【世界の道の上から vol.4】ベトナムの路上カフェ文化で感じた、“アメーバのような”共同体感覚
ベトナムの路上カフェ文化
ベトナム・ハノイの旧市街を歩く。
数時間街を散策していただけで、他の都市とは異なる、ある特徴に気づいた。それはベトナムには、道のうえで営業する「路上カフェ」や「路上飲食店」が非常に多いということだ。
車やバイクが行き交う道路にはみ出して、簡易的なステンレスのお盆とビール瓶ケースで作ったテーブル、そしてプラスチックの椅子が並んでいる。店は開放的な造りで、お客さんは、道路の端でご飯を食べたりコーヒーを嗜んだりする。
ベトナムでは、フランス統治下時代にカフェ文化が広まった。その名残で、都市部でも路上カフェや路上飲食店がまだ多く営業をしているのだそう。
日本だと公共物の道路の上で、ご飯を食べるなんてなかなかない光景だ。
しかし見方を変えてみれば、道は「みんなの物だから使ってはいけない」のではなく、「みんなの物だからこそみんなで使う」という考えでも良いかもしれない。
それも納得できる。確かに、気軽に立ち寄れることができる路上飲食店は、街の人々の社交場としても機能している。カフェや飲食店に「お邪魔している」という感覚は少なく、 “自分に属する場所”の範囲が、街の上にグッと拡張する感じがあるように想像できる。
独立記念日の賑わいの中で
9月2日、ベトナムの独立記念日。
旧市街の中心地は、歩行者天国ならぬ、飲食店天国となる。
街はお祭り模様で、屋台が賑わっていたり子どもたちが風船を持って走り回っていたりと、微笑ましい光景が続く。
夜になるといつもは道の端に寄っている飲食店も、交差点の真ん中ギリギリまで、テーブルと椅子を広げる。まるで街全体が、一つの食事処になったようだ。
(車やバイクは渋滞がひどく、人々の横をスレスレで猛スピードで通行していく。が、一旦その問題は置いておこう。)
家族や友人同士、観光客などが雑多に道の上に集まり、それぞれ思い思いにご飯を食べて時を過ごす光景は、なんとも幸福に溢れている。大音量でカラオケを流してノリノリに踊っているグループもいる。
道を歩いているのも、ご飯を食べているのも、隣り合わせになっていてそこには明確な境界線はない。そのごちゃまぜな感覚が、なんとも心地よい。
道という公共物の上で、そんな混沌の中食事をとっていると、不思議と自分がここにいてもいいのだと思えるのだった。
食事を通して、街と自分の身体が一つになる
横の席の人と肘がくっつくような距離感でご飯を食べていると、日本では味わえない、なんというか……この土地・ベトナムでも、何らかの形でどこか人と繋がっていて、私は一人でなく全体の一部なのだ、という“共同体感覚”を得られる。
社会学者・宮台真司が著書の中で、昭和の子どもたちには大人数で大縄跳びをしたり鬼ごっこをしたりして、人々が「一つのアメーバになる」感覚があったと表現したが、まさにその感じだ。
また食事というのは、人間の営みの中で重要な意味を持つものだ。
時々「食事をする姿は人間くさくてあまり他の人に見られたくない…」なんて言う人もいるが、それにはいわゆる “本能的な姿”を見せるのが恥ずかしいという気持ちが一部あるのだろうと思う。
しかし人前でガツガツと食欲のままに、丸焼けのチキンを齧っていると、自分はただの “一つの身体”であると感じる。そして自分が生きていることを実感し、なんだか自分自身の生そのものを肯定できるように思う。食事を通して、街と自分の身体が一つになっていくような感覚すら覚えるのだった。
ビールとニワトリの足を胃袋に入れながら、道路の上でただ街を観察する。
現地の人々のお喋りをする声、フライパンで揚げ物をする音、バイクが街を駆け抜けるエンジン音、どこからか聞こえる工事の音、人の色々な足音…….そんなものに耳を傾ける。
街はひとときも私を退屈させない。
普段私は、バスや電車に乗って、流れていく街の風景や人々を眺めるのが好きなのだけれど、道の上から自分が止まった状態で、ミクロな街の風景を眺めるのは逆の感覚がある。そして、それはなんとも楽しいということに気がついた。
ベトナム・旧市街。バイクや多くの人々が行き交う道の上で、食欲のままにご飯をかき込む。
そこで感じたのは、大きな共同体感覚と不思議な安らぎだった。