第25回:島を、愛する方法|女子的リアル離島暮らし
『未来住まい方会議』をご覧の皆さん、こんにちは。作家の三谷晶子です。この連載も25回目を迎えました。今回は、今までの連載を振り返り、読者の方からの反響をいただいて考えたことについてお話しをしたいと思います。
連載全体を振り返ると反響が大きかったのが、第3回「仕事がない島、お金がそれほどいらない島」、第19回「住みたい場所に住むということ」でした。
第3回では「お金がなくとも豊かに暮らせるっていいな」、第19回では「何もしなくても許されている状態っていいな」というご意見を多く頂きました。
「お金を稼ぐ」「何かをする」
現在、そのことに対して、違和感や閉塞感を感じている方が多いのではないか、というのが私の印象です。
「俺にはどうせ金しかないんだ」
そのことについて考えると思い出すのが、20代、キャバクラに勤めていた頃に出会った一人のお客さまです。
その方はとてもお金持ちで、来店しては4~5人の女の子を指名し、シャンペンや高いワインをどんどん開ける方でした。年の頃は40代後半。独身で20代の女性を愛人のような形で家賃とお手当を払って何人か囲っている、とおっしゃっていました。
ある日、その方が、泥酔しながらこう言ったんです。
「俺にはどうせ金しかないんだ」
高価なウイスキーが注がれたグラスを持ちながら、うな垂れて言った「俺にはどうせ金しかないんだ」という一言から、私は、そのお客さまが「自分のことを惨めに思っている」ことを感じました。
当時の私の二倍近く上の年齢の方が、何万円ものお金を飛ぶように使いながら、キャバクラの合革のソファの上で言った言葉に、当時の私が何を返したかはよく覚えていません。
多分、あくまでもキャバクラ嬢として「そんなことないですよ」「お金があるなんてうらやましいです」などのその場を流す言葉を使ったと思います。
そのように、そのお客さまにお金を貰いながら、適当に言葉を流したキャバクラ嬢だった私も、傍から見たら惨めだったのかもしれません。
ただ、その時、私は、「自分を惨めだと思うことは、自分自身にしかできない」ということを学んだ気がします。
「稼ぐこと」と「稼がなければならない」と思うこと
そう言う私も、「自分を自分で惨めに思う気持ち」はよくわかります。
東京にいた頃、特に20代の小説を書き始める前。
「時間がない」「今は時期じゃない」と言い訳をしながら、小説を書くことを先延ばしにしていた時は、「お金を稼がなければいけないから」「そのためには働かなきゃいけないから」と、いつも自分に言い聞かせていました。
しかし、今振り返ると、当時の私は、「稼ぐ」ことと、「稼がなければならない」こと、「何かをする」ことと、「何かをしなければならない」ことを、どこかですり替えていたような気もします。
「お金を稼がなければならない」「何かをしなければならない」。
20代の私がそう思っていたのは、やりたいことがあったはずなのに、いつの間にか日々に流されて、自分の意思を見失っていたからです。
しかし、「自分を惨めに思うことは、自分自身にしかできない」のと同じように、「自分の意思を見失うことも、自分自身にしかできない」ものです。
そう思うと、今の私は、当時の自分に「ねぇ、それって、自分で目隠しして『真っ暗だ』って言ってるだけだよ」と肩を突いてやりたくなります。
お金を稼ぐこと、その場所を愛すること
もう10年以上、あちこちの離島を巡ってスキンダイビングをしている友人が、去年、加計呂麻島に訪れてくれた時にこう言いました。
「若い頃は、島にいる時、お金を使うことはほとんどなかった。島の人は、皆いい人で、仲良くなったら『今日ジェットスキー乗っていきなよ』とか、ご飯までごちそうしてくれたりしてくれた。けど、今は、ちゃんと『島でお金を使いたい』と思う。島と島の海が好きだから。島と海が好きで大切にしている人にお金を渡せたら、島や海の力になれるかもしれないから」
そう言った彼女に、私はこう答えました。
「この場所のためにお金を使いたいって思えるの、いいよね」
この場所のために、お金を使いたい。
そう思うことは、「自分が今この場所にいること」「自分がお金を稼ぐこと」、そして、「自分がお金を使うこと」全てにおいて、喜びを感じている状態です。
場所のことも、その場所にお金を落とせることも、そして、お金を稼ぐ仕事のことも、全部と出会えてうれしい、と思っている。
これは、本当に幸せなことだと思います。
自分を切り売りしたり、引き換えにしないと何かを得られない、という思い込みが消えた時に見える景色は無限のように見えて、もしかしたら、これが愛することや信じることに繋がるものなのかもしれない、と思います。