたものの、それをカバーするまでのスピードには至らず、これを続けていたらユーザベースで稼いだキャッシュの中でも持ち堪えられなくなるし、3年で黒字化させるというコミットメントも達成できない状況が見えて来ました。
選択を誤った、ということです。あの時も取締役会では反対意見もあったのに、今ふり返ると僕は傲慢になっていたと思います。確固たる根拠があるわけではないのに「俺なら成功させられる」と。「スピーダ」も「NewsPicks」も成功させてきたんだから、日本だろうがアメリカだろうが起業家魂は世界共通だ、みたいな意味不明な傲慢さ。
さわだ: でも「やり切った」という感じがしたんですよね?
梅田: うん、そう。人間、結果じゃなくて「いかにやり切るか」だと学びました。子ども達にもよく言うことですが。結果自体は僕としては当然満足できるものではないし、理想としていたものでもない。でもこれだけ「清々しい」というか、「前を向ける」というか、そういう感覚があるのはやはりちゃんと「全力を尽くした」ってことだと思うし、本当はそっちが重要なんだということを学びました。
社長は「最も情熱があふれ出ている人」がやるべき。退任の引き際
さわだ: その後、少しご自身でお休みを取られたんですよね。
梅田: はい。ユーザベースの最後の方で、社長を退任させてもらいたいなと思ったのは、今までは寝ても覚めてもやりたいことが自分の中からあふれ出してきていたのに、それがどんどん弱まっていって、メンバーから上がってくる提案を承認しているだけの人になっていたから。その頃の僕が社長でいるのは自分の人生の喜びとしても違和感があったし、会社としても、僕よりもっと情熱にあふれているメンバーが社長をやるべきだと思いました。そんなタイミングが来た、という感じですよね。
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熱中できるものを探し求め、あり余るエネルギーの注ぎ先をユーザベースに見出した梅田さん。日本での成功とアメリカでの苦い経験から、結果よりも「やり切ること」の重要性を体感し、清々しい気持ちで退任を選んだ。それは梅田さんの命が完全燃焼した体験だったのかもしれない。
後編では、モノクローム設立のきっかけやスタートアップの事業承継、湘南国際村につくろうとしている新しい学校のこと、そして死ぬ時のことについて、さわだが深く対話する。
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源が自分の中にあると、全てが自分次第になる。そうするとエネルギーがすごく出るんですよね。