Life is beautiful – 海外と日本を行き来しながら時間や場所に縛られず生きる。ライター25歳の挑戦

暮らしの実践者に問いかけ、生き方のヒントを探求する「Life is beautiful」。
今回は、海外と日本を数カ月おきに行き来しながら、リモートワークで編集者・ライターとして活躍するYADOKARI編集部の鈴木佐榮さんにインタビュー。自らの探求テーマに従い、フィリピンやインドでフィールドワークを実施。異文化の中に身を置くことで見えてきた、佐榮さんにとっての「Life is beautiful」とは?

鈴木佐榮(すずきさえ)|YADOKARI編集部エディター/ライター
1999年生まれ。埼玉県久喜市出身。幼少期にインドに滞在したことをきっかけに異文化や海外、国際協力に興味を持ち、上智大学総合グローバル学部へ進学。特に文化人類学を探求し、フィールドワークの手法で現地での実践から身体で学ぶことを重要視。コロナ禍中の卒業研究では日本のノマドワーカーにインタビュー取材。新卒で入社した企業の在籍中にYADOKARIを知り、退社してライターへ転身。国内外の多様な人々の生き方に触れつつ、自己成長を目指す。

子どもの頃にインドで出会った、自分の知らない幸せの形

−佐榮さんがインドを初めて訪れたのは子どもの時だそうですが、その後の人生に影響を与えるほど強烈な体験だったのですか?

鈴木佐榮さん(以下敬称略): 10歳の時に、父の赴任先だったインドに2週間ほど滞在しました。母も弟も過酷な旅だったとふり返っていますが、私は本当に楽しかったです。当時、私は埼玉郊外の庭付き一戸建てに暮らしていて、それが幸せだと思っていたのですが、インドに来てみるとバナナの木でつくった小屋のような家に住んでる人たちが笑顔でイキイキと生きていたりして、世界には自分の知らない幸せがあるんだと驚きました。幼心に「私の知っている世界は小さかった! 世界は大きいぞ」って。

それをきっかけに海外に惹かれ、中学では語学留学でオーストラリアへ行ったり、高校では所属していた吹奏楽部でフロリダに演奏に行ったりと、何かと海外に縁がありました。大学では国際協力への関心から総合グローバル学部に進み、グローバルとローカルを見る視点を両方使いながら社会について学びました。在学中にアルバイトで貯めたお金で台湾や韓国、タイ、L.A.なども旅しました。

大学で学ぶ中で私が興味を持ったのが文化人類学、特にフィールドワーク※です。卒業研究では絶対にインドでフィールドワークをするぞと思っていたのですが、コロナ禍で海外渡航ができなくなり、文献調査でインドを研究するか、何か体で実感できる研究をするか迷った末、フィールドワークの手法で日本のノマドワーカーの研究をして卒業しました。

※①:研究対象について学術的な調査を行う際に、実際にその場所(現地)を訪れ、直接観察や聞き取り調査を行う調査技法。

ノマドワーカーの研究で気づいた、人間本来の自由な暮らし方

−現地で体感する研究を優先したんですね。なぜノマドワーカーをテーマに?

鈴木: ちょうど就活もしていた頃で、就職すると休みは基本的には週2日だし、自由に使える時間がかなり制限されることを悲観的に感じていたんです。そんな中、日本のいろんな場所、好きな場所で仕事をしながら暮らしている人たちがいるというのは私にとって大きな希望だったので、なぜそうしているのか、どんなふうに生計を立てているのか知りたかったし、自分もどうしたらそうなれるのか模索したいと思ったからです。

当時、コミュニティ型多拠点コリビングサービスが盛り上がっており、私も現地に入ってノマドワーカーの人たちと一緒に生活したり、インタビューしたりしながら研究しました。

−実際どんなことが分かりましたか?

鈴木: 以前からノマド生活をしたくてその環境を手にしたという人は意外と少なく、与えられた環境で一生懸命仕事をしていたら、場所に縛られない働き方を得て、会いたい人がいるから、仕事があるから移動をしている。そうした働き方・暮らし方が不可能ではないからやっているという人が多数派だったのが発見でした。最初は会社員として与えられた仕事をやりながらスキルを磨いていったらフリーランスになっていた、という人が多かったです。

皆さん、動きやすさを重視してあまり物を持たない暮らしをしていて、自分の好奇心や感情に対して素直に向き合っていました。こうした移動するミニマルな暮らしは、実は石器時代からあったということも分かり、人間の本来的・本質的な在り方なんじゃないかとも考えました。

この研究でいろんなフリーランスの方から、「仕事相手は企業の人が多いから、会社員の気持ちが分からないと大変なこともある」と聞き、社会人の最初は企業に入ってみようと、卒業後は地元のメーカーに就職したんです。

学生最後の1年は、友人たちと色を塗った軽バンで日本各地へ赴いた。

自分の未来を見失い、YADOKARIに出会う

−そこからどんな経緯でYADOKARIのライターになるのでしょうか?

鈴木: 就職した会社では約1年半の間に4回も引越しを伴う転勤をして、いろいろなフィールドや仕事を経験させていただきました。私が大学で、地域に入り込んで暮らしながら地域の文化や価値観を体で学ぶことをしていたという点が買われ、新たな工場の立ち上げのプロジェクトにも関わりました。周囲には度々転勤する私のことを遠方から気にかけてくださる方もいらっしゃり、出会いに恵まれていたと感じています。

ただ、日常の業務量が少なくて、会社での時間を持て余してしまうのに規定の終業時刻まで居続けなくてはいけない辛さや、「10年後は君も工場の立ち上げができるようになってね」という会社からの期待に自分の未来が決められてしまったような息苦しさを感じ、「定年までの辛抱だ」みたいな周囲の人の諦めの声も耳に入ってきたりして、心が疲れ切ってしまったんです。

コロナによってインドでのフィールドワークができなかった無念さも重なり、会社でひたすら時間が過ぎるのを待つ日々の中で、「今から飛行機に乗ればインドに行けるのに」と悔しくて、自分がそこにいることを受け入れられなくなっていきました。

そんなある日、YADOKARIのウェブサイトを見つけたんです。居住空間が移動するタイニーハウスや、それが象徴する自由な暮らし方に心が揺さぶられました。ライター募集の告知が出ていて、やったことはないけど応募してみようと。それで初めての記事(「“1つのことをするヤツら”へ 〜ブッシュマンが教えてくれること〜」)を書いてアプライしたら採用していただけて。会社員をしていた同世代にもすごく共感してもらえたみたいで、読んでくれた友人たちから何十通も温かいコメントをもらい、「私はたぶん、こういうことがしたいんだ」と思えたことも、新しい道へ進む決断につながりました。

ガンジス川で生と死を考える。自分が肯定される感覚

−その頃、人生で二度目のインドへ行ったのですね。どんな体験をしましたか?

鈴木: その時いちばん見てみたかったのが死体をガンジス川に流す儀式で、バラナシという町に滞在しました。亡くなった人を岸辺で焼いてガンジス川に流す所を、間近で見れるんです。包まれた死体から足が突き出していたり、焼かれて真っ黒になっていったり、落っこちた肉を犬が食べていたり、死体を流しているすぐ隣で沐浴をしている人がいたり。皆、当たり前のように焼かれて、流されていくのを見ました。

死ぬ時、人は本当に何も持っていないんです。会社員になって、「お金をいっぱいもらえるようになったけれど、本当にこんなに必要なんだろうか」と考えたりしたこともありましたが、その感覚を分かち合える人は周りにいなかった。自分だけがいつまでも子どもで、現実を見ることができていないんじゃないかと不安だったけれど、バラナシの空気感に包まれて過ごす中で、私の考えていたことが肯定されるような感覚になりました。

人間が生きる、死ぬって、こういうことだよなぁって。もっと驚いたり泣いたりするかと思っていましたが、ただただ、「そうだよなぁ」という感覚でした。

ガンジス川沿いで一番大きな火葬場「マニカルニカー・ガート」の様子

−「悟り」の境地のようですね。
鈴木: ずっと前から自分の中に、自分とは違う超越的な存在がいると感じていて、その自分があまり社会と結び付かず、肯定してもらえるものとの出会いも無かったのですが、インドにいるとその超越的な自分が守られるというか、日の目を見るというか、私の中の「悟った私」の方をそのまま出して大丈夫だと思えるんです。その私は日本ではあまり出せないんですけどね。

フィリピンのスラム街で気づく、レールに乗るだけで幸せらしきものを味わえる日本との落差

−佐榮さんは、日本での日常や現実に失望してしまっているということでしょうか?

鈴木: それが、今年の旅で少し世界を見る目が変化したんですよね。YADOKARI編集部に入り、今年の3月にフィリピンとインドに1ヶ月半ほど滞在しながら、現地からリモートで仕事をさせていただきました。その働き方が実現できたことは私にとって大きな喜びでしたし、特にフィリピンの旅では、日本の素晴らしさも感じることができました。

環境活動家の谷口たかひささんが主催する、スラム街に赴き、そこで暮らす子供どもたちとビーチクリーンをするツアーに参加したのですが、そこで暮らす人々は本当に楽しそうに生活しているようにしか見えなかったし、生きるエネルギーをもらったのも確かです。ところがその子どもたちは実は虐待を受けていたり、親の暴力から逃げるために路上で寝ていたり、ネズミに齧られて怪我をしていたりと、厳しい社会であることを感じました。日本にも社会課題はたくさんあるけれど、課題の質が違いすぎる。

一緒に生活をしていた同世代の友人が「日本のパスポートはビザなしでどこへでも行けるんだから最強だ」と何度も言うんです。彼らはグローバルサウスに属し、どんなに英語ができても観光ビザさえ取ることが難しいし、海外で働ける機会やワーホリなどの制度も少ない。会社員で時間の制約があったとしても、そもそも海外に行けること自体が恵まれているんだと気づきました。

一方で、彼らはたとえ海外に出るのが難しくても新しい世界への好奇心を捨てていないし、まだ見ぬ世界へ向けて自分の人生を切り開いていくことへの意欲がすごかった。学校に通いながらエンジニアとして働いている子は、早朝に家を出て深夜に帰ってくる。オーストラリアの企業でフルリモートで働いている子は、イギリス人の恋人と結婚してイギリスに住むために、暇さえあればイギリスの就労ビザを取得できる求人を探している。大好きな恋人と一緒に暮らせるようになるのか不安だと言っていました。

そんなふうに、自分の生活をもっと良くしたい一心で必死に生きる日々にあって、彼らは常にユーモアを絶やさないのです。仕事のない時間は家や公園で踊りながらカラオケをしたり、朝は決まってみんなの笑い声から始まり、必ず皆揃って朝食を食べます。もし彼らが日本の企業で働く同僚だったら、とても敵わないなと思いました。周囲にあるチャンスを迷うことなくつかみ続け、余暇の時間を誰よりも楽しみながらキラキラしているのだろうなと圧倒されたし、心から尊敬の気持ちが湧きました。何も考えずレールに乗るだけで一定の幸せを味わえる日本への違和感も感じました。

三度目のインドでむき出しの生をいきる。最も感動した「祈り」の姿

鈴木: その後にそのままインドへ渡って約1ヶ月、現地の人たちと暮らしてフィールドワークをしていたんですが、日本の幸せに気づけたと共に、日本に住んでしまっているが故に気づけない幸せがたくさんあることにも、インドでは気づかされました。

日本について私は「成長し続ける世界の怖さ」みたいなものも感じていて、どんどんコンビニが建っていくとか、全てのことがシステム化されて誰でもどこでも同じようなサービスが受けられることは、見方によっては不自然でもあると思います。バラナシではGoogleマップに載っていない道を歩くことも多いし、お店の人と交渉しないと物は買えないし、日本のようには整っていないことばかりだし、大喧嘩したり騙されたり。そもそもすごく暑いから生きているだけでも大変で、1日の終わりに今日を生き延びたことへの達成感がある。気温は毎日40℃以上、クーラーも冷蔵庫もない生活の中で、どうしても冷たい飲み物が飲みたくなって、やっとの思いでお店に行き、炎天下で飲んだ数十円のコーラがびっくりするほどおいしかった。便利になりすぎることで気付けなくなってしまう幸せがあるのだなと思いました。

現地で仲良くなった12歳の小さな友達に手を引いてもらいながらじゃないと夜の街を歩けない私は、インドではまるで赤ん坊のように無力で、全く違う社会に身を置いていることで、自分のいた日本の社会を少し高い所から見ることができました。

現地で出会った家庭のお母さんの仕事を子どもたちと一緒に仕事を手伝う様子。彼らと暮らしを共にしながら、距離を縮めていった

−日本にいると自分の命の周りに何かをたくさん着ているんだけど、それが真っ裸になるような感じですかね。

鈴木: そうですね、生身の感じ。インドでいちばん感動したものの一つが人々の「祈り」の姿でした。神様にたった一瞬でも祈るために何時間も行列に並んで、神様の前に這いつくばって祈りを捧げている。そんなふうにしてまでも「今世、そして来世でも幸せに生きたい」という気持ちが見える。その姿が、日本の会社で見た、何か人生を諦めてしまったような人たちの姿と対になるように思えました。より良い日々を過ごすことを神に祈り信じることをやめない人々。初めて見たものですし、エネルギーをもらいました。

異文化の中で自分の中の当たり前が溶けていく感覚は、どこに行っても感じるのかもしれませんが、インドはやはり特別で、この滞在を機に宗教学にも興味が出始めました。ガンジス川って今の私から見るときれいとは言えないんですが、私もいつか彼らと同じように、「ガンジス川は聖なる川だ」と言えるようになりたい。科学的なきれい・汚いを超えて、心からこの聖なる川に清められたいと思える日が来たら、沐浴をしたいと思います。

「今ここに行くべきだ」という、直感に従う生き方をするために

−佐榮さんは今後も、日本と海外を行き来しながら暮らしていくのですか?

鈴木: 今の私にとって自分や社会、世界を俯瞰して見る時間はとても大切ですし、フィールドワーク的な営みを欠かすことはできないので、時間や場所に縛られない現在のライフスタイルは手放せないなと思います。

−例えば大手企業などでもフルリモートで働くことが一般化しつつありますが、それとYADOKARIでの時間や場所に縛られない働き方とは、感覚が違うのでしょうか?

鈴木: 違いますね。それぞれが自分の人生に深く向き合っている環境がYADOKARIにあり、「次はどこに行くの?」と私の背中を押し続けてくれる。「私が私のままでいていい」と思わせてくれる環境があるからこそ、今のライフスタイルを続けられていますし、とても心地よさを感じています。

私は移動し続ける暮らしとか、海外と行き来する暮らしがゴールなのではなく、直感的に「今ここに行くことで自分に必要なものが得られる」とか、「今このタイミングで行くからこそ見られる世界がある」という、自己成長の機会をつかみ続けたいという気持ちが強いんです。その波が来た時に、身軽に乗れる自分でありたい。その波が、この先もしかするとどこかの会社に就職することかもしれないし、どこかに固定的な拠点を持つことかもしれない。そんな可能性もあると思っています。


−佐榮さんは今後、どんなふうに成長していきたいですか。将来の夢は?

鈴木: 少し恥ずかしいのですが、私はずっと、マザー・テレサやガンジーみたいな人間になりたいと思っていて。自分のためではなく、動物や、子どもや、社会的に弱い立場にある人に寄り添うことに、自分の命の時間を使いたいと思っているんです。だから今は心地良いけど、今のままではダメだとも思っています。

−マザー・テレサやガンジーが佐榮さんのロールモデルになったきっかけはあるんですか?

鈴木: 小さい時に行ったインドで、同じくらいの歳の子どもに「お金ちょうだい!」って手を出されたことはやっぱり衝撃でした。その時、自分はすごく恵まれた環境に生まれたんだと実感し、そのように生まれたのは奇跡みたいなものだから、その時間は自分の幸せのためだけに使うものではないなって、ずっと思ってます。

最近は友人たちからも、「どうやったらそんな生活ができるの?」「どんなスキルを身につけたの?」などと聞かれるんですが、私は自分と向き合い続けているだけだと思っていて、今が完成形でもないし、自分が優れているとも思っていない。今の私にこの働き方やYADOKARIという居場所があるように、皆がそれぞれの働き方や居場所を見つけられたら素敵だなと思っています。

−最後の質問です。佐榮さんがライターとして今後書いていきたい記事は?

鈴木: 誰かが本当に自分にとって大切なものや心の声に気づけるきっかけになるような記事を書いていきたいです。どの年齢の、どんな状況の自分が見るかによって、感じることや解釈、発見が変わる、自分の人生に携えたいバイブルのような作品ってありますよね。私がこれから書く記事もそんなふうに、誰かの人生に寄り添い続けるものになったらいいなって思っています。

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編集後記

「アドレスホッパーがしたいわけではない、私はただ自分と向き合い続けているだけ」と佐榮さんは語る。私たちが空虚さや閉塞感や所在なさを感じているとしたら、それは自分の真ん中にあるものをしっかり見つめ、育てることができていないからかもしれない。そこから目を逸らさずコミットすることに「勇気」を振り絞る。それが本当の自立と自由へ向かう道の、始まりの一歩になりそうだ。