【対談・前編】 食卓でひとをつなぐWebサービスの作りかた、鍋をつついて話してみた。KitchHike代表の山本雅也さん×YADOKARI|未来をつくるひと〈100 People〉Vol.6
世界には色んな料理があります。中華、イタリアン、フレンチ、東南アジアを中心にした、エスニック料理も美味しいですよね。
最近はレストランも増えて、様々な国の料理が気軽に食べられるようになりました。けれど、家庭料理は?日本でいう煮物や、野菜たっぷりのカレーなど、いわゆる”おふくろの味”はなかなか食べるチャンスがありません。
食べられないなら食べてみたい!と思うのが人の性。ならばつくってもらいましょう。
KitchHike(キッチハイク)は、家庭料理を作る人と食べる人をつなぐ、マッチングコミュニティサイトです。
KitchHikeとは?
KitchHikeのサービスを分かりやすくいうと「食」のAirbnb。家庭料理を食べたいゲストは、料理をつくるホストにお金を支払い、そのかわりにホストがつくった家庭料理を堪能できます。
KitchHikeのホストは日本人だけでなく、日本在住の外国人さんもサイトに登録しているので、世界各国の家庭料理を楽しむことができます。
今回はKitchHikeの代表、山本雅也さんがYADOKARIの事務所に遊びに来てくれました。
3人で鍋をつつきながら話すのは、KitchHikeができるまでのストーリー。さて、どんなお話が聞けるのでしょうか?
遊びが無いからつくりたい
YADOKARI さわだ(以下、さわだ) 今日は山本さんがいらっしゃるということで、お鍋を用意しておきました。KitchHikeにちなんで、今日はYADOKARIがホスト側です。鍋を囲みながらゆるーり話しましょう。
山本雅也さん(以下、山本) いやーなんだか照れくさい(笑)。でも嬉しいですね、ありがとうございます。
YADOKARI ウエスギ(以下、ウエスギ) じゃあさっそくはじめていきましょうか。そもそもになってしまうんですが、山本さんはなぜKitchHikeを創業したんですか?博報堂グループという大企業に勤めていて、既婚者で、務め続ける選択肢もあったと思うんですけど、明日の保障のない世界に飛び出したのはなぜなんですか?生い立ちなども含めて聞かせてもらえますか?
山本 僕がこうしているのは、生い立ちや就職も含めていうと、ニュータウン育ちの影響が大きい気がしますね。ニュータウンって特殊で、遊びがあんまりないんです。つまり365日、だいたい毎日一緒な感じ。お祭りもないし、景色もコンクリートだからそんなに変わんないし。
ウエスギ じゃあ毎日ルーティンみたいな感じ?
山本 そう、毎日かなりルーティンなんですよ。田舎でもなく都会でもなくて退屈だったんです。
ウエスギ そうなんだ。
山本 小中学校の友達の影響が大きくて。地域のクラブチームとかで、小さいころ野球とかサッカーとかやるじゃないですか。そういうのをやってない5人ぐらいでいっつも遊んでたんですよ。
ウエスギ へぇ、帰宅部組みたいな、そんな感じで。
山本 僕らの口癖は小学生のときから「なんか面白いことしようぜ」で。遊びがないから作るしかない。
ウエスギ なるほど。
山本 例えば毎回誰かがターゲットになるんですけど、そいつがいない間に部屋に忍び込んで模様替えして帰るとか。あとは夜寝てる時に部屋に煙玉を入れるとか、子供のイタズラから始まるんですよ。自転車をトラの色に塗って、しっぽをつけるとか。山ほどやりましたね(笑)
ウエスギ やりたい放題ですね(笑)
山本 そういうのの応酬でしたね。刺激が足りなかったんでしょうね。10代はだいたいそんな感じで。だから、TVゲームとかもそんなやらなかったし、カラオケやボーリングも絶対行かないし。
ウエスギ そういう都会的な娯楽はあんまりやらなかったんですか?
山本 全然行かないですね。人に遊びを提供されることが無理な体になってしまったんです(笑)お客になるのが嫌なんですかね。
ウエスギ なるほど。
山本 だから遊びを作って世の中に提供したり、自分たちが楽しくなる遊びを自分たちで考えるっていう癖がついてましたよね。[protected]
さわだ それって天性のものなんですか?例えば親がこういうふうに生きろとか、自発的に物事を考えて創造的であれというような教育方針だったのか。山本さんはお父さんが建築家と話されてたけど、そういうことを叩き込まれたのですか?
山本 親父は空港の設計をしていたんですが、真面目すぎる男で(笑)仕事の話とかも全然しないし、出張や単身赴任もあって家にもあんまりいなかったですね。
さわだ そうなんですね。お父さんとはタイプが違うんだ。ではお母さんの影響はありますか?
山本 母ちゃんは面白かったですね。母ちゃんは僕が大学の時に大病を患って、ちょっと死にかけたんですよ。でも母ちゃんちょっと精神力がありすぎるんで、完治したんですよ(笑)それで、そのあと母ちゃんは、ずっとボランティアでやっていたクラシック音楽の仕事で起業して、自分の会社を作って、今もやってるんです、ずっと。
さわだ バイタリティーのあるお母さんですね。その行動力はお母さん譲りだと。
山本 そうなんです。だからバイタリティーは母ちゃん譲りですね。0を1にしようっていうのは全然慣れてて、なんの抵抗もないっていう感じはありますけどね。0から1を作る人、1から10に育てる人、10から1000に大きくする人、1000をキープする人、それぞれ能力や向き不向きがあると思うので、どれがいちばん凄い!ってわけではないですが、自分が好きなのはやっぱり0から1なんですね。
ウエスギ そんな中で、高校・大学とかはたぶん違和感があるじゃないですか。その辺りはどうだったんですか?実際の行動と気持ちの部分の。
つまんないのは僕のせい
山本 そうそう、僕がエピソードとして今でも覚えていることがあるんです。都立の一番いい高校に入ったんですが、小さい頃から変な遊びを一緒にしていた仲間は、そんなに頭が良くなくて(笑)、みんな高校がバラバラになったんです。で、高校入学早々に地元で集まったときに、僕は「高校があんまり面白くないんだよねー」みたいなことを言ったんですよ。「あぁそうなんだ。なんで?」って聞かれて、「面白いやつも話が合うやつもいないんだよねー」って答えたら、仲間のひとりが、「何でつまんないかって、お前がつまんないからだよ」って言われたんですよ。
ウエスギ おー、言われた。ガツンと。
山本 あぁ、なるほどね!と思ったんですよ。中3までは地元の仲間に楽しませてもらってたって初めて気づいたんです。それから「何かつまんないな」「うまくいってないな」って思ったときは、俺がつまんないんだなっていうのは常に思いますね。
表現で世界は変わらない
山本 それで大学行って、テレビ局とか出版社とか広告業界を選んだのは、面白いものを作って世の中を沸かせようって発想だったんですよ。今でも電波少年とか面白ドキュメンタリーみたいな路線が本当に好きなんですよね。僕のファッションは、いつもマイケル・ムーアを意識しているくらい(笑)。メッセージとか面白さで世の中に影響を与えようっていう考え方でやってたんですけど。でもあるとき気付いてしまったんですよね。
ウエスギ 何を気付いてしまったんです?
山本 表現で世界は変わらないっていうことに。これに絶望して。変わんないです、絶対に変わんない。
ウエスギ 広告の人が言うからそうなんだろうな。
山本 僕、大学の後半はコントを作っていたんですよ。だから台本とか脚本とか書くのが好きだったんです。大学時代は世の中を沸かすのは表現とかメッセージで、伝え方は面白かったり楽しい方がいいなと思ってやってたんです。
ウエスギ コントですか。世の中を湧かすことを会社でやろうって感じだったんですか?
山本 広告会社入って、今度は仕事でやってみようと思ったら、大企業なので分業分業で、自分のアイデアを世に出すのって、めちゃくちゃ難しかったんです。面白くてお金になることって難しいなと思った。若かったし、会社員としての能力が低かったんでしょうね。じゃあ、もうお金にならなくてもいいから面白いことをやろうと思って劇団を起ち上げたんです。
ウエスギ 社会人になってからも劇団をしてたんですね。
山本 それが社会人2年目の時で。メンバーは全員、博報堂の同期のメンバーで7人。みんな学生の時に何かしら舞台やパフォーマンスをやってたメンバーでコントやってました。
ウエスギ コントやってたんですか?
山本 そうなんですよ(笑)。ざっくり言うと、ラーメンズと新喜劇の間ぐらいの感じですかね。社会風刺とか皮肉っぽいネタもやっていましたね。だんだんお客さんもついてくれて、最後の公演では300人ぐらい来てくれて。
ウエスギ 300人はすごいですね!このとき劇団を起ち上げようって思ったのは、会社の中は自分のやりたいことする場所として、厳しかったと感じたから?
山本 そうですね、厳しかったって思いましたね。部署的にもそうだし、あとお金が発生しないと面白いことはやらせてもらえないっていうのがあったんで。会社入って世の中がもっと近づくと思ったら、会社入ったら世の中が逆に遠ざかったんですよね。でも、すぐ会社辞めようとは思わなくて。じゃあ、勝手にやろうって、結構ラフな感じで劇団は始めたんですよ。気軽に両方やろうって。
「これやったらおもしろいよ」で背中を後押し
ウエスギ 劇団はやってみて反響があったわけですけど。当時の心境とか覚えてます?
山本 かなり楽しかったですね。それで、劇団がきっかけで、雑誌に記事を書くようになったり、雑誌のPOPEYEで企画をやるようになったりしたんです。そこから社内でも、あの若い山本っていうやつは社外でいろいろやってるなーみたいな感じになってきて。
ウエスギ それで目つけられるようになった。
山本 さらにもうひとつ出来事があって、2010年の冬だったんですが、Airbnbの存在を知って家でホストを始めたんです。サラリーマンと劇団と雑誌の企画をやって、家に帰ると外国人がいる生活になりました(笑)。仕事をいくつもやってると、お金も何ヶ所からか入ってくるし、自分のアウトプットも何方向にもいくから、会社は不自由って思ってただけで、なんでもやって大丈夫じゃんって思ったんです。POPEYEでバイトしてたのがばれたときは、会社にすごい怒られましたけど(笑)
さわだ そこからKitchHikeにはどう繋がるんですか?はじめた理由は何だったのですか?
山本 そのときはまだ「メッセージで世界は変わる」とか「世界は面白くなる」とか思ってたんです。ライブをやって、僕らは満足して楽しくて、お客さんも盛り上がってくれてたんですよ。ただ1人、あるOLさんが衝撃的なメッセージを僕に言ってきたことがあって。
さわだ それってどんなメッセージだったんですか?
山本 最初は「今日は面白かったです、ありがとうございます」って話をしたんですよ。半年後に次のライブでまた同じOLさんが来てくれて。「今回も面白かったですと。赤坂ワラカスさんのライブを見ると励まされて、自分も会社の外で新しいことをはじめたい」っていわれて。僕らもう嬉しくて。その次のライブにまたそのOLさんが来てくれて、「何か新しいこと始めました?」って聞いたら、「やる気は出たんですけど、何していいか分からないんですよね」って言ったんですよ。
ウエスギ 「やることがわからない」ってよく聞きますね。
山本 ショックでしたよね。僕は常にやりたいことはいっぱいありすぎて、どれをやるかっていう感じなんですけど、世の中の人はやる気が出ても何をしたら楽しいのかが分からないらしい。公演をしてメッセージを出して、人の背中を押しているつもりだったんですけど、結局背中を押された人が何やっていいか分かんないなら、あんまり意味がないなって思ったんですよ。
さわだ そこで「メッセージ」の無力さに気付いたわけですね。
山本 それで、じゃあ背中を押された人が何をしたら楽しいかっていうその具体的な方法まで、もう考えようっていうふうに思ったんです。これやったらすっごい面白いよ!って。それが、KitchHikeだったんですよ、僕の中では。
(対談ここまで)
子供時代のイタズラにはじまり、会社員時代のコント劇団の活動を通して、楽しむこと、遊びをつくることにどん欲だった山本さんの半生。
ライブに来てくれたOLさんの言葉を受けて、山本さんはあたらしい試みをはじめます。後半はKithchHikeをつくった背景にある、山本さんの価値観を聞いていきます。[/protected]