第1回:帰国子女、仕事を辞めて旅に出る、農に目覚める
YADOKARIの読者のみなさま、はじめまして、江里(えり)と申します。今回ご縁があって、ライターとして参加させていただくことになりました。「脱線帰国子女、農を求む」というテーマ名でこれから記事を執筆していく予定です。
最初の記事内容は、キーワードである”脱線” “帰国子女” “農” を選んだ理由を含めた、ぼくの自己紹介。中学時代を過ごしたサイパンでの暮らし、仕事を退職して1年間の旅に出た理由について。
「こんな26歳もいるのか」と少ない刺激でも与えることができたら嬉しいです。
端から端まで車で30分の島、サイパン
親の仕事の関係で、中学時代の3年間を過ごすことになった島、サイパン。位置は小笠原諸島の南側、日本から飛行機で3時間半、人口は6万人弱、公用語はチャモロ語と英語、「大きさは沖縄本島の10分の1」とでも説明すれば、なんとなく想像いただけるでしょうか。
小学校を卒業したばかりの僕が知っていた単語は、”Hello”のみ。内向的な僕は、現地の学校に慣れるまでに1年間かかったと記憶しています。
あまりにもクラスメイトと会話をしないので、先生から親に「ヨシ(当時の呼び名)は大丈夫か?」と何度も話があったそうです。
暮らしの原点は、サイパン
当時を振り返って思うのは、「暮らしがシンプルだった」ということ。社会人になって6年ぶりにサイパンを訪れたときに、バーで隣に座っていた現地のおじさんと熱く語り合ったことがありました。
「サイパンの暮らしは、ほんとにシンプルなんだ。毎日が同じことの繰り返しだけど、それをみんなが幸せだと思ってる。何も欲しない、そこにあるもので暮らしてる」 – バーで出会った現地人のおじさん
特に東京にいると、物事のスピードや進化が早くて、それを追っているだけで息切れすることがあります。
そんなときに、僕はいつもサイパンでの暮らしを思い出すようにしています。新しい技術に興奮することも大事だけど、いま目の前にあるもので満ち足りる心も、同じくらい大切だと。
5年後の自分がイメージできなかった
サイパンから帰国して、”帰国子女”として高校に編入。水族館の職員になるために2年間専門学校に通い、全く関係のない職場に就職、最終的に3年半東京で社会人を経験します。
仕事が嫌いだったわけではないです。毎日学びがあったし、ここで出会えた仲間とは今でも飲んだりしています。ただ、5年後、10年後の自分を考えたとき、この仕事はしている自分がうまくイメージできなかったんです。
考える時間が必要だと思いました。それもたっぷり、1年間くらい。
旅を決意したのは、辞める2年前。働いて貯金をして、2012年1月末には旅を理由に退職。この2ヵ月後には羽田空港に立っていました。
ここからぼくの人生は、敷かれたレールから”脱線”していきます。
1年間の旅をして”農”に目覚めた
旅した国は、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、インド、エジプト、ヨルダン、イスラエル、フランス、モロッコの10ヶ国。そして、”農”に目覚めた場所は、イスラエル南部の砂漠。
ここにあるアラブ系民族(ベドウィン)の村で、”パーマカルチャー”という農業を勉強していたときのことでした。
滞在していたのは”ナチュラルハウス”と呼ばれる、粘土、藁(わら)、木材などを素材とする家。窓には空きビンや冷蔵庫の仕切り版が使われていました。
ここで、「家は何千万円もかけて建てるもの」というぼくの価値観がゆさぶられます。
次にゆさぶられたのは、北部のパーマカルチャーコミュニティを訪れたときのこと。ここでは、住民が”不要だけど捨てられないもの”を一ヶ所に集めて、月に一度のフリーマッケートが開催されていました。
いらないものがあれば置いていけばいい、欲しいものがあれば持っていけばいい。そんなルールで開催されていて、そこに並べられた服、家電、本、雑貨の量に、ただただ驚きました。
「こんなに物があふれているなら、わざわざお金を払って買いに行かなくてもいいのでは」と。
何にお金を払うべきなのか
藁や粘土で家を建てることができるのを知り、フリーマーケットで物が溢れている現実を見たぼくは、「じゃあ一体何にお金をかけないで、何にかけるべきなのか?」という問いにぶつかりました。
ひとつの結論として出たのが、食べ物。毎日食べる分は、お金を払って誰かに生産してもらうのではなく、自分自身でつくりたいと思うようになりました。これが、ぼくが”農”に目覚めたきっかけです。
以上、ざっくりとではありますが、ここ数年でぼくに起きた出来事を書きました。
農業に触れた場所は、イスラエルの他にもタイ、ヨルダン、フランス。次回からは、ここでの経験をより詳しく書いていきたいと思います。
第2回では、タイ北部でのパーマカルチャー農業のボランティア経験についてお伝えする予定です。