【後編:動画&レポート】YADOKARI共同代表取締役さわだいっせい・ウエスギセイタが7年目に語る、創業ヒストリー
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2020年7月で設立から丸7年を迎えるYADOKARIの共同代表取締役さわだいっせいとウエスギセイタが語る、創業ヒストリー後編です。YADOKARIにとっての第2創業期とも言える今だからこそ届けたい、ルーツと歩いて来た道のこと。後編は、2016年〜2018年3月まで東京の日本橋で展開したタイニーハウスによる飲食・コミュニティプレイス「BETTARA STAND 日本橋」のお話からスタート。YADOKARIに関わるメンバーも紹介します!
元駐車場にタイニーハウスを設置、「BETTARA STAND 日本橋」
さわだ: 三井不動産さんからお声がけいただいたんですよね。
ウエスギ: 銀座線の三越前から近い140㎡くらいの駐車場を活用して、暫定でいいので交流人口を圧倒的に増やしてほしいというお話で。ここに、タイヤ付きの「タイニーハウス」と言われる可動産を使って、「BETTARA STAND 日本橋」という施設を作ったんです。タイニーハウスは建築物として扱われないので、建築確認申請や防火管理者がいらないんですよね。それが話題を呼んで、いろんな自治体などから視察が来ていました。2年程やったんですけど。
さわだ: ずっとウェブ上でメディアをやってきた僕らが、初めてリアルな場を持った。それまでも提携しているライターさんたちはいらっしゃったんだけど、基本的には2人だけで会社をやってきて、この時に初めて施設の運営スタッフやアルバイトの子たちが15人くらい入ってきた。イベントをやったり飲食をやったり、経営も見なきゃいけなくなって、右も左も分からない状況の中でリアルな施設を運営していくことの大変さを感じた時期でしたね。
ウエスギ: ああいう場所で高い賃料を払ってやり続けること自体が、それまでのYADOKARIにとっては大きなチャレンジでしたよね。不動産ではないけど場所を持つという。結果的にすごく良かったと思うんですけど、さわだはどうだったんですか?
さわだ: いつでもチャンスは狙っていたというか、「ウェブだけじゃないだろう、YADOKARIの価値はこんなもんじゃないだろう」という気がしてたから。まだまだ世界中にYADOKARIを知らない人がたくさんいるんだから、そことの接点を持つために、1歩ずつ違うことや、分からないことにチャレンジしたいという気持ちが強かったですね。
ウエスギ: それまでは、ほぼ市場がないような領域を2人で面白がりながら少しずつ形にしていって、それでお金になるかならないか分からないけど楽しくやってましたね。
さわだ: うん。場所を持って少し大変だったのが、やっぱり楽しいことだけじゃなくなった。スタッフのお給料も払わないといけないですし。今までは稼げなかったら別に自分たちの貯金切り崩せばいいや、みたいな判断で良かったんだけど、いろんな責任が生まれてきたから、僕とウエスギの関係性も少しずつ変わってきたよね。
ウエスギ: 変わりましたね。楽しいだけじゃない領域が仕事にすごく入ってきた。でもBEATTAR STAND 日本橋で、人生を共にする新しいメンバー2人に出会えたのが、俺の中では大きかったです。
「はじまり商店街」の2人との出会い
さわだ: 今は「はじまり商店街」というYADOKARIの子会社の共同代表をやっている、くまがいけんすけと柴田大輔だよね。くまがいはBETTARA STAND 日本橋のマネージャーをやっていた。彼はウエスギの大学時代の同級生なんですよ。YADOKARIに入ってくる前は商社にいて、そこを辞めて、次は自転車で世界一周するんだって言って。
ウエスギ: でもマジで日本一周した後に、本当に世界へ行きましたからね。
さわだ: うん。面白いなぁと思って、じゃ帰ってきたら声掛けてよって。アメリカは横断したんだよね? 1年半くらいかけて。
ウエスギ: そう、1万5千キロくらい。
さわだ: それで「挫折した!」って悲しい顔をして帰ってきた。別に「すごいことやってきたじゃん!」って俺らは思ったんだけど、彼の中では後悔があったらしくてモヤモヤしている時に、ちょうどBETTARA STAND 日本橋の企画をしていたから、マネージャーをやってみない?みたいな話で口説いたんだけど断られた(笑)。その後もずーっと説得し続けて、結局やってくれるという話になって、それでくまがゼロからあそこの切り盛りをしっかりとやってくれてね。
ウエスギ: くまも大変だったでしょうね。その後に、スタッフ募集の「コミュニティビルダー」の枠で柴田大輔が入ってきてから変わりましたね。
さわだ: 大ちゃんは、最初はどういう人かよく分からなかったけど、入ってイベントを回し出したら「この人めちゃくちゃ腹括れてるな」って。もう背水の陣みたいな、ここで成果出せなかったら終わりだ、ぐらいの気合いの入れようやった。
ウエスギ: あれは自分と戦ってましたよね、過去の自分を払拭するかのように。俺はけっこう感動しました。
さわだ: それで大ちゃんが年間400本くらいイベントやって弾けたんだよね。
ウエスギ: そう。YADOKARIは今、自治体の仕事やまちづくりのイベントなどを複数手掛けているんですけど、その土台を作ってくれたのは大ちゃんですよね。YADOKARIの中に、そういうものが一つやるべき仕事として入ってきた。その柴田大輔とくまがいけんすけが2年間くらい一緒に切磋琢磨して。その後、BETTARA STAND 日本橋は、やはり屋外の暫定地の施設ということもあって、2018年3月で終わることになったんです。
高架下のタイニーハウス施設「Tinys Yokohama Hinodecho」
ウエスギ: そんなこともありながら、同時並行で、横浜のタイニーハウスの複合施設「Tinys Yokohama Hinodecho」を進めていたんですよね。
さわだ: 京急電鉄さんからお声掛けいただいて。新規のこの提案も固めていかないといけないし、BETTARA STAND 日本橋のクロージングもあったし、僕は実はTinysのオープンと同時に第2子が生まれたんで家庭もてんやわんやで。本当に大変な時期だった、2018年3月。
ウエスギ: やはり場を持ったことのパワーはすごかったですね。BETTARA STAND 日本橋の時だったかなぁ、さわだが「できない自分をまず認めることから次があるよね」みたいな話をしてて、俺はけっこうしっくり来てた。俺はその当時、自分で全部やろうっていう気持ちがすごく強くて、その中で施設のクレームなんかもあってドタバタしたりして。その時、そもそもチームでやってるっていう意識を持ちながらやらなきゃいけないなって思ったことを強く覚えてます。
さわだ: 本当にね、チームプレーだなぁって思いましたよね。
一人一人にパワーがあるYADOKARIメンバーたち
ウエスギ: それから横浜で、日本初の全て動くタイニーハウスを使った高架下の施設「Tinys Yokohama Hinodecho」を2018年3月にオープンして、今3年目に入るところですよね。ここで新しく入ったメンバーが今、活躍してます。Tinysのマネージャーをやっている川口直人とか。新卒で入ったんですよね。
さわだ: そう、YADOKARIに社員がほとんどいない時にいきなり新卒を採った。新卒を採るつもりは全然なかったんですけどね。Tinysのマネージャーになって、それだけじゃなく横浜市のいろんなお仕事もプロデュースしてたりね。
ウエスギ: 今すごく伸びてきたなぁって感じがあって、俺はうれしいです。
さわだ: 僕ら何も教えてないけど。崖から突き落として、勝手に這い上がってくれっていう(笑)。それでも自分で全部考えて、何もかも自分でやって本当に素晴らしい、彼は。すごく強いし。
ウエスギ: こないだテレビ東京の「行動者」という番組で川口が特集されてました。でもいちばん最初の正社員は、由季ちゃんなんですよね。
さわだ: 相馬由季さん。由季ちゃんは今、新木場の方で自分のタイニーハウスを自分で作ってる。「モグラ号」っていう。
ウエスギ: 「相馬由季」で検索してもらうと、タイニーハウス・クリエイターとしていろんな所に出ています。これから旦那さんと一緒にタイニーハウスに住むみたいで、それはYADOKARIでも追いたい。やはり自分でタイニーハウスも作って実践してる人はまだ少ないですからね。それから、伊藤幹太っていう、すごい筋の通った奴がいるんですよね。少林寺拳法な感じの(笑)。
さわだ: 川口が「変な奴がいます! なんかずっとボランティアで手伝いに来る奴がいます。イベントもどんどん企画して、どんどんやっちゃいます! あいつ面白いっす!」って。幹太はウエスギの講演に来てたんだっけ?
ウエスギ: そう。立教大学でやった講演にも参加者で来ていて。
さわだ: 僕も話して、そんなにやる気があるなら、前の会社を辞めるんだったら来て良いよって言ったら、数日後に「辞めてきました!」「おおお?!」みたいな感じだった(笑)。じゃあ一緒にやる?って。
ウエスギ: すごい覇気がありますよね。
さわだ: 圧がすごいからね。センスもいいし。
ウエスギ: 最近もう1人、松倉和可が入った。YADOKARIはそれぞれがパワーを持ったメンバーが多いですよね。
さわだ: そうね、個性的なメンバーが。それぐらいの所帯になって、プラス委託の人たちで協力してくださる方が20人程います。
ウエスギ: そうですね、もう7年とか、創業期からお手伝いいただいてる方もけっこういらっしゃいますよね、橋口さんとか、唐品さんとか、ダニエルさんとか。北山兄さんもそうだし、蜂谷さん、大井さん、柴崎さん、角さんも。本当にお世話になっている方がたくさんいらっしゃいますね。バンライファーの鈴木大地さんも最近時の人。もともと僕らの別荘のリノベーションをお手伝いに来てくれたんですよね。
100均物件多数「空き家ゲートウェイ」
さわだ: そうそう。僕ら最近、「空き家ゲートウェイ」というサービスをやっているんだけど、始めた経緯は、YADOKARI.netに「タダでもいいから空き家をもらってくれ」という依頼が月に何本も来ていてね。そのうちの一つが、僕らが別荘にした北軽井沢の物件で。けっこう良い物件だったから、それはもうもらうことにして。
ウエスギ: 3年半ぐらい前ですね。それをもらって、メンバーみんなで2泊3日で強行セルフリノベーション。
さわだ: その体験自体がすごく良くて、それ以降も空き家をもらってという声があったから、使いたい人とマッチングできるようなサービスを、ということでカリアゲJAPAN(株式会社ルーヴィス)の福井さんに相談をして、一緒に「100均物件のプラットフォーム」を始めた。
ウエスギ: 福井さんはYADOKARIの創業期に僕らの背中を押してくれた人です。今まさにそのルーヴィスの福井社長とさわだが立ち上げた「空き家ゲートウェイ」に反響が出て、そろそろ次のフェーズに行きそうなんですよね。
新しい未来を問い続ける『月極本』
ウエスギ: 本の話で締めましょうか。
さわだ: 『月極本』という、僕たちの自費出版で作っている本。もともと『TITLE』という雑誌を作ってらした宮下さんを編集長にお迎えしてやったんですよね。
ウエスギ: 5年ぐらい前かな。この企画を持ってきてくれた。
さわだ: 宮下さんが、30〜40年前に朝日出版社から出ていた『週刊本』という本を持ってきてくれて。そのサイズがかわいかったし、坂本龍一さんとか気鋭のアーティストやクリエイターが世の中に対してビシバシ言う、みたいな1冊ずつ文化を作っている人たちを特集した本で、「こういうものをYADOKARIでやらない?」って。
ウエスギ: 面白いですね、すぐやりましょう!みたいになって。
さわだ: 1巻目はウェブ上で紹介してきたタイニーハウスや自分たちの対談をまとめて出版させてもらって。
ウエスギ: 「ミニマリスト」がテーマでしたよね。2000部限定で、こだわりのある書店さんだけで扱っていただいて、すぐ完売したんですよね。自分たちの大事な情報だけを集めて、自分たちの哲学をけっこう載せたところがあって。
さわだ: 変な慣習に囚われずに、全てをアウトプットできた渾身の作品だった気がします。デザインも内容も。ディスカッションもしたし、時間をかけてやったものですよね。初校が上がってきたのを見た時の感動を今でも忘れないです。デザインは『Studio Journal Knock』という本を作られている、西山さんにお願いして、ちょうど海外から撮影終えて何ヶ月ぶりに帰ってきたタイミングで「運命的です!」って言われてねぇ。
ウエスギ: また復活させるかもしれないですけど『月極本』、第3巻まで出てますよね。1巻目が『ニューミニマル』。
さわだ: 第2巻が『幸せな死に方』。2巻目からはある程度テーマを持たせたんです。3巻は『好きなお金、嫌いなお金』。
ウエスギ: その当時「お金じゃない価値」ってどういうものがあるんだろう?って。そこから忙しくなって4巻目がなかなか出せなかったんですけど、復活する気は全然あるので楽しみにしていてください。
7年目だから目指したい次の「ビジョン」とは?
さわだ: 僕らは、最近はもう第2創業期だと思っていて、もう少し社会のお役に立てることをやりたいという空気も大きくなってきた。最近、会社の「ビジョン」を新たに制定して、次に向かうべき所が見えたんですよね。次回はそういう少しビジネス的な、自分たちがどこを目指したいかという話をお聞きいただけたらうれしい。YADOKARIらしくもあり、YADOKARIらしくもないような、かなり壮大な「ビジョン」になりました。
ウエスギ: でもあのフレーズが出た時、僕は1日テンション上がっちゃったね。
さわだ: やっと人生をかけて追い求めたいテーマが見つかったっていうようなことなので。
ウエスギ: コロナショックなどもあって、いろいろ大変な方もいらっしゃると思うんですけど、僕らはみなさんにワクワクする新しい暮らしをお届けできるように、お金じゃない大事なものもちゃんと世の中に流通できるように頑張りますので、ぜひこれからも楽しんでいただければなと思います。