【対談】熊澤酒造 熊澤茂吉さん×松尾建設 青木隆一さん|豊かな地域のつくり方(前編)
茅ヶ崎ストーリーマルシェを運営している松尾建設株式会社の代表 青木隆一さんは、お祖父さんの代は植木屋さん、お父さんの代で建設業を始め、その会社を受け継ぎました。地域に根差して活動する青木さんが今回対談したのは、茅ヶ崎市の香川というエリアにある湘南唯一の蔵元 熊澤酒造株式会社代表の熊澤茂吉さん。先祖代々400年余りもその地域に暮らし、茂吉さんの代で、酒蔵は多角的な事業展開により大きな進化を遂げています。
地域コミュニティと共に生きる上で大事なこと、地元に人が集まる場所をつくる上で大切なこととは何でしょうか? 対談の内容を、前後編に渡ってお届けします!
湘南唯一の蔵元 熊澤酒造株式会社 代表取締役社長。茅ヶ崎市香川の地で約400年続く熊澤家の13代目。大学卒業後アメリカを放浪するも、蔵元廃業の危機的タイミングで帰国し24歳で家業を継ぐ。日本酒のブランディングやビール醸造の開始、レストラン、ベーカリー、ギャラリーの開設など新たな事業展開で、地域に活気のある生態系を生み出している。
松尾建設株式会社 代表取締役。地元茅ヶ崎で70年以上続く建設会社の3代目。湘南を中心に家族が幸せになる家づくりを提案している。2013年7月より「茅ヶ崎ストーリーマルシェ」を立ち上げ、開催回数はもうすぐ40回を迎える。こだわりの品を集結させ、笑顔と会話が楽しめる、地域の方々に愛される朝市となるよう運営を行っている。
廃業寸前の蔵元を24歳で継ぐ
青木さん:茂吉さんは、若い頃から家業を継ぐと決まっていたんですか?
茂吉さん:いえ、そんなことはありません。若い頃は知っている人ばかりの地元が息苦しくて、大学で一人暮らしを経験し、アメリカに留学しました。そこで気の赴くままに放浪するという暮らしを数ヶ月。その頃は蔵元を継ぐというつもりも、父の跡を継ぐというつもりもなかったですね。父も蔵元を継いでいたわけではなく、違うビジネスをしていましたし。
ところがバブルが崩壊して蔵元の業績がどんどん悪化し、もう畳むかも、という話になったんです。それでアメリカで造り酒屋をやっている人に相談したら、「バブルの終わった日本で日本酒は衰退産業だから見込みがないよ」と言われたんですね。
でもそこで蔵元の遺伝子にスイッチが入った(笑)「じゃあ、やってやる」って。自分のルーツというか、アイデンティティに気づかされたんです。
5年後に良い酒をつくると決めて
青木さん:そうだったんですか。継いだ時の会社はとても厳しい状態だったと思いますが、どこから立て直していったんですか?
茂吉さん:まず、当時つくっていたお酒が美味しくなかったんですよ。当時は地域の酒販組合の下請けのようなメーカーだったため、すべてのお店で売りやすい商材ということで、経済酒を中心につくっていました。しかし、そのままでは厳しいということで、独自ブランドを立ち上げて全国で通用する酒づくりを目指しました。全国の、優良地酒専門店に選ばれる酒蔵になろうとしたわけです。
茂吉さん:そして、自社でうまいお酒をつくるノウハウを蓄積していきました。昭和の時代は全国的に、山間部の集落の杜氏(とうじ)集団と契約して、出稼ぎで来てもらって酒づくりをお願いする仕組みが業界の常識。蔵元の社員は出来上がったお酒を瓶に詰めて売るのが仕事となっていました。それをいち早く廃止し、自社の杜氏を育てるために、杜氏1人に5年限定で来てもらって、酒づくりを教えてもらうことにしました。応援してくれている酒販店さんには「5年待ってくれ」と言って。
そうしてできたのが、2000年に発売した「天青」というお酒です。
お客さんの声を聞き逃さず、積み重ねていく
青木さん:お客さんに喜ばれる本当に美味しいお酒をつくる、という原点の所に取り組んだんですね。ビールやレストランなどは、もともと構想の中にあったんですか?
茂吉さん:日本酒の仕込みって冬にするでしょう。それが終わると杜氏や蔵人(醸造スタッフ)は、夏は基本的にはやることがないんですよ。でもお給料は発生する(笑)。それがなんとかならないかと夏はビールをつくることにしたんです。できたビールをどこで売ろうかと考えて、じゃあ自分の所で飲んでもらおうかということで、酒蔵を改造してレストランを始めました。ビールをつくる過程でロスする沈殿物を生かして、パンもつくることにしました。
青木さん:その積み重ねでこの場所ができてきたんですね。
茂吉さん:レストランも、もともとはビールを飲んでもらうための店だったから、最初は電子レンジで温めるソーセージとか適当なものを出していたんですよ。ところが湘南の人は食にうるさいからクレーム殺到(笑)。これはちゃんとやらなきゃってことで、料理人を雇ってやり始めました。
数年したら形になってきたんだけど、ある日、お客さんが「昔ここでお酒つくってたんだって」と言っているのが耳に入ったんです。いつの間にかお客さんに、ここはレストランだと認識されていて、蔵元だというのが忘れられていると。それは僕が目指していた形とは違うなと思って、酒蔵の前を通って入る和食屋をつくりました。「天青」の発売と同じ時期に。
青木さん:お客さんの声を聞き逃さないでやってこられたんですね。それから、意に反することは無理してやらない、というのも感じます。
僕の会社は、親父の代ではゼネコンやハウスメーカーからの請負いの仕事がほとんどだったんです。でもそれじゃあ面白くないので、自分はお客さんのご要望を聞いてつくる注文住宅をやり始めました。始める時には親父ともたくさん議論しましたが、やって良かったと思っています。先代からの地場を受け継ぎながらも、時代が変わる中で、新たにチャレンジしていく必要がありますね。
>>後編へ続く