第4回:狭いコミュニティ、使い捨てできない人間関係|女子的リアル離島暮らし
YADOKARIをご覧の皆様、こんにちは。 小説家の三谷晶子です。第3回では、加計呂麻島における仕事事情をお話しました。 今回は島の人間関係や家を借りる方法についてお話しようと思います。
「怖かったよ。でも、町のためだから」
第1回でも書いたように、私は昨年、福岡最東端の上毛町で都市部の仕事を持ち込みながら、田舎で暮らす試み『上毛町ワーキングステイ』に参加しました。 滞在した家は築100年以上の古民家。家自体の値段より価値がある職人さんが一年半がかりで作った仏壇があるという家です。
ステイする 期間が終わり、東京に戻らなければならない日の直前。私と一緒に滞在していたメンバーはオーナーさんのお孫さんの誕生日会に招待して頂きました。 そこで、私はオーナーさんに、前から疑問に思っていたことをお伺いしたんです。
「自分の生家ですごい仏壇がある先祖代々のおうちを、役場の企画といえど、見知らぬ人間に貸すのは怖くなかったんですか?」
普段は明るく笑顔で気さくに話しかけてくれるオーナーさんは、少しうつむいたあと、ぼそりとこう言いました。
「怖かったよ。でも、町のためだから」
私たちのメンバーは東京ナイロンガールズというWebマガジンの制作チームでした。メンバーは20代後半から30代前半の女4人。上毛町に暮らす人から見ると服装も派手だし、Webマガジンの制作チームという仕事も馴染みがないもの。得体がしれない、胡散臭いと思われても当然だったと思います。
それでも、「町のためだ」と家を貸してくれたオーナーさんの気持ち。 上毛町で私はたくさんの美しいもの、素敵なものを見たけれど、とりわけ忘れられないのは、オーナーさんのその一言です。
狭いコミュニティの中で家を借りるということ
先日の第3回のコラムで、読者の方からこのような質問を頂きました。
「田舎暮らしでは人間関係が狭いものだと思います。狭いコミュニティで困ることはないですか?」
都会では不動産屋に行けばたくさんの物件を紹介してもらえます。しかし、島に限らず田舎では知らない人には家を貸したくないという気持ちが根強くあるものです。特に、加計呂麻島ではまず不動産屋自体がありません。人づてに家を貸したいと思っている方を探し、お話をして信頼を得てからでないと家を借りるのはなかなか難しいと思います。
家を簡単に借りることができない。それは狭いコミュニティだからある問題なのかもしれません。 けれど、それはひとつひとつ考えてみれば、なるほど、と思えることだと思うんです。
先祖代々守ってきた大切なものを、大切にしたい。大切にできない相手、信頼できない相手には貸したくない。その気持ちは、私にとっては納得のいくことです。
大家さんに対する、自分のライフスタイルの説明
加計呂麻島で今、私が借りている家は、第2回で書いた生間港のWi-Fiを使って仕事をしている時に大家さんから声をかけてもらい、貸して頂きました。
「家を探している小説家の人? うちの裏にある家が空いているけど」
声をかけてもらって数日後に家を拝見した時、私の仕事がどういうものなのか、普段、仕事をしている時、どういうスタイルで暮らすのかをお話しました。
私の仕事はパソコンに向かって文章を書くこと。仕事が忙しくなればなるほど家から出ることができなくなります。そのほか、打ち合わせや取材などで東京や福岡に数週間行くこともあります。
都会では大家さんやお隣の方と交流などなかなかないもの。ですから、そんな説明も必要ありません。けれど、島は狭く人も少ない分、「最近、見ないけどどうしたんだろう?」「もう出ていってしまったのかな?」と疑問を感じるものです。
自分のライフスタイルや仕事などを説明し、きちんと信頼関係を築いていく姿勢をこちらから見せることは、とても大切なことだと思います。
現在も、私は大家さんに大変お世話になっています。
「自分の家に住むということはファミリーの一員になるということだから」
そんな風に言ってくださり、ご親戚の集まりに呼んで頂いたり、おすそ分けを頂いたりしています。 先日も台風の際に「心配だからうちに避難しなさい」と言ってくださいました。
そういったことを煩わしいと思う人もいると思います。プライバシーがない、しがらみがある。確かに都市部に比べて田舎暮らしにはそういった点があります。 けれど、それは逆に言えば、気にかけていただける、関わることができる、ということでもあると思うんです。
使い捨てできない人間関係
都会では人も多く、人間関係も「嫌だ」と思ったら離れることができます。しかし、人が少ない島では、会わないでいるという選択肢はありません。だからこそ、自分のことを理解してもらうように努めたり、どんな気持ちでここにいるのかを伝える必要性があります。
人間関係って本来、そういうものだと思うんです。簡単に「嫌だ」と思ったからといって使い捨てなどできないもの。 使い捨てではない、大切にしたいもののために努力をすることは、けして辛いことではない。むしろ、やり甲斐のあることだと私は思います。
都会より密な人間関係をどのように捉えるかは、結局は自分次第。ただ、人生に広がりや可能性を持たせるのは、自分以外の何かを知ることだと私は思います。
見知らぬ場所で暮らしてきた見知らぬ人の気持ちを知ることを、わずらわしいと思うか、知りたいと思うか。
去年までは名前すら知らなかったこの加計呂麻島に来て、私はまだ見ぬものを見ている気がします。