【鏡祭トークセッション①「祈り」いのり】一人ひとりの「意宣り」を、守り続けるために

2024年7月6日、YADOKARIは創業10周年を記念して、1人ひとりが自分の人生を取り戻し新しい世界を創っていくために、“自分と、他人と、世界と向き合い、共に行動するための集い”「鏡祭」を開催した。イベントテーマ「180 〜めざす、もがく、変わる〜」の下、各界のゲストを招き、今向き合いたいイシューについて行った4つのトークセッションの様子を、YADOKARIに関わりの深い3人のライターが「鏡」となり、映し出す。本記事は、セッション①「祈り」のレポートだ。

「鏡祭」の会場となったのは東急プラザ表参道オモカド内にある「おもはらの森」

はじめに|「私の神様はどこにいる?」

YADOKARI と一緒に仕事をさせていただくことになり1年が経つ。
本音が見えにくい環境、仕事のために場所も時間も縛られる、そんな社会人生活に疲弊していた私にとって、世界を変える暮らしをつくろうと模索する彼らの姿は、これからを生きる希望のように見えた。そんなYADOKARIとの出会いをきっかけに、心に中に眠っていた想いや好奇心が掻き立てられ、世界の様々な場所から文章を綴り、多様な暮らしの営みが自身の価値観と溶け合う感覚を楽しみながら、日々を過ごしている。

旅する暮らしの中で私が最も魅了されていたのは、人々の「祈り」の姿だった。
ガンジス川の先をまっすぐな瞳で見つめ手を合わせるヒンドゥー教徒、私の旅の平穏を願い、神に静かに語りかけ祈りをささげるキリスト教徒の友人の姿はとても美しかった。

「何があろうと変わらぬ姿で自分を愛し、見守ってくれている。そう信じられる存在が常に心の中にいるのなら、どんなことがあっても強くあり続けられるはずだ。」

祈るという行為には、私の知らない豊かさがあるように思えたのだった。

自分の祈りの先となる神様のようなものを探し始めていたとき、鏡祭トークセッションのテーマが耳に入り衝撃を受けた。その1つが「祈り」だったからだ。
私の大好きなYADOKARIは、「祈り」というものをどう捉えているのだろうか。私の神様を見つけるためのヒントがあるに違いない、そんな期待を胸に、4人の対談に耳を傾けた。

————————————————————
テーマ:祈|いのり
意思、ありたい自分を守る日々の過ごし方、暮らしのアーティスト、礼拝的な瞬間、戦争と生活

【ゲスト】

●筒|ドキュメンタリーアクター / 6okkenメンバー
実在の人物を取材し、演じるという一連の行為を「ドキュメンタリーアクティング」と名付け、実践する。近年の活動に、十和田市現代美術館「地上」、ANB Tokyo「全体の奉仕者」など。主な受賞に、第28回CGC最優秀賞、やまなしメディア芸術アワード2023-24 山梨県賞など。Forbes Japan 30 under 30 2023選出。


●西山萌|編集者 / 6okkenメンバー
編集者。粘菌。多摩美術大学卒業後、出版社を経て独立。編集を基点にリサーチ・企画設計・場所づくり・書籍制作・メディアディレクションなど。アート、デザイン、都市などメディアを横断し、雑誌的な編集を行う。編集を手掛けた書籍に『ADCADE TO DOWNLOAD — Internet Yami-Ichi 2012–2021』(エキソニモ、2022)、『来るべきデザイナー現代グラフィックデザインの方法と態度』(グラフィック社、2022)他。


●鈴木なりさ|喫茶おおねこ店主
もっと声をあげやすい社会をめざして政治分野で活動中。2021年から吉祥寺「喫茶おおねこ」店主/経営。2023年武蔵野市議会議員補欠選挙立候補。現在、杉並区長岸本さとこ事務所スタッフ&ローカルイニシアティブネットワーク事務局。保護猫2匹と暮らしています♪


●伊藤幹太|YADOKARI ブランドフィロソファー
神奈川県横浜市生まれ、新宿在住。2019年にYADOKARIへジョイン。自社施設「Tinys Yokohama Hinodecho」の運営を経て、公園・広場・団地などを舞台とした地域活性化支援や、タイニーハウスの企画・開発業務に従事。2024年から、ブランドの精神・思想・哲学を探究し、文化圏へ浸透させていく役割「ブランドフィロソファー」に就任。
————————————————————

「意宣り」とは

伊藤:創業から10年、YADOKARIはメディア、タイニーハウスの販売、そしてまちづくりなど、暮らしにまつわる様々な領域へと活動の幅を広げています。こうして会社が大きくなる中で、なんでこういう活動に取り組んでいるのか、自分たちがどうありたいのかを見失い、悩むことが、会社としても僕個人としても増えてきているんです。

「祈り」と聞くと、宗教的なものをイメージされる方が多いかと思いますが、元は「意宣り」と書き「自分がこうありたい」という意志を宣言しながら、もしくは音にせずとも心に留めながら生きていく姿勢のことを言うそうです。

僕たちが「こうありたい」と願う確たる意志を持ち続けることの大切さを実感している今だからこそ、普段から「意宣り」をたずさえ、多様な業界で活躍されているお三方をお呼びしました。

最初に、皆さんが「意宣り」と聞いてどんな印象を持たれたのかお聞きしたいです。

:僕にとって「意宣り」は、すごく身近にあることだなと思いました。例えば500円玉が落ちてたら「今日はいいことがあるかもしれない」って思えたり、少し離れたところにあるゴミ箱にゴミを投げて、中に入ったら試験に受かる。なんて運試しをしてみる時だったり。
自分が叶ってほしいと思うことを、日常の中にある習慣と紐づけて考える時、自分がこうありたいという「意宣り」を、無意識のうちに実践しているように思います。

西山:ひとによって異なるとは思うのですが、誰しも心の内に日々何かしらの「祈り」をたずさえながら、自らの心のなかで意思を宣言するという行為は日常的に行われていることなのかなと。一方で「意宣り」を誰かと共有することはあまりないのかもしれないなと考えていました。

編集者として言葉を扱う仕事をしたり、日々目まぐるしく更新されていくSNSのタイムラインを見るなか、今の時代は、多くの人が誰かに発信することや伝えることに重きを置いているように感じます。だからこそ、伝えることを一番の目的としていない「意宣り」にはとても特別な意味があるように思いました。

鈴木:「意宣り」を誰かに共有することは、私にとってあまり身近なものではなかった気がします。例えばジェンダー平等や、気候危機の問題など、社会がこうなってほしいという「意宣り」を掲げたときに、周りから「意識が高い」と言われたり、冷ややかな目を向けられることが日本では多々ありますよね。
日本には「意宣る」ということを受け入れられない風潮があるように思います。

実現するためではなく、自分が自分であるための「意宣り」を

伊藤:「意宣り」を個人の中でとどめておくことは出来ても、誰かに共有したり、発信することは難しい。そんな中で、なりささんや萌さんは自分の中にある「意宣り」をどうやって守ってきたのですか?

鈴木:祖母の家に行くことが「意宣り」を守ることに繋がっていたのかもしれない。一緒にご飯を食べながら「今何してるの?」、「ちゃんとご飯食べてるの?」、「カフェの経営は大丈夫?」とよく聞かれていたんです。そんなときに私は「自分がこうありたい」という想いを再確認できていたような気がします。

西山:私は、精神的にとても落ち込んだり体調を崩したときなど、困難と立ち向かわなくてはならない際に「意宣り」を意識しているような気がします。

本当に辛くて立ち直れそうもない、誰かに相談しても解決できそうもないときってあるじゃないですか。そんなときに自分を助けてくれたのが、少し離れたところから状況を把握し、第三者の立場から見てくれているもう一人の自分の視点でした。こうありたいという「意宣り」から生み出されるそうした視点が、今の状況を精査して次の行動やマインドを作るのをサポートしてくれている感覚があります。

伊藤:筒くんは、俳優業を通して自分ではない誰かのことを自分の身体を通して演じていますよね。

:はい。ドキュメンタリーアクティングという、実在の人物を取材し演じるというプロセスを実践しています。今の話を聞いて、「ドキュメンタリーアクティング」という活動そのものが自分にとっての「意宣り」だったのではないかと思いました。

この活動を始めたきっかけは、まさに萌さんが言うように、友人を亡くし、自分が本当に辛かったときでした。

彼のお葬式に行ったとき、「彼はいいやつだったよね」とか 「オープンなやつだった」と、みんなが口々に言っているのを見ました。確かにそれは事実なんだけど、彼女の前では気弱だった姿とか、好きなことをやろうぜってみんなを勇気づけてくれていた半面、嫌いな仕事をクソクソって言いながらやってた姿とか、この言葉では表せない彼の一面がたくさんあったんです。その場にいると彼のそんな姿を忘れてしまうような気がして、怖くなりました。

僕しか覚えていない彼をこの世からなくしてしまったら、彼しか知らなかった僕もなくなってしまう。そんな恐怖をきっかけに始めたのがドキュメンタリーアクティングです。他者を演じることにより、自分自身を目に見えるカタチで残していく。作品を作るためではなく、自分が自分であり続けるために行った行動でした。自分にとってこの活動はきっと「意宣り」だったんですよね。

伊藤:ただ自分らしくあり続けるために、自分の意志をカタチにすることも「意宣る」という行為の一つなのだなと今のお話を聞いて思いました。

僕、学生時代に振られたことがあったんですけど、たとえ振られても相手を好きな気持ちは変わらないじゃないですか。叶うかどうか分からないけれど、それでも相手を好きと思う気持ちをカタチにするっていうのはある意味「意宣り」だったのかもしれない… (笑)

鈴木:叶うかどうかは分からないけれど、それでも自分の意志を置いておく。私の政治活動はその意味合いが強いです。

私が政治活動に関わり始めたきっかけは、選挙に立候補した先輩の手伝いをお願いされたことでした。最初は選挙に立候補するつもりはまったくなかったのですが、手伝い始めたらなんだかすごく楽しくて。仲間たちがみんな立候補する流れがあったので、私も立候補したんです。

当時は自分の声を残したいという気持ちが強かったです。全国でたくさんの若い女性が立候補した中で、受かった人はまだ半分ぐらい。でも、声を挙げたという事実はいつまでも残るじゃないですか。「あの人が立候補したなら、私も立候補しようかな」というように政治に参加する若い女性が、今後はもっと増えたらいいなと願っています。「挙げた声は残る」私はそう信じています。

伊藤:萌さんも、個々の声や想いをカタチにするような活動をされていましたよね。どんな想いで活動をされていたか、活動の紹介も含めてお話しいただけますか?

西山:ロシアによるウクライナへの侵攻が始まった時、日々凄まじい光景がマスメディアを通じて報じられるなか、それでも日常生活は続いていく。戦争にはもちろん反対、という思いを抱きながらも、遠く離れた訪れたことのない国に対してどのような思いを抱けばいいのか。自分たちに何かできることはあるのか。言葉にならない悶々とした心境にある人も含め、誰もが現在の状況に対して態度表明をできる形式を考えたいという思いから「WAVES」というプロジェクトを始めました。

当時はデモに参加し「戦争反対」と声を挙げることだけがまるで模範解答のように映し出されている状況がありましたが、戦争に反対するその先に、どんな世界を望んでいるのか、何を守りたいのかは、みんなそれぞれバラバラなはず。そういったそれぞれ異なるはずの想いが、「戦争反対」という一つの言葉だけに集約されてしまっていることに、私自身、強い危機感を感じていました。なぜなら、極端な例かもしれないですが、「戦争反対」だからこそ、戦争を食い止めるためには武力の行使も厭わない、という考え方もできてしまうからです。戦争反対という言葉で終わらせず、その先にどのような未来を思い描いているかで社会は大きく変わってしまう。それに「今の状況を受け入れたくはないけれど、募金やデモには距離感を感じてしまう。他にできることはないのだろうか」と考えている人が、実はたくさんいたんですね。

そうした状況を目の当たりにし、「私たちが何を思い、大切にしたいと考えているのか」、それを人と共有できる場を作ろうとスタートしたのが「WAVES」でした。明確な意見がなくても、必ずしも言葉で表さなくてもいい、なんでもいいからあなたにとって今大事にしたいこと、守りたいものは何かを考え、それをあなたの態度表明としてポスターに表してほしいと呼びかけました。そして活動に賛同してくれて集まった80以上の態度表明を、日本各地で巡回展示を行い、さらに多くの方と言葉を交わすことができました。

意宣りを共に守り続けられる場を

伊藤:僕、意宣りというものは個人のものであると同時に、自分だけでは守ることが出来ないものだと思っています。

ある時、自分が固定観念にすごく縛られていることに気づき「好奇心の奴隷になる」と決めて生きてきたんですが、その意志を守り続けることが出来たのは「それめっちゃいいね」って背中を押し続けてくれる仲間がいてくれたからでした。

筒くんたちが作っているアーティストランレジデンス「6okken」も、そこで暮らす人たちの「意宣り」を守ることに繋がっているんじゃないでしょうか?

:確かにそうですね。山梨に6棟の家を借りて、アーティストたちが暮らす場「6okken」を運営しているのですが、アーティストっていう言葉の定義を、音楽家や美術家などに限らず、その人が手放せばこの世から消滅してしまう視点に向き合い続けてる人というように言っていて。それは、「意宣り続けている人」と同じ意味合いがあるように思います。

大切な視点を持った個性の強い人たちをまとめ、マネタイズすることに難しさを感じていますが、こういった生活拠点がもっと増えたらいいなと願いながら日々活動しています。今後は、そんな場づくりをしてみたいと思う方々への道しるべとなるよう、6okkenを作るまでの過程や、今僕たちが直面していることやその解決策を記したレシピブックのようなものを作る予定です。
自分の意宣りを、1人ではなく誰かと共に守り続けられる環境は絶対にある、多くの人がそう思えたらいいですよね。

伊藤:なりささんは、政治活動してる中で「意宣り」を誰かに共有したり、守り続けるということをどのように実践されていますか?

鈴木:私は、先ほど萌さんが言った態度表明っていう言葉が自分の行動に近いように思いました。

自分が選挙に出る前までは、SNSで政治的なことを発信したことがなかったので、ジェンダーのことや女性の権利など自分の大切にしたいことについての発信を始めたとき、学生時代に知り合った人たちが、これまで通り友達でいてくれるかどうかがすごく不安だったんです。でも発信し始めたら、友人の意見を伝えてくれたり、イベントに呼んでもらったりと、むしろ友達が増えていました。
自分の「意宣り」を表明することは、人と繋がるための良い一歩なのではないかと思います。

「意宣り」を続けるために、自分を開いていく

伊藤:萌さんは冒頭で「意宣り」は必ずしも誰かに共有する必要のないものだとおっしゃっていましたが、この話を踏まえて何か感じていることはありますか?

西山:たしかに「意宣り」を誰かと分かち合えることができたなら、それはとても素敵なことだと思います。一方で誰もが「意宣り」を共有できる、そんな心地よい環境をつくるためは分からないことを無理に分かろうとしないことを大切にする必要があると感じています。

性別や世代など、それぞれ異なるバックグラウンドを持つ人たちと一緒に6okkenのメンバーと過ごすなかで、お互いを100パーセント理解して受け入れることは当然できない。わからないことをわからないままに、共に過ごすことも大切なのだと気が付きました。

わからないままでいることって怖いことのようにも思えるのですけれど、「わからない」という気持ちを自分の中にとどめたり、時に相手に伝え合える環境なら、それぞれが持つ「意宣り」を守り続けることができるのではないかと思います。

鈴木:「意宣り」を大切にするために、注意しないとならないことってたくさんある気がする。私たちは「意宣り」にポジティブな印象を持つ一方で、米軍基地での問題に声を挙げている沖縄の人たちなど、身近な人の意宣りに対して、見て見ぬふりをしてしまうこともありますよね。

:「意宣り」がスローガンのように掲げられ連帯が生まれたとき、その連帯を強めるために、他のものを虐げてしまうということもある気がする。これをしないためにも、外の世界に出て、他の人が持つ意宣りの存在に気付き続けることが大切だと思います。

西山:自分の「意宣り」にだけフォーカスして壁を作ってしまうのは、たしかに危ない。自分が願っていることがたった一つの「正義」や「正しさ」と呼ばれるものと繋がった瞬間、例えば政治だったり、何か大きなものに利用されてしまうことがあるかもしれません。

「意宣り」は絶対に消費されてはいけないものだと思っています。 そうはならないために、たとえ共感することができなくても、自分の知らない世界や、会ったことのない人たちの中にも「意宣り」があるということを知っていく、もしくはその世界に自分を開いていくことが大切になるのではないでしょうか。

:それこそこの鏡祭のような、「意宣り」をスローガンのようなものでカタチにしたり、掲げたりすることなく、等身大の自分として集い、それぞれの「意宣り」を映し合える場所が必要ですよね。

幹太:そうですね。「自分がどうありたいのか」、「目の前の仕事を何のためにやるのか?」そんなYADOKARIや、ここに足を運んできてくださった皆さんそれぞれ感じている等身大の違和感と向き合える場所となるようにと開催したのがこのイベントだったのですが、こういった場が僕たちには必要だってことに改めて気づけました。これからも「意宣り」を持ち寄り共有できるこの「鏡祭」という場を、守り続けていこうと確信しました。

終わりに|「意宣りの先は、もうすでにそばにあった」

これまでの人生の中で抱いた違和感や恐怖から目を背けずに向き合い、「意宣り」を守り続けてきた4人の元へは、対談後も多くの人が集まり、心を寄せ合う姿があった。
カタチにならずとも確かに心の中にあった想いが「意宣り」となり、その輪郭が段々と浮かび上がる。そんな感覚を覚えたのはきっと私だけではなかっただろう。
トークが終了した後の私たちのいる空間には、目には見えないあたたかな連帯の輪があるような気がした。これがYADOKARIの言う「YADOKARI文化圏」なのかもしれない、私はそんなことを考えていた。

自分のいのりの対象を外へ外へと探し求めていた私。
しかしそれは、世界のどこを探しても見つかるものではなく、すでに心の中にあるものなのだと、4人の対談から気づかされたように思う。そして声にならない小さな「意宣り」を互いに写し合い、守り合ってきた身近な人たちの存在にも。

どんどんと広がる「YADOKARI文化圏」の中で、どんな世界と出会えるだろうか。そんな期待を胸にこの社会を生きられることの幸せを、深く、噛み締めていた。