NEWPEACE 高木新平×YADOKARIさわだいっせい|人と違う「左手」が力に変わる時【CORE SESSIONS Vol.2 前編】
YADOKARIと共振共鳴し、新たな世界を共に創り出そうとしている各界の先駆者やリーダーをお迎えして、YADOKARI共同代表のさわだいっせいが生き方のコアに迫る対談シリーズ。Vol.2は、株式会社NEWPEACE CEOの高木新平さんを迎え前後編でお届けする。社会に新しい希望をつくり出し続ける高木さんが、いかにして「ビジョニング」に辿り着いたのか? パーソナリティのコアにあるものについて語る。
高木新平|株式会社NEWPEACE代表取締役CEO(写真右)
富山県射水市出身。博報堂から独立し、各地でシェアハウスを立ち上げ。ネット署名を活用し、「One Voice Campaign」を展開。ネット選挙運動解禁を実現。2014年NEWPEACE創業。未来志向のブランディング方法論「VISIONING®︎」を提唱。スタートアップを中心に様々な企業や地域のビジョン開発に携わる。その他、富山県成長戦略会議委員、株式会社ワンキャリア社外取締役など。起業家の思想と人生に迫るPodcast番組「インサイドビジョン」も配信中。
さわだいっせい|YADOKARI 代表取締役 / Co-founder(写真左)
兵庫県姫路市出身。10代でミュージシャンを目指して上京し、破壊と再生を繰り返しながら前進してきたアーティストであり経営者。IT企業でのデザイナー時代に上杉勢太と出会い、2013年、YADOKARIを共同創業。YADOKARI文化圏のカルチャー醸成の責任者として、新しい世界を創るべくメンバーや関係者へ愛と磁場を発し続ける。自身の進化がYADOKARIの進化に直結するため、メンターとなる人に会うことを惜しまない。逗子の海近のスモールハウスをYADOKARIで設計し居住中。
「違い」を「価値」へ変えるファッションとの出会い
さわだ: 新平さんにも来ていただいたYADOKARIの10周年イベント「鏡祭」でパーパス「生きるを、啓く」を発表しました。これに本気で取り組んでいく一環として、僕らが共感を抱く先駆者の方々の「生き方のコア」みたいなものを伺って、YADOKARI文化圏の皆にも届けたいなと。誰しもトントン拍子で生きてきたわけではなく、光もあれば闇も抱え、何者でもなかった時間もありますよね。今日は新平さんのそんな人生のお話を伺えたらと思っています。
これまでの新平さんの人生の中で、自分にいちばん強い影響を与えた人とか、経験って何ですか?
高木さん(以下敬称略): 僕のアイデンティティにいちばん影響を与えているのは、間違いなく「左手」でしょうね。最近ようやく自分の中で整理がついてきて話せるようになってきたんですが、僕は生まれつき左手に障がいがあるんです。悟られないようにする所作が癖づいていて、すぐに人には気づかれないんですけど。
さわだ: 僕も全然気づきませんでした。
高木: 僕は富山県の新湊という人口4万人くらいの小さな漁師町に生まれて、姉が一人。両親は教師で、わんぱくな少年だったけど、勉強も運動もよくできて、順風満帆な少年だったと思います。クラスでいちばん騒がしくて、給食もいちばん早く食べて、ちょっと残しがちな子の牛乳をおかわりする、みたいな感じでした。
でも中学校では、いろんな歯車が狂い始めちゃって。いわゆる反抗期はなかったですけど、社会に疑問というか、ムカつき始めたのは中学からです。左手に障がいがあったから、夏に半袖半パンになるのがすごく嫌で。それに、中学では何かと“フォークダンス”とかあって。一度「障がい者だ」と認知されると、皆にとって僕はそういう存在でしかなくなってしまうんじゃないかと怖かった。だから別にいじめられたわけではないんですけど、フォークダンスのような手をつなぐイベントがあれば軒並み休んでました。
中学の途中からは見た目だけでも普通にしたくなって、シリコン性の義手をはめるようになるんです。ネットで調べて父親に無理言って京都の病院でつくってもらって。ぱっと見は本物そっくりなんです。ただ、義手を付けると手首の辺りに境目ができるんですね。それを見られたくなくてリストバンドをしていたんですが、人から見たら「なんでリストバンドしてるの?」って感じじゃないですか。半袖半パンじゃないと、体育教師からも「なんで長袖着てんだ?」って言われる。皆と一緒じゃないと突っ込まれるのが田舎なので。皆と同じになれないのに、その同調圧力がとにかく嫌でしたね
高木: そんな中で人生を変える転機がありました。その頃東京ではストリートファッションが流行り始めたんです。近所の友達の3つ年上のお兄ちゃんが感度高い人で、「お前これ知ってるか? Supremeって言うんだぜ」って見せてくれたロンTが腕にグラフィックあったりして、新鮮でカッコよくて。これだったら夏でも堂々と長袖を着れると思った。
それまで宝物だったレアなポケモンカードや遊戯王カードを全部売って、水産会社を営む友達の親父に頼み込んで、漁港で朝5時からホタルイカ詰めるバイトとかさせてもらって、稼いだお金でヤフオクでロンTを買いました。
僕はそれまで違いを誤魔化すために長袖を着ていたのに、「お前カッコいいな」みたいな周りの反応を見て、「そうか、ファッションは違いを価値に変えてくれるんだ」と気づき、ファッションにのめり込んでいったんです。
アイデンティティが揺らいだ高校時代
さわだ: 左手の障がいから、ファッションに傾倒していったんですね。高校時代はやっぱり受験勉強を?
高木: 高校は隣町にあった高岡高校という進学校に行ったんですが、入学式の日にちょっとアピールするつもりで髪を染めて行ったら、竹刀持ってるようなめちゃくちゃ厳しい体育教師に叱られて、動揺した状態で「入学おめでとうテスト」を受けて280人中275位だったんですよ。これまで小中ずっと1位だったから、ショックで学校に行きたくなくなり、数学の授業をサボったら数学についていけなくなり、1年生の頃はだいぶ保健室にいました。
しかも左手のことがあったので、中学まで続けていたサッカー部を断念したんです。高校になるとラフプレーも多くなる中で、左手の義手をかばいながらプレーなんてできなかった。どうしようかなって考えていた時に保健室に卓球部の人が来て、小学校の時に雪が降ってサッカーができない時に体育館で卓球をしていて市で1番になった成功体験を思い出し、義手でもトスは上げられるからと、突発的に卓球部に入りました。
そしたら卓球部は本当にスクールカースト的に最下層で。これまでサッカー部だったので自然とイケてるコミュニティにいたんでしょうね。第二体育館の隅っこで申し訳なさそうに練習する所から始まりました。勉強も下から何番目かだし、いろんな意味でアイデンティティが脅かされ、ちょっとグレてる感じでしたね。進学校の中のなんちゃって不良グループ的ポジション&保健室に入り浸ることでの差別化、によってかろうじて一命を取り留めてるみたいな状態でした(笑)
さわだ: それでも早稲田大学に合格したんですよね?
高木: 高岡高校は例年30人くらいは東大に行くような学校なんです。2年生になるとみんな受験勉強をし始めるんですが、僕は完全に取り残されていた。腐ってましたね。その結果、とある事件を起こしてしまい謹慎処分になり、学年主任の先生に呼ばれて、高校教師である父親と一緒に指導室に行くことになりました。で、父が「すみません、私の息子が」と謝ったら、その先生が父の昔の教え子だったんですよ。親父が教え子に息子のことで頭を下げている。それを見た時に、「人間としてやっちゃいけない一線を越えたな」と。
それで2年生の秋に改心して受験勉強することに決めたのですが、ちゃんと授業も出てなかったので普通にやったら間に合わない。そこでどうしたらいいかいろんな先生に聞き回りました。
「高木が本当にやるのかよ?」と言いながら、お前がやるなら応援するよと言ってくれて。ただ、皆アドバイスがバラバラなんです。間に合わないから浪人しろ、でも富山には良い塾がないから東京へ行けとか、そしたら遊ぶからやめろとか。何が何でも国公立を目指せという先生もいれば、5教科間に合わないから3教科に絞ったほうが良い私立入れるのでは?という先生も。でもよく考えたら結局皆、自分が歩んできたキャリアを元に言ってるんですよね。だから、どれも正解だし、どれもマストじゃないなって思って、いちばん信頼する先生のアドバイスを聞くことにしました。
僕がいちばんグレてる時も親身になってくれた先生です。「高木くんは1年でも早く東京へ行った方がいいですよ」って。だから現役で東京に行こうと決めました。国公立はもう難しいけど、中途半端は嫌だから私立で1番を目指そうと。そうすると僕の中では慶應か早稲田。なんとなく僕は田舎者だし早稲田かなって。それから早稲田1本で行くと決めて猛勉強。で、奇跡的に受かりました。何をやりたいとか学びたいとか一切なくて、ただ教師である親父の面子を潰したくない。信頼してくれた先生に良い卒業の挨拶をしたい。決めたからにはやり切りたい。それだけでしたね。
早稲田のファッションサークルで、ものづくりとコンセプトづくりの日々
さわだ: 早稲田ではどんなことをしていたんですか?
高木: 早稲田に受験に行った時に、皆がめちゃくちゃオシャレだったんですよ。高校まではオシャレが唯一のアイデンティティだったのに、入る前に打ち砕かれた。高校と一緒ですね。それで何を思ったか、青髪に染めて入学式に行ったんです。そしたら、早稲田は新入生へのサークル勧誘がすごいんですけど、僕だけ誰からも声掛けられず(笑)。それでサークルに入りそびれて暇そうにしてたら、ある時、古着を着こなした明らかにヤバそうな奴に「面白いファッションサークルがあるんだよね、入らない?」と誘われ、1年生の終わり頃から早稲田大学繊維研究会に入ります。
そこは当時で60年くらい続いている、文化服装学院の子も参加してたり、パリコレブランドも生まれていたりするような伝説的なサークルだったんですね。僕のキャリアの出発点になりました。
そのサークルは、毎年最初100人ぐらい新メンバーが入るんだけど、1年以内に10人以下になるんです。なぜかと言うと、入会の動機って皆だいたい「なんかオシャレが好きだし」程度の緩やかなものなんだけど、ファッションショーをすることになったりして頑張ってアイデアを出すじゃないですか。そうすると先輩たちに「お前がやってることは、コムデギャルソンの五番煎じだ」とか「コンセプトは何?」とか詰められて、皆辞めていくんです。
で、アイデアが認められたら今度は「プロトタイプつくって来い」となり、服のつくり方も分からないのに、先輩を捕まえて聞いたり、生地を買ってきてパターン引いたり…という3年間だったんですよ。バイトをする暇もありませんでした。
さわだ: 新平さんはそれをやったんですね!
高木: そう。そのファッションショーもね、アメリカのニュース誌の『TIME』で毎年、パーソン・オブ・ザ・イヤーがあるじゃないですか。その2006年の表紙はパソコンで「You」って書いてあったんです。当時アメリカではYouTubeやSNSが出始めて、これからは一人一人が発信する時代だと。「ものづくりの民主化」とか「パーソナル・ファブリケーション*①」みたいなことも言われ始め、先輩たちが今までみたいな作家性の強いファッションではない方向を模索し始めたんです。
それで、自分たちの関係ある人、ビジネスマンからお年寄り、子どもまで、その人たちの日常生活の中に入り込んで観察して、その人に合うファッション自体を対話しながら考え、服に落とし込んでいく。そのプロセスをブログで公開しながら、ファッションショー当日はその人自身がモデルとして登場してライフスタイルを提案する、というのをやってました。
さわだ: それは面白いですね、YADOKARIにも通じるものがあります。
高木: 繊維研究会には本当に素晴らしい才能が集まっていて、中にはファブリックや糸まで愛するような作家的な解像度のメンバーもいました。彼らは本物のクリエイターだなと。一方で僕はというと、そこまで服自体に情熱を持てなかった。あくまでイメージづくりのためにファッションをやっていたわけで、「見られ方の編集」に興味があったんです。左手の影響ですかね。だからそのサークルでも最後の方は、デザイナーというよりもディレクターとか企画演出やコミュニケーションの部分から全体統括していて、そっちが向いていることに気づきました。
*①:マサチューセッツ工科大学のニール・ガーシェンフェルド氏が提唱した概念で、大規模大量生産へのアンチテーゼや、ものづくりに参画する人々の共同体形成といった政治的・社会的な意義が込められている。
核心を抽象化して一言で表現する力が鍛えられた
さわだ: 早稲田のファッションサークルでの日々から、どうやって博報堂へつながっていくんですか?
高木: 早稲田大学繊維研究会に夢中で全然就活してなかったんですね。つまらないサラリーマンになりたくないなとか漠然と思ってました。
たまたま地方から来た友人に泊めてほしいと言われて、聞いたら就活の合同説明会でした。そこで初めて博報堂という会社を知ったんです。「生活者目線で発想する」とか「SNSを使ってユーザーと共創する」みたいな話をしていて。それで「俺がサークルでやってきたことを仕事にしてる人がいるんだ!」と衝撃を受けました。それで自分たちの活動を話したら、面白がってくれて。そこからOB訪問してなんか勝手に運命を感じて、博報堂を第一志望にして就活したら、他は全部落ちたんですが、奇跡的に博報堂だけ受かったんです。
さわだ: 社会の中で「これが自分の1番だ」みたいなものを見つけたのが、ファッションからの企画やディレクションだった?
高木: ファッションサークルの時に、コンセプトのような、表現を抽象的に取り扱う議論は得意だなって分かったんですよ。先輩たちにかなり鍛えられたから。例えば、就活でグループディスカッションってあるじゃないですか。ああいう場で皆、自分の意見は言えるんだけど、それを統合的に抽象化して「要するにこういうことだよね」と言える人は少ないことに気づいて。就活って猛者がたくさんいてビビってたんですが、毎回「高木がいたからまとまった」となるので、得意なんだと悟りました。やってることはずっとコンセプトメイキングなんですよね。
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左手に障がいを持って生まれ、「人と違う」ことを意識し続けてきた高木さん。アイデンティティの揺らぎに怯えもがきながらも、ファッションとの出会いをきっかけにコンセプトメイキングの力が開花し、それがやがて「ビジョニング」にもつながっていったのかもしれない。
後編では、博報堂入社後から、3.11をきっかけに湧き上がった思いと独立、そして高木さんがこれから目指す世界について、さわだとの対話が深まる。