歴史をDIYしてみる?時空を超えるアートな遊戯たち
マルセル・プルーストのように時空を自由に旅し、私達の過去を思い返すことができれば、人類の歩みはより豊かになるのでは、と思う時がある。彼は日常生活における些細な知覚体験から、何がしかの記憶を蘇らせ、それを真に生きるプロであった。しかし一般には、時空という概念は大いに示唆的であり、SF的だと捉えられる場合が多い。過去とはタイムマシンに乗って見に行くものであり、しかも実際にそこに行ったら、決してその後の時間軸を変えるようなマネをしてはならない、というのがお決まりである。過去は過去、現在は現在。歴史には介入するなという掟だ。
現にタイムマシンがなくとも、私達の多くは、確立された一定の歴史に関与することから遠ざけられている。歴史そのものを掘り起こすのも、その物語のエンディングを決めるのも、たいてい学者や学芸員など、一部の専門職の人達の仕事だ。彼らの功績により、最初は単に無意味で何の価値もなさそうな出土品でも、その背後を支える文脈が見つかれば、それは当時の文明生活の証人として、文化的、金銭的価値を獲得するようになる。その事実がたとえ間違いであったとしても、一度神話性を帯び始めると、もはや歴史から切り離して考えることは不可能になっていく。
時空を超える遊戯たち
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こうしたことに対する一種の制度批判的な作品をつくっているのが、ロサンゼルス在住のアーティスト、リズ・グリンである。オブジェや彫刻、パフォーマンスアートまで幅広く活躍している彼女は、古くて永遠に価値があるようなモノの存在に疑問を投げかけ、それがもつ絶対的な崇高さを削ぎ落とすような作品をつくる。歴史的建造物の再現を試みる場合もあるが、たいてい身近な材料を使うし、またその手法はとてもプリミティヴで、DIYのような自由気ままさがある。
2008年の
では、参加者がこぞって段ボールで古代ローマの都市景観をつくりあげた。2010年には、使用済みの木製パレットを使ってピラミッドをつくるプロジェクトをおこなった。このピラミッドは解体までの2カ月間、イーストロサンゼルスの丘の上に設置された。
設置期間中、ピラミッドの内部で彼女は「謎の9つの恐怖」に関するハプニングを仕掛けた。たとえば長さ2mの蛇を目隠しして手渡していくゲームなど、恐怖心を駆り立てる演出もした。
下のパフォーマンスは、9人の人間の身体を縛って死体のように重ねて寝かせるというものだ。この状態を1時間ほど続けていると、人の身体はもぞもぞ動きだし、だんだん紐は緩んでいく。そして、それがほどけた頃に、9個のケーキが運ばれてくるのだった。
これらのハプニングは、いかにも彼女らしい一種の遊戯的な検証実験、かつ風変わりなゲームであり、またキャンピング的な楽しさも含んでいた。
最後にもう一つ作品を紹介しよう。グリンは2011年に、ロサンゼルス現代美術館(MOCA)で三部作を発表したが、そのうちの一つが以下のパフォーマンスであった。ここで彼女のチームは、水晶宮とMOCAのファサードの両者に似通った形状の鋼鉄フレームをつくり、それを燃やした。水晶宮とは、1851年にロンドンのハイド・パークで開催された万博に際してつくられた建造物で、その鉄骨とガラスによる建築は、当時では最先端とされ注目を浴びた。残念ながら1936年に火事で全焼したが、彼女もまたその事実に倣って鋼鉄のフレームを燃やした。しかし一方で、そこに歴史上無関係なMOCAのファサードをクロスオーバーさせているように、グリンがここでも史実の精巧な再現を望んでいないことは明らかだろう。
燃え盛るフレームの様子はバックスクリーンで流され、実際のパフォーマンスでは、その焦げた残骸を解体し、壊していく作業の一部始終を観者にみせている。特にガラスを用いるパフォーマンスの際は、安全面の観点から参加者に同意のサインをもらい、手袋を渡している。そして彼らが運んでくるガラスを、グリンはただ懸命に砕き続けるのである。
暮らしのなかで蘇る歴史
グリンの作品テーマは、史実の表象そのものにあるわけではない。彼女は歴史を一つの手段として用いながら、私達が目指すべき記憶との新たな関わり方を示唆しているのだ。そこには一種の軽妙なユーモアも含まれているが、彼女の用いるプリミティヴな材料や手法には、主に二つの利点があるように思う。
一つは、そこで行うハプニングが遊戯的である限り、私達は対象を過去の文脈のなかで捉えづらくなるという点だ。対象は背後の歴史的文脈から自律し、それに縛られない、いわば宙ぶらりんの状態で私達の現前へと働きかけてくる。その世界で頼りにできるのは、もはや知識ではなく、自分の身体、すなわち知覚なのであり、観者は五感を通じて一種の生や死について思いを巡らすことになる。その体験の根源的価値は、過去に思いを馳せる「時間」にあるというより、むしろ今のこの「空間」にある。史実を重視するがゆえ、展示品の古さが際立つ博物館的手法とは正反対に、彼女はいかにそれが新しいかを主張するのだ。
二つ目は、グリンの利用する他愛ない素材は、現代の日常生活の至るところにも溢れているということだ。だから私達はそれを目にするたび、手に取るたび、後々、その作品体験そのものを思い返すチャンスに恵まれる。ガラスの砕けるパフォーマンスを嫌というほど見た人は、もう以前のようにガラスをただの二酸化ケイ素の塊として認識するだけではいられないだろう。日々の暮らしにおいて、割れたガラスの破片や、割れる音に遭遇するたび、そこにあのような歴史的物語が宿っていたのだという感覚が蘇る。古代ローマの都市を段ボールで作った人にとって、段ボールはもはやただの段ボールではないし、ピラミッドの中で紐で結ばれた人にとって、紐はもはやただの紐ではなくなる。それらが現代人の生活において実際身近にある物質だからこそ、日常のあらゆる場で思い出すきっかけとなっているのだ。しかも、知識の力によってではなく、触覚、聴覚、味覚など、あらゆる感覚の力によって体験された記憶は、こちらの意思に関係なく、まったく予期しない時に、ひょんな形で蘇る。そうした、まったく新しいタイムスリップ感を不意打ちで幾度となく経験しながら日々暮らしていくのは、楽しいに決まっている。
歴史というものを、絶対的、 普遍的に捉える方法などないはずだと、彼女の作品は教えてくれる。寝室の雰囲気やマドレーヌの味から過去を手繰り寄せたプルーストのように、パーソナルな知覚体験から歴史を再考することなど不可能だという常識を、彼女はあっさりと覆してしまう。確かに人間は、思考そのものよりも先に、自分の指先が穂波を察知することに快感を覚える生き物だ。だから彼女の作品を経験することは実に楽しいものだろうし、私達の窮屈な歴史観を広げるリハビリにもなるだろう。人は博物館に行くと、自分が過去の人間に比べて圧倒的に有利な立場にいると錯覚しがちだが、決してそうではない。いかに語り尽くされようとも、過去とは、ガラスケースを見下ろすような神の視点から俯瞰できるものではないからだ。歴史とはいつも未知数なのであり、それを知ることはいつだって未知との遭遇なのだ。
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