第8回:ケープタウンで仕事について考える|ニンゲンらしく、アフリカぐらし

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2006年に下関のフェリー乗り場から出発した旅。ユーラシア大陸を横断し、アフリカ大陸を旅するというチャレンジだった。アフリカ大陸にはモロッコから入り、この大陸での目的地を南アフリカの喜望峰とし目指した。

たどり着いた南アフリカ ケープタウン

東西南北とアフリカを旅した私は目的地であった喜望峰に到着した。
肌はこんがりとやけ、伸びきった髪を縛り、タンザニアで買ったカンガという布を巻き、45Lのバックパックを背負ったあやしいアジア人だった。日本人が見ても日本人だとはわからなかっただろう。

南アフリカはアフリカの国々の中でも経済が発展しているため、仕事にありつければ多少のお金が稼げると聞いていたので、少しの間旅を休み、英気を養いインドへ仏教の原点を探す旅をしたいと考えていた。宿もツーリスト向けの宿だと高いので、その半分の金額で泊まれる労働者向けの宿に泊まることにした。

その宿にはセネガル人、ナイジェリア人、タンザニア人、マラウィ人など、私がそれまで旅してきた国の人たちが泊まっていて、ツーリストは一人もいなかったけど退屈することはなかった。アフリカの旅をしてアフリカ中にたくさんの友達を作ってきたばかりだったのだ。

到着して1週間がたった頃、お金が底をついたのでいつものように銀行のATMに行き引き落としをしようとした。するとこともあろうかカードが期限切れで使えないというのだ。財布には20ランド(約200円)が入っていて、悲しくもそれが私の全財産になってしまった。私は宿に直行してオーナーのタンザニア人に状況を説明し、宿代を待ってもらうことにした。幸運にも私はスワヒリ語が少し話せたのでオーナーとは仲良くしていたのだ。

仕事探しは次の日から始まった。実家の鰻屋の手伝いをしながら育ったため、飲食業がいつも身を助けてくれる。ケープタウンのメインストリート上にあるシーフードレストランでウェイトレスとして働くことになった。シーフードレストランのドアを叩いたのは単純に大好きなシーフードが食べれるだろうという軽い気持ちからだった。

一文無しになった時でさえ、絶望的な気持ちにはならず「どちみち仕事をしようと思っていたのだ」と開き直り毎日のように働いた。そう、これも何かのメッセージだ。カードの期限が切れていた時点で、私はアフリカにもう少し留まるように言われたような気がしていた。むしろ自分の意思を後押しされたような気持ちでいたのだ。

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悪条件の過酷な労働。南アフリカの現実と直面する

観光ビザで働いていたのでそれこそ文句を言えた立場ではなかったのだが、そのレストランでは給料はなし、という話だった。さらには皿を割った時の保険などと称して20ランド(約200円)を毎日払わなければならなかったのだ。交通費も夜遅くに終わるので必要だったが自腹だった。稼ぎはチップのみ。同じウェイターとして働いていてももらえる金額が全く違うということに驚いた。
腕の良いウェイターなら雰囲気のいい中庭などの稼ぎのいいテーブルをもらえるのだが、当時英語があまり話せなかった私にそのようなテーブルはなかなか回ってくることはなかった。良い日は600ランド(約6000円)くらい稼ぎ、最悪な日は一日中働いて40ランド(400円)という日もあった。そんな日は情けなくて一人泣いた。

これが20年前までアパルトヘイトがあった国の現実なのだ。私たちウェイターも、私がいた半年の間で数回はストライキのようなものをし、労働条件がよくなるように抗議を繰り返した。仕事が終わる深夜1時から床磨きをさせられようとした時もみんなでボイコットし反対した。大きな残飯を捨てるゴミ箱に手を突っ込み、誤って捨てられたスプーンやフォークなどを探させられそうになった時も抗議した。この抗議する経験は私の労働者としての考え方を変えた。

レストランのキッチンで働いていたコサ族の男の子。偶然にも同じ名前「モモ」だった。

南アフリカを通して日本の労働環境を考える

日本の労働環境はどうだろう。このケープタウンの経験を通して日本の労働環境についても意識し始めた。もらえる金額は南アフリカよりも当然多いのだが、物価も高い。女性が働けるというのはいいことだと思うけれど、共働きしないと、この高い物価の中で生活できないという家庭が多いのも事実だろう。

そしてサービス残業という言葉があるように、時間についてとてもアバウトだ。それに誰も抗議できないような雰囲気がそこにあるのは事実ではないだろうか。

企業のために働くということは、朝から夕方までの(仕事によっては時間帯はいろいろあるとして)一日のほとんどの時間を費やす。長く働いた場合は人生のほとんどの時間という場合もあるだろう。働くなら多少の給料の差を計算するより、その仕事が心から楽しめて、尚且つ自分のことを大切にしてくれる会社に勤めたいと思う。

たくさん稼いで、たくさん使う生活の先に豊かな未来を見ることが私にはできない。慎ましくもいい仕事をしたいと思うのは時代遅れだろうか。

南アフリカにしても日本にしても、労働者であるなら自分の暮らしと仕事のバランスを図るのは自分次第であるはずなのだ。こういうことに気がつけたのも、やはり日本から出てまた違った労働環境で働いた経験からだった。今も南アフリカの労働条件は悪い。彼らは労働条件がよくなるようにストライキを起こし、ボイコットする。労働者がマーチする姿はよく目にする光景だ。

お金というものも、紙と金属でできた人の暮らしを便利にするツール以上のものではないのだ。大切な自分の暮らしを犠牲にしてまで働くというのはそれは本末転倒というものだ。自分の権利はかなしいけれど自分でしか叫べない。

心の中でボブ・マーレィの「GET UP. STAND UP」が流れる。

Get up, stand up
Stand up for your rights
(目を覚ませ 立ち上がれ 自分の権利のために)

悪いことばかりでないのが人生

しかし、このレストランで私の英語はメキメキと伸びた。始めはミーティングなどもさっぱり理解できず、どこか子ども扱いを受けることが嫌で、毎日メニューを見て上から順に説明をする練習を部屋で一人していた。またレストランの人や一緒に働いていたウェイターの人たち皆がフレンドリーだったので毎日何かしら話をしていた。そのおかげで、半年後にはミーティングが理解できるほどに英語が上達していた。

ギリシャ人オーナーのサヴァにお願いして、レストラン内で旅のイラスト・写真展「momo africa」を開かせてもらった。

この写真展では、たくさんの南アフリカ人女性が、女でも世界を自由に旅できることに何かしらのショックを感じてくれていた。この経験は、自信に繋がる大切なものになった。ケープタウンの生活も悪いことばかりではなかったのだ。

そしてこの店のシーフードが本当においしかったことは、今でも忘れられない。