ものづくりは森づくり、人口1500人の山村に職能集団「ようび」ができるまで|第①回 株式会社ようび インタビュー
私たちは暮らしの中で、転職や企業、結婚や育児など、大きな転機に直面することがありませんか?
それらの転機に直面すると、責任の大きさから逃げ出したくなったり、何をして良いか分からなくなったりすることがあります。中には、変化に耐え切れず、押しつぶされそうになっている人もいるのではないでしょうか。
転機に直面している人は、自分だけではありません。表には見せていないだけで、同じように悩みながら変化を乗り越えようとしている人もいるでしょう。その姿を見れば、きっと転機を乗り越えるヒントがもらえるはずです。
今回お話を伺うのは、岡山県英田郡西粟倉村で国産ヒノキの家具と木造建築を手がける「ようび」の代表を務める大島正幸さんと、パートナーでようび建築設計室の室長を務める大島奈緒子さん。
2009年に家具工房としてスタートしたようびは、「やがて風景になるものづくり」を理念に、地元の林業を活性化させながら、ものづくりを続けています。順調に事業を進めていたようびですが、2016年に社屋が焼失。大きな痛手を負う形になりましたが、新社屋を再建するべく動いているそうです。
第一回となる今回は、大島さんご夫妻が西粟倉に移住し、家具工房を立ち上げるまでのお話を伺います。移住と起業という転機に、お二人はどのように向き合ってきたのでしょうか?
家具職人がたったひとりで人口1500人の村に移住した理由
岡山県の西粟倉村は、京都市から電車を乗り継いで約2時間半の場所にある小さな村。駅に停まる電車は2両編成、コンビニまでは畑が連なる道を車で約15分。人口1500人、森林面積が95%の小さな村で、ようびは事業を続けています。
ようびの主な事業は、西粟倉の山でとれる檜(ひのき)を使った家具の製造・販売と建築の設計・施工です。元々は岐阜高山の家具メーカーで働いていた大島正幸さんと、その建築設計部門で働いてた大島奈緒子さんが西粟倉に移住し、会社を興すまでにはどのような経緯があったのでしょうか。
大島正幸さん(写真左 以下、正幸さん):僕の実家は栃木にあって、おじいちゃんがとび職の職人の家系だったんです。その影響で14歳の頃にはものづくりを仕事にしていきたいと思って、学校を卒業してから家具職人として木工家具メーカーに雇ってもらいました。
大島奈緒子さん(写真右 以下、奈緒子さん):私は大阪の出身で、デザイン学部を卒業して正幸さんと同じ会社に就職したんです。西粟倉に移住して、ようびを立ち上げるきっかけになったのは、西粟倉の森を視察したことでした。
正幸さん:木材を育てている森を視察しに行って、日本の森が荒れていることを知ったんです。木材の需要が減り、それが原因で林業が衰退し、森に手を入れる人がいないので荒れた森が増える。西粟倉の、もっと言えば日本全体の森に起きている問題を目の当たりにした時に、「家具職人の僕が西粟倉の木を使って、森や林業に向き合うことは、今と未来の日本の森と風景に向き合うこと」だと思ったんです。それは使命感に似たもので、次の日には勤めていた会社に辞表を出していました。
奈緒子さん:この人は言い出したら聞かないと分かっていたので、相談された時は「行ってらっしゃい」としか言えなかったんです(笑)結局、彼は西粟倉に移住して、私は高山でやりたいことがあったので、2年半は岐阜と岡山の遠距離恋愛。メールや電話のやりとりは毎日していましたけど、お互い忙しいので1年に4回会うことが目標でしたね。
奈緒子さんより一足先に西粟倉に移り住み、2009年に会社を興した正幸さん。移住と起業という大きな転機を迎え、起業1年目は休みもほとんど取らずに、ヒノキの家具づくりに勤しみます。
正幸さん:当時はとにかく焦っていました。僕がやりたいことは家具づくりだけじゃない。森を育て、そこに住む人たちの仕事をつくりたかった。僕にできることは家具づくりだけだったので、まずは西粟倉でとれるヒノキを家具にするために試作品をひたすらつくり、素材の理解に努めました。
けれど、家具づくりすら一筋縄じゃいかなかったんですよ。ヒノキは建材に使われることが多いので、家具にするためのノウハウは、国内にも世界にもほとんどなかったんです。
木材の調達にも苦労しました。岐阜にいた頃は、木を育てて、伐採して、乾燥させて、材木にして持ってきてくれる業者さんがいたんですけど、西粟倉ではそうはいかない。西粟倉の人に「家具に使う木材を探しているんです」と言うと、「山にあるから切って持っていけ」と言うんですね。
ノウハウの形成、材料の調達だけでなく、会社ですから流通やプロモーションなど事業のすべてを自分ひとりでやらなくちゃいけません。当時は1日20時間くらい、1年で363日は働いていたと思います。それができたのは、「やがて風景になるものづくり」をしたいと思っていたからなんです。
「やがて風景になるものづくり」、その言葉に込められた思い
ようびのホームページを見ると、まず最初に目に入るのが「やがて風景になるものづくり」という言葉です。ようびのものづくりの根幹になっているこの言葉が生まれた背景には、正幸さんのどのような経験や思いが込められているのでしょうか?
正幸さん:僕は、「ものづくりは、森づくりになり、ナリワイづくりになる」と考えているんです。家具をつくるためには、森をつくらないといけません。森をつくるためには、森を維持する生業を盛り上げなければいけない。家具をつくることは、森と生物が共存している「風景」をつくることにつながっているんです。
ものづくりは森や人など関係性の中に存在するもので、単体では成り立たちません。森という風景の中から生まれた家具がお客さんの手に渡り、暮らしの中で使われて、使う人の思いを受け止め、やがて家の中でまた風景になっていく、僕たちはそんな家具をつくっていきたいんです。
「ものづくりは、森づくりになり、ナリワイづくりになる」。その言葉を実現するために、ようびは村を巻き込んで森を育て、そこからとれる国産ヒノキを家具に使用しています。今回、その森を見せてもらうことができました。
過去に生きた人たちから受け継ぐ「100年の森」
奈緒子さん:この森は、数百年前は鉄をつくるタタラ場で、木がない禿山だったんです。目の前にある木が植えられたのは50年前のこと、植林が行われて今の景色ができました。50年前の人々が子供や孫のために残したこの風景を受け継いで、100年後の人たちに残したい、そんな願いを込めて、私たちはこの森を「100年の森林」と呼んでいます。
森って、勝手に育つものだと思いますよね。でも、手を入れないとすぐに荒れてしまうんです。たとえば、枝をとってあげないと節が多い木材になってしまいますし、木を間引いてあげないとまっすぐな良い木材にはならないんです。そうした手間を何十年も積み重ねないと良質な木材はできない。だから、森は過去に生きた人からのプレゼントなんです。
※写真上:人の手が入った森 写真下:人の手が入っていない森 手入れされている森は木と木の間隔が広く、日光が届きやすいので、下草も生え、生き物も増える。
奈緒子さん:西粟倉村の面積のうち95%は森林です。その中には人の手を入れられなくなった荒れた森も増えています。私たちがつくる家具や建築がたくさんの人の手に渡るようになれば、森に手を入れることができる。そうしたら、過去の人が残してくれたプレゼントをきちんと受け取ってまた渡すことができるんです。
ようびのものづくりは、それ単体で成り立っているものではありません。村にある森と、その森を育てた人、そこから生まれた木材を職人さんが加工し、ひとつひとつ丁寧に手作業を行って、家具がつくられます。
長い時間をかけて育てられた木だから、長く使ってもらえるように丁寧に仕事を施す。そうやってできた家具は国内外、多数の人々の暮らしの一員になっているそうです。
ようびは2017年に設立8周年を迎えました。社員は1年に1人のペースで増え、後に続いて、村に移住する人も増えているそうです。正幸さんがたったひとりで移住したことから始まった家具工房は、森を育み、風景を順調につくりあげていきました。ところが、2015年にようびは社屋の消失焼失という不幸に見舞われます。
移住と起業という転機を乗り越え、その先に起きてしまったことに、大島さん達はどのように向き合ったのでしょうか?
次回は、社屋の焼失から新社屋の再建プロジェクト「ツギテプロジェクト」を立ち上げるまでのお話を伺います。
◎ようびWebサイト⇒http://youbi.me/
◎新社屋再建プロジェクト「ツギテプロジェクト」⇒http://tsugite.youbi.me/
◎ようび特集記事はコチラ
第②回⇒ 社屋焼失から再興へ、職能集団ようびがそれでも前に進めた理由
第③回⇒ 社屋を失った職能集団「ようび」、その先に得た人との出会い