私たちの“ここではないどこか”を喚起する古郷卓司の映像作品

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毎日繰り返しの生活を送っていると、私たちは今の場所から離脱したくなるときがある。例えば、街中で時間を持てあましたとき。アイスをかじったり、一人ボーっと思いにふけたりして、できるだけ自分の居場所を認知しないように努める。無意識のうちに周囲とのつながり、いわばスイッチを切っていくのだ。そうしたときの“場”とは、もはや場所ではなく、“ここではないどこか”である。

ゲームに夢中になったり、学校のテストに集中したり、物珍しい商品に気を取られたり、誰かとの会話に夢中になったりするとき。私たちの周りの世界がふっと消える瞬間。それが、“ここではないどこか”が出現するときだ。福岡を拠点に活動している作家、古郷卓司氏の映像作品シリーズの一つ《Non-Site》は、それをわかりやすく表現している。

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観光客と難民

人にとって幸せの基準が違うように、“ここではないどこか”に対する価値観も千差万別である。ある人にとってはただの気休めの“場”に過ぎなくても、もっと切実に“ここではないどこか”を求める人々もいる。それが難民だ。

古郷氏はソロ・アーティストとして国内外で作品を発表するほか、国際的なコラボレーションのためのプラットフォーム *CANDY FACTORY PROJECTSを主宰しており、2007年からは北九州国際ビエンナーレのディレクターも務めている。そのビエンナーレで彼はフェデリコ・バロネッロと組み、《ランペドゥーサ島に辿り着くには》というインスタレーションを発表したことがある。展示室には、癒される音楽とともに、このイタリア領最南端の美しいを紹介した観光ビデオらしき映像が流れていた。

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しかし一方で、この展示室の壁には、たくさんの観光イメージだけでなく、以下のような文句も貼りつけられていた。

ランペドゥーサ島は、ヨーロッパとアフリカの境界にある島です。アフリカからの難民が目指す場所であり、一方ではこの景色に惹かれた観光客が世界中から癒しを求めにやってきます(前者は難民認定を拒否されリビアへと送還される運命にあるが、後者は歓迎される)。ランペドゥーサ島には、海を泳ぎきれずに溺れた人を埋葬した墓地や、難民収容所CPTなどがひっそりと佇んでいます…」

この作品の意図は、美しいこの地を楽しむ観光客の表情やしぐさ、旅行会社の宣伝文句からは想像もつかない、表舞台には決して登場することのない難民たちについて、いかに思いを巡らせられるかにあったのだ。

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ちなみに、この作品が出展された年のビエンナーレのテーマは『Cute or Creepy?』。どんなに表面上が美しくきれいで豊かでも、実際は歯がゆさで満ち満ちている現代社会。そうした現実のあちこちに落ちているcreepyな要素を世界規模で拾い集めて、地方という場から提示していく試みであった。

ネット上の“ここではないどこか”

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“ここではないどこか”の話に戻ろう。今の世の中、“ここではないどこか”とは、インターネット社会のことを指す場合もあるだろう。ネット上に用意された“ここではないどこか”を利用して、そこに自分の分身を置き、プロフィール画面を変えたり、タグをつけたりすれば、何も壇上に上がって弁論せずとも誰でも自分の意見を表明でき、連帯感さえ味わえる。

たとえば2015年11月13日にパリで起きた多発テロの事件後、ソーシャルネットワーク上で自分のプロフィールをフランス国旗のトリコロールにするムーブメントが生じたのも、その一例である。本来ならば、人にとって祈りとは常に静かなもの、一人のもの、完全にプライベートな行為だ。誰もが祈りを公にできる勇気を持っているわけではないし、そもそも大事な祈りならば誰にも言えるはずがない。そうたやすく心は開けまい。まして口に出せるはずがない。

しかし、時代は変わってきているのかもしれない。今回の件で明らかになったのは、ネット社会が“祈り”という概念までも利用して大衆を動かし得るという事実だ。ただ、誰がトリコロールにして誰がそうしないのかという違いだけで、文化間の差別や敵・味方の区別が生まれるわけではない。もしそれがあり得るのだとしたら、それはあまりにむなしすぎる現実である。なぜなら私たちは、そんな厄介ごとのために先人たちの宗教を学んできたわけではないし、聖歌を歌ってきたわけでも、礼拝堂を建てたわけでも、巡礼地を回ったわけでもないからだ。それはキリスト教徒にもイスラム教徒にも共通して言える、一つの確固たる事実ではなかろうか。

ネット社会における“ここではないどこか”は、人々が趣味でつながるには良い場所だが、いったんそこに政治や宗教が絡むと、親しい間柄の信頼関係さえ、踏みにじってしまう場になりかねない。21世紀に生きる私たちは、そもそも“ここではないどこか”という概念がいったい何であり、それといかに向き合うべきかを今一度考える必要があるかもしれない。そして、何が本当に誠実な行為であるのかを一人一人が見極めていく力こそ、今問われているのだろうと思う。

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