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YADOKARIについて

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コロラド州にあるこのエコキャビンは、120平方フィート(約11平方メートル)の小さな家で、持続可能な建築を実現するためのプロトタイプだ。

ヘンプ断熱材や再利用された外壁材、窓、ドアなどを使用し、地元のリソースを活用することで環境負荷を最小限に抑えている。

プロジェクトの目的は、限られた予算の中で、環境に優しい家を建設できることを示すとともに、建設業界が気候変動への影響を低減するための新たな手法を提案することだ。

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このキャビンの最大の特徴は、ネットゼロエネルギーを実現している点だ。キャビンが年間を通じて使用するエネルギーを、すべて太陽光発電などの再生可能エネルギーで賄う。また、カーボンネガティブな素材を多く使用。これは建設時に吸収されるCO2量が、排出される量を上回ることを意味する。設計と調達におけるこうした工夫により、建設業界が気候変動に与える負の影響を逆転させる可能性を提示する。

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主な断熱材としてヘンプが使用されていることも注目に値する。ヘンプは持続可能な建築材料の中でも特にメリットが多く、エネルギー効率や環境への影響において優れた特性を持っている。ヘンプは成長が早く、栽培に必要な水や肥料が少なくて済み、栽培することで土壌の改善やCO2の隔離にも寄与する。そのヘンプを使った断熱材は非毒性で、カビや有害物質の発生を抑え、優れた湿度調整能力によって室内環境を快適に保つ。

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これに加えて再利用された材料を用いることで、廃棄物を削減し、製造過程でのエネルギー消費も抑えることができるのだ。

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このように持続可能な素材やエネルギーを利用することで、長期的な経済メリットも提供する。初期投資は必要だが、エネルギーコストの削減や健康的な居住空間の確保により、将来的には費用対効果の高い選択になる。地域社会や地球全体に対する貢献を実感できる選択とも言える。

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持続可能な建築の未来を示し、ゼロカーボン・ライフスタイルを実現するための一歩として、広く普及していくことが期待されるキャビンだ。

人と自然がつながり合い、両者が生き生きと存在しつづけながら、地球環境を再生していく。タイニーハウスが、そんなリジェネラティブな住まいのあり方を営む一手段となっているのだ。

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YADOKARIは、複数台のトレーラーハウスを活用した新しい暮らしの拠点「YADOKARI VILLAGE」を立ち上げる。誰もが利用可能な新しい暮らしの拠点として、初の拠点である北軽井沢拠点を皮切りに今後日本各地に展開していく予定だ。

2024年9月、YADOKARI VILLAGE開発チームのメンバー4人が、北軽井沢拠点に設置するトレーラーハウス「MIGRA」のもとを訪ねた。ブランドの発表を目前に控えた4人は、MIGRAの中でどんなことを考えていたのだろうかーー。

前編はこちら>>

石橋: わあ、ゆったりできそう。ここでみんなでご飯が食べられたら最高だなあ。

西山: そうだよね、地元の美味しいお酒を取り揃えておきたいと思ってる。

伊藤: 目覚めて目を開けた時に、余計なものが視界にうつらないミニマルな心地よさがあるといいよね。

近藤: 空間の中に、オーナーさんの個性が垣間見える瞬間があると楽しそう。

これから宿泊してくださる方々の姿を思い浮かべながら、どんどん話を弾ませてゆくメンバーたち。

今回は、YADOKARI VILLAGE初の拠点となる軽井沢拠点や、このブランドのために開発したタイニーハウス「MIGRA」の魅力について迫っていく。

写真左から、伊藤(ブランドフィロソファー)、近藤(開発担当)、西山(オペレーション担当)、石橋(開発ディレクター)

深い森が暮らしのすぐ近くに。北軽井沢拠点の魅力

ーー北軽井沢拠点とはどんな場所なのでしょうか?

石橋: 北軽井沢の別荘地の中の、深い自然がすぐ近くに広がる場所に位置する、大切な人と上質な自然の中でお過ごしいただける場所です。

浅間山が見え、渓流が真下に流れている稀有なロケーションで、アウトドア体験とお部屋でゆったり過ごす時間のどちらもお楽しみいただけます。

ーー北軽井沢拠点を最初の拠点に決めたきっかけを教えていただけますか?

石橋: 地権者であるプリンスランドさんから「この場所を活用して、お客様に楽しんでいただける新しい魅力と拠点を作れないか」とお声をいただいたことがきっかけにあります。

この場所は崖地なので、建物を建てることができず活用できずにいた場所だったのですが、実際にこの場所を訪れてみて、森との距離が近く、自然の豊かさをダイレクトに感じることのできる素晴らしい場所だなと思いました。

基礎のいらないトレーラーハウスなら、そのような崖地にも心地よく過ごせる空間を作り出すことができます。この場所の豊かさを多くの方に楽しんでいただけるよう、YADOKARIがプロデュースしていくことに大きな意義を感じました。

ーー「大切な方と過ごす」ということがこの拠点の1つのテーマだと伺っていますが、どんな方をイメージして作られたのでしょうか?

石橋: 目を離すことのできない小さなお子様がいらっしゃる方、ペットがいる方など、従来のキャンプ場やグランピング施設など、自然の中で時間を過ごすことに不安のある方でも、安心してお過ごしいただける空間になるよう心がけながら開発を進めました。

僕自身がワンちゃんを飼っていることもあり、大切な人と過ごす拠点をイメージした際に、ペットが一緒でも安心して過ごすことのできる拠点にするということは絶対に欠かすことのできないポイントでした。

現在、ワンちゃんと過ごせるホテルが増えてきてはいるものの、リゾートホテルのような場所が多く、リードをつけずに一緒に自由に走り回ったり遊べるような プライベート感のある空間って意外と少ないんですよね。

施設内には、宿泊者の方が共同でご使用いただける広いドッグランを設置し、それぞれのトレーラーハウスの周囲にはフェンスで囲った専用の庭を用意しているので、ワンちゃんや小さなお子様でも、安心してのびのびと過ごすことのできる空間になっているのが北軽井沢拠点の大きな魅力です。

まるで『うろ』のよう。トレーラーハウス「MIGRA」の魅力

ーーYADOKARI VILLAGEには、YADOKARIの新しいタイニーハウス「MIGRA」をアレンジしたものを設置するのですよね。どんなタイニーハウスなのでしょうか?

石橋: 木質感が感じられること、あたたかい団らんの場を楽しめる広々としたリビングがあること、室内からも美しい自然の景色を楽しめること。以上3つの視点を大切にしたYADOKARI初の木造のタイニーハウスです。

森の中で過ごしているかのような心地よさを、トレーラーハウスの中で大切な方と分かち合っていただける空間となるように意識しながら開発を進めました。

幹太: MIGRAは、YADOKARIの他のタイニーハウスと比べても空間の一体感があるように感じますよね。ROADIE(YADOKARIのトレーラーハウスシリーズ)は1つの小さな空間の中に段差を設けて、リビング、ベッドルーム、キッチンなどと空間が仕切られているような感じがするけれど、ⅯIGRAはそれとは正反対な気がする。大切な人と一緒にいることが常に感じられるというか…。

西山: MIGRAは確かに、ベッド、リビング、キッチンが全部一直線だもんね。家というよりかは、「うろ*①」という言葉がぴったり。大切な人が何をしているかが常に目に入るから、会話がいつもよりもたくさん生まれたり、相手のことを気遣うことができるような気がする。例えば誰かが料理をしているときに、自然と手伝うようになったり、「今日は何にする?」ってメニューを一緒に考えたり…。

*①:木の内側に自然に穴の開いたもの。入り口が狭いものが多く、常に暗く湿っているため、多くの動物がすみかとして利用する。

近藤: 確かに「うろ」という言葉がすごくしっくりきました。一人ひとりが孤立することなく、みんなで一緒に時間を共有していることを感じられる空間ですよね。

私は今回のYADOKARI VILLAGEを通して初めてタイニーハウス事業に関わりました。イメージしていたものよりもあたたかいホーム感があることを感じましたし、空間そのものは広くはないけれど圧迫感はない、不思議な空間で面白かった。住んでみることで初めて分かる豊かさがあるのだろうなってとてもワクワクします。

デンマークでの体験から着想を得た空間デザイン

ーー今回は、タイニーハウスの中のインテリアにもこだわっているとお聞きしました。こだわったポイントを教えてください。

西山: 空間のデザインや家具の選定などは全て私たちが行っているのですが、中でも3棟それぞれが少しずつ違った風合いになるように空間をデザインすることにこだわりました。YADOKARI VILLAGEは、それぞれの施設に同じタイニーハウスが並びますが、各部屋に設置する小物やランプの色などを少しずつ変えていこうと思っているんです。

伊藤: 何度か訪れてくださる方が、その違いを楽しみしてくださったら嬉しいですよね。

西山: 本当にそう思います。以前訪れたデンマークでは、お家のカーテンがどんな時間でも開いていて、外を歩いていると、すごく寒い冬の夜でもお家の中に灯るライトのあたたかさが感じられたり、窓辺に並ぶものから住む人のセンスが垣間見える瞬間があったり。それぞれの住まいに個性やこだわりが感じられることってすごく素敵だなと思いました。

そんな暮らしの楽しみ方を知ってもらえたり、自分の人生に取り入れるきっかけになったらいいなと思っています。

石橋:人生…、すごくいいですね。みんなの人生が少しでも豊かになるようなきっかけを作れたらいいな。

近藤: オーナーさんと一緒に、それぞれの空間に色をつくっていくことができたらいいですよね。

目に見えるもの全てが愛おしいものになる。北軽井沢で体感できる幸せ

ーまもなくオープンとなる北軽井沢拠点ですが、訪れてくださった方にどんな時間を過ごしてもらいたいですか?

西山: トレーラーハウスならではの豊かな時間を、是非、みなさんのパートナーやご家族など大切な方と一緒に体験していただき、自分の人生を見つめ直したり、これから大切にしていきたい価値観を再確認していただけるような時間を過ごしていただけたらなと思っています。

先日、モデルさんと一緒に MIGRAの中で撮影を行ったのですが、その日のトレーラーハウスの中では、本当に心地の良いピースフルな時間が流れていることを実感しました。この小さな空間の中にあるのは、大切な人、素敵な家具、そして窓の外には雄大な自然。自分の目に映るもの全てが本当に愛おしいものだけになるんです。その場にいる方々同士がすぐに打ち解け合える雰囲気がありましたし、私たち自身もトレーラーハウスで過ごす時間に豊かさを改めて再確認できたような気がします。

あの日見たあたたかい光景が、3つのトレーラーハウスの中でたくさん生まれていくのだろうなと思うと本当に嬉しいです。

石橋: 宿泊してくださる方や、タイニーハウスのオーナーを担ってくださる方と一緒にこの場所を盛り上げていきながら、多くの方に足を運んでいただける施設にアップグレードしていけたらなと思っています。

伊藤: そうですね。YADOKARI VILLAGEを通して、多くの方が、今以上に豊かな暮らしを手にする一歩を踏み出せるよう、貢献し続けたいですね。

「YADOKARI VILLAGE 北軽井沢」開業を記念して、期間限定のキャンペーンを実施いたします!この機会に是非、ご体験ください!

 

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YADOKARIと共振共鳴し、新たな世界を共に創り出そうとしている各界の先駆者やリーダーをお迎えして、YADOKARI共同代表のさわだいっせいが生き方のコアに迫る対談シリーズ。Vol.3は、株式会社KOU代表取締役の中村真広さんだ。前編では、中村さんの少年期から場づくりの原点、建築やビジネスとの出会い、そしてツクルバ退任までを辿る。

中村真広|株式会社KOU 代表取締役(写真右)
千葉県千葉市出身。東京工業大学大学院建築学専攻修了。不動産ディベロッパー、ミュージアムデザイン事務所、環境系NPOを経て、2011年に村上浩輝氏と株式会社ツクルバを創業、19年に上場を果たす。18年、KOUを設立。21年8月にツクルバ共同代表を退き、取締役を経て退任。神奈川県相模原市藤野に移住し、感謝経済で回る未来の集落「虫村」づくりに挑む。著書に『場のデザインを仕事にする』(学芸出版社)、『自分とつながる、チームとつながる。:エモーショナルなつながりがつくる幸せな働き方』(アキラ出版)他。

さわだいっせい|YADOKARI 代表取締役 / Co-founder(写真左)
兵庫県姫路市出身。10代でミュージシャンを目指して上京し、破壊と再生を繰り返しながら前進してきたアーティストであり経営者。IT企業でのデザイナー時代に上杉勢太と出会い、2013年、YADOKARIを共同創業。YADOKARI文化圏のカルチャー醸成の責任者として、新しい世界を創るべくメンバーや関係者へ愛と磁場を発し続ける。自身の進化がYADOKARIの進化に直結するため、メンターとなる人に会うことを惜しまない。逗子の海近のスモールハウスをYADOKARIで設計し居住中。

中村さんが相模原市藤野で進めている、循環型の暮らしのコミュニティ「虫村(バグソン)」プロジェクト。敷地内にこの春完成したオフグリッド仕様の建物で対談を行った。雨水タンクやコンポストトイレなどを備え、屋根と一体化したソーラーパネルで発電した電力はテスラの蓄電池に貯めて室内からICTで管理できる。

大人の中で育った少年期。生徒会長で社会的使命感に目覚める

さわだ: 今日は未来のこともお聞きしたいんですが、その手前でどんな原体験が中村さんをつくっているのか、人生を変えた出会いや、中村さんの根底にあるものをまずは伺いたいです。

中村さん(以下敬称略): なるほど、ディープサイドですね。僕は二世帯住宅で祖父母・両親とひとりっ子の僕という、大人4人対子ども1人の環境で育ったんです。母方の祖父は校長先生まで務めた人で、祖母も親も教育には熱心だったし、父方の祖父も東大出身。幼稚園の頃から塾に行き、小学校受験をして、実家のすぐ近くの千葉大学附属小学校に入りました。

さわだ: 親はけっこう厳しかったんですか?

中村: というより教育系の家系で、勉強が身近に転がってたという感じです。習い事も一通り与えられ、Jリーグ世代なのでサッカーもやりましたけど、結局さほど才能がないと分かり、のめり込むまではいかず。でも勉強して良い点を取ると家族皆に褒められた。勉強が承認欲求を満たしてくれるからますますやるようになり、そのサイクルにハマって、気がついたら中学受験コースに乗ってました。

さわだ: 小学校の時はモテました?

中村: 後半戦で上がっていきました(笑)。勉強ができたのと、弁が立つ小学生だったので学級委員的な目立ち方をして。千葉大附属小では5年生から生徒会長の被選挙権が与えられていて、5年の時に手を挙げたら通ったんです。その時ちょうど阪神淡路大震災が起きて、このタイミングで生徒会長になったってことは、何か自分にできることがあるんじゃないかと思いました。初めて社会的使命感みたいなものが芽生えたのはその時かもしれないですね。

さわだ: 僕は姫路生まれだから震災体験者だけど、「えらいこっちゃ!」とは思ったものの、自分が何かしなきゃという視点は全くなかったなぁ。当時中1でしたけど。

中村: 生徒会長をやってたからというのもあると思います。小学生なので募金活動くらいしかできませんでしたが。

さわだ: 正統派中の正統派ですね(笑)

中村: いや、家の環境に身を任せていただけで、それがちょっと社会的意義に気づいたり、承認欲求とも交わったりしたという。いちばんの武器は勉強でしたが、それも危ういなと今は思います。「他律的」なんですよ、褒められるからやるというルートに乗っちゃってたので。たまたま受験に受かったから良かったものの、落ちてたら腐ってましたよね。

暗黒の開成時代、ギターと多様性に出会う

さわだ: それでも受かるのがすごい。開成中学って日本でも1番と言われる学校ですよね。

中村: 開成とか灘とかね。でもそこには本当にすごい奴ばかりいるんです。他律的に勉強してる僕なんて底辺。上には半端ない上の奴がいるのを見せつけられ、自分がよく分からなくなっちゃいました。サッカー部に入ってみるものの、勉強ができる上にサッカーも上手い奴がたくさんいるし、ゴールキーパーだったのでポジション争いに負けたら即ベンチだし。初めてでした、何やったってダメな自分。暗黒時代でしたね、ゲーセンに入り浸ってました。

さわだ: やっと友達になれそう(笑)

中村: その頃にギターも始めたんです。「ゆず」とかが流行り、弾いてみたいなと地元のギター教室に通い始めました。附属小も開成も受験で集まって来てるから似たような家庭の子ばかりですが、ギター教室で出会う仲間は本当のローカルの子で、やんちゃな子も含め、とても幅広かった。特定のコミュニティから解放されて「これが社会か」と感じました。

僕は開成だからと線を引かれるのが嫌で、地元の子とも仲良くなりたかったから、その評価軸に乗ろうと頑張りました。開成だったら勉強ができるとか一芸に秀でた奴が一目置かれるけど、地元のコミュニティでは、例えば近所のスーパーで真っ裸になれるかどうかで面白い奴と認定されたりする。そんなことをしているうちに、なんだかすごく「生きてる感じ」がしてきたんです。そんなふうに地元のコミュニティと、開成のコミュニティとを行き来してました。

さわだ: それをやれるってすごい(笑)。開成の子たちからはどう思われていたんでしょうね?

中村: どうでしょうね。開成の中でもバンドをやったり、運動会や文化祭の役職をいろいろ兼務したりして、そういう活動が好きなちょっと変わった奴だと認知されていたと思います。親もね、中学の頃は心配もしましたが、高校になると好きなようにやればという感じになってました。

ひとりっ子ゆえの独立志向。建築家に憧れて東工大へ

さわだ: 反抗期はどんな感じでしたか?

中村: 暴力的なことはしませんでしたが、僕は家ではずっと大人4人対子ども1人だったのが嫌だった。ひとりっ子で祖父母にとっては孫だから、いつも手厚くされる。子ども扱いされ続けるのが嫌で、早く大人になりたい、独立したいと思っていました。僕のメンタルモデルのコアは、子ども扱いされているが故に「自分は不十分な存在なんじゃないか」というバイアスが染み付いてしまっているのが特徴だと思います。だから大学1年で家を出ます。生活費も全然稼げないのにバイトすると言って。で、結局賄いきれず親を頼ったり。

さわだ: 東工大に入ったのは、建築をやりたかったから?

中村: そうです。高校時代に進路を決める時にけっこう悩んだんですよ。僕は幼少期から立体物をつくるのが好きだったんですが、中学で考古学や哲学を探求するのも好きになり、工学も哲学も面白そうだから、何か「思想」と「ものづくり」を掛け算するものはないかと探していたんです。そしたら黒川紀章さんを知り、建築家は思想家と紙一重だと気づいて。

さわだ: YADOKARIの最初のオフィスが中銀カプセルタワービル※①だったんですよ。黒川紀章さんは、建築物はもちろん思想も高く評価されていますよね。もう50年前からミニマリズムやノマド、モバイルハウスなどYADOKARIが言いたいことを全部言ってる。

中村: そうそう、すごくカッコいいなと。その頃、安藤忠雄さんもフィーチャーされていて、「思想」と「形」が交わる所が建築なのかと憧れました。

※①:1972年に黒川紀章が設計した集合住宅。メタボリズム運動の象徴的作品で、単身者向けの効率的で柔軟な居住空間を提供したが、老朽化により2022年に解体された。

場づくりの原点は地元のライブハウス

さわだ: 音楽はやめてしまったんですか?

中村: 音楽でプロを目指したいという地元の仲間もいましたが、僕は大学で建築学科に進もうと決めたので一旦やめました。でも、その頃出入りしていたライブハウスの店長が僕にけっこう影響を与えていて。「10代の時は皆だいたい音楽をやるもんだ。だけどずっと続ける奴はあまりいない。でもね、プロじゃなくても本当に音楽が好きだったら続けた方が楽しいよ」と言ってくれたことが、今だに心に残ってるんです。だからオッサンになった今、僕はまた音楽をやっている。

その地元のライブハウスが、僕の場づくりの原点。店長の結婚式もそのライブハウスで仲間たちが集まってやってたんです。10代の僕はそれを目の当たりにして心が揺さぶられた。いろんな人生がクロスしていく場って素敵だな、何かこういうライブハウスみたいな楽しい場をやりたいなって。それが原体験です。

NIKEとの出会いでビジネスに痺れる

さわだ: 東工大で建築家を目指した所から、なぜコスモスイニシアに?

中村: 僕は当時、若手建築家でオピニオンリーダー的存在だった塚本由晴先生に師事したくて東工大を目指したんですが、塚本さんの研究室に所属していた大学院生の時、NIKEと塚本さんのアトリエ・ワンが一緒に渋谷の宮下公園をリノベーションするプロジェクトを手伝うことになったんです。ある日、研究室に、明らかに東工大では見たことないような、ストリート感満載のイケてるNIKEのマーケティングチームの方々がやって来て、ものすごく目立つから学生たちもザワつくわけです。

塚本さんと仕事するために数億円の予算を持ってきて、宮下公園をスポーツパークに変える案件をポンと落としていくこの感じ、カッコいいな!と痺れました。ビジネスもクリエイティブも理解し、かつ塚本さんを選んで都市に仕掛けるプロジェクトを成功させようとしている、この人たちみたいになりたいと。その時初めて建築家じゃなくてもいいかもと思いました。

そういう仕事をするなら不動産ディベロッパーという選択肢があると知り、何社か受けてコスモスイニシアに入社しました。とにかく人が濃い楽しい会社で、そこが熱いなと思って。リクルートから派生してるから「お前は何がやりたいの?」みたいな風土もあり。でも半年しかいなかったんです。

カフェで起業するも1ヶ月後に閉店の危機

さわだ: 半年ですか?

中村: ちょうどリーマン・ショックが起き、大量に内定切りされた世代なんですよ。僕らは入社はできたものの、すぐに会社が事業再生ADRに入り、半年後に退社することになりました。新卒なのに退職金もいただいて。そのお金で、コスモスイニシアの同期だった村上浩輝と、もう2人の仲間と共に、池袋で小さなカフェを始めるんです。

僕も浩輝も転職して本業は別にあったけど、その4人でアプトという法人をつくり、学生の多いエリアなので、貸切できるラウンジカフェみたいなコンセプトで2011年の2月に始めました。ところが3.11が起き、予約も全部吹っ飛んで、開業1ヶ月で潰れるかもしれない危機。僕自身も3.11の翌々日くらいに肺気胸で入院することになり、余震が続く中、管につながれて、人生考えちゃって。

当時僕はミュージアムデザインの事務所にいたんだけど、浩輝に「辞めて、カフェの立ち上げとフリーのデザイナーでやって行こうと思う」と言ったら、彼も「俺も辞めるから一緒にやろう」と。それで僕の方が先に個人事業主としての「ツクルバ」を始め、半年後くらいに浩輝が会社を辞めたタイミングで法人として正式にスタートしました。

池袋のカフェはその間もなんとか生き延びて、途中からアプトはツクルバの子会社にして、一時は10店舗以上展開していたんですが、ツクルバの上場準備の時に他社に譲渡したんです。カフェはそういうふうに進化していきました。

日本を代表する会社をつくりたい。ツクルバ創業

さわだ: いよいよツクルバ創業ですね。始める時はどんなコンセプトだったんですか?

中村: 創業前のメモを見ると、「日本を代表する会社にしたい」とか「皆の自己表現を形にする会社でありたい」とか、半ば妄想みたいな抽象的なことが書き綴ってあります。でも、それはけっこう僕たちの判断基準になっている。

一つ目につくった池袋のカフェで、仲間内をクロスさせていっただけで勝手にコミュニティが生まれて混ざり合い、いろんなプロジェクトが勝手に発生していった。ライブハウスの原体験のように、人生が交差する場が小さいながらもでき始めたので、こういう場をもっともっとつくりたいねという思いから「ツクルバ」が誕生しました。

co-ba」でコワーキングも始め、それをきっかけにオフィスデザインを依頼されたり、リノベーションやプロデュースの案件も入ってきて、「企画不動産系の若手枠」みたいな感じでツクルバが認知され始め、楽しかったんですよ。でも、創業時のメモにある「日本を代表する会社にしたい」から見ると小さくない?と。

さわだ: 違和感があったんですね。それは創業して何年目くらい?

中村: 2〜3年目くらいですね。その時は上場もまだ考えてなかったですが、co-baに入居している同世代のスタートアップ企業は投資も受けながら急激に成長しているのに、僕らは今のままだと全然日本を代表する会社にならないなと感じていて。「成長曲線の角度が明らかに変わるような事業をつくらないといけないね」と浩輝と話し、つくったのが「cowcamo」です。その種ができた段階で資金調達に走り、スタートアップ企業らしくなって、そこからはめちゃくちゃ早かったですね。

会社が大きくなる中での葛藤

さわだ: 僕らも共同代表だし、一時期はYADOKARIもツクルバも同じような位置にいたのに急に手の届かない所へ行っちゃった、みたいな感覚がありました。

中村: cowcamoがベンチャー路線で戦い始めたのが大きかったですよね。VCからも資金調達して成長ルートに乗ってきて。一方で僕自身は葛藤もありました。ツクルバから初期のカルチャーっぽさが抜けていくと感じて、僕はそれに抗い、独自の予算を引っ張ってきていろんな挑戦をしていましたね。

今は「日本を代表する会社」にするやり方にも種類があるなと思うんです。経済規模を大きくする道もあるけど、今僕がやっている「虫村(バグソン)」みたいに、思想を凝縮して特異点を一つつくることでも影響は与えられるかもしれないし、僕はそっちの方が得意かもしれない。

さわだ: 上場は大変でしたか?

中村: もちろん大変でしたが、時代が中古流通・リノベーション主流になり、波にうまく乗れたし、数年前から仕込んでいたから先行者メリットも十分つくれました。

さわだ: 組織がどんどん大きくなる中で、中村さんが大事にしたかった思想みたいなものは一緒に広げていけましたか?

中村: そこは難しいなと思ってました。始まりは本当にワンチームで、「まだニッチなこのカルチャーを大きくしていくんだ!」みたいなインディーズ感があるじゃないですか。それが次第にメジャーバンドだと思って入社してくる人が増えてくる。僕はまだインディーズ感覚で「皆で祭りつくろうよ!」みたいな感じなのに、枠組みやマネジメントを求められるようになるとチューニングが合わなくなってくるわけです。

でも、それは当たり前のことで、もうそういう規模だったんですよね。その中でも自分を発揮できることを考え、僕がやりたいこともルールをつくって予算を取るなど、大人の振る舞いに変えていきました。僕自身も会社の変化に適応せざるを得ないだろうと。

一心同体だったツクルバから離れる苦しさ

さわだ: ツクルバとの距離を取るのが苦しくなかったですか? 僕はYADOKARIは我が子みたいなもの、一心同体なものだったから、組織が大きくなって自分から離れていくことにすごく苦しんだんです。

中村: 苦しいですよね、本当に一心同体。自分と相方で生んだ子どものような感覚。だからすごく苦しかったです。自分の人格とほぼ同一だったはずなのに、「ツクルバくん」が何か別の人格を帯びて、目指す人生が自分とは違ったものになっていく。法人という別の生き物が独り立ちしていくんだと感じて悲しくもありましたけど、そこはやはり分けるべきだと悟る瞬間がありました。

基本的に僕は、組織のルールで堅苦しくなるより、皆が自律的に自由にやったらいいと思っていて、初期の頃の、有象無象の集まりなんだけど何かフィーリングが合っている感じが好きなんです。でも上場し、200人規模になってくるとそうも言っていられない。予測できる未来への計画を実行し、事業と組織をマネジメントしなきゃいけない。起業家から、経営者になっていく変化が必要。それは理解しているけれど、自分の在りたい姿かと問われたらそうではない。それで悩み、退任したんです。

さわだ: 浩輝さんは納得できたんですか? 中村さんが外れることに。

中村: 浩輝に「俺はプロの経営者になりたいわけじゃないかもしれない」と正直に打ち明けたら、「上場後の様子を見ていて、そうじゃないかと感じてたけど自分からは言えなかった」と。「二人とも辞めて別の人が社長をやる道もあるけど、浩輝はどうなの?」と聞くと、「まさに今こそが自分のやるべきフェーズだと思う」と彼は言ったんです。浩輝はゼロイチも好きだけど、1-10、10-100も得意だから、上場していろんな関係者も巻き込みやすくなってからのフェーズで旗を振るのがいちばん楽しいと思います。

だから創業者二人でつくってきたツクルバはここでおしまいにしようと。共同代表という枠組みはリセットして、ツクルバ第2世代として誰が社長をやるかといった時に、浩輝という適任者がいて、「新たな覚悟で2代目社長に就任して俺がやりたい」と言ってくれた。だったらそこに託そう。共同創業の一人が辞めて、もう一人が残ったんじゃないことを皆にちゃんと伝えようと、その時話しました。

さわだ: 僕は共同代表という所やその役割に、リアルに上杉との関係が重なるから、めちゃくちゃグッと来ちゃいますね。

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多様性が交わるライブハウスが中村さんの場づくりの原体験。一心同体だったツクルバから、自身の在りたい姿に向き合い、悩み抜いた末に新たな道を歩むことを決めた。後編では、藤野への移住や「虫村」でつくりたい世界、敬愛する空海について対話が深まる。

後編へ続く>>

via: dezeen.com

場所にとらわれない自由な暮らしをグッと身近なものにしてくれるトレーラーハウスやキャンピングカー。

彼らが自由にしてくれるのは、住まいだけではない。教育、アート、地域コミュニティなど様々なプラットフォームを、より自由なものに変容させている。

今回ご紹介するのは、バウハウス・バスのプロジェクト。デザインの脱植民地化が重要なテーマとして掲げ、世界各地を周りながら、アートや教育の新たなあり方を提案しているという。

4都市を巡るバウハウス・バス

バウハウス・バスのプロジェクトは、バウハウスの設立100周年を記念し、2019年1月に行われた。

その目的は、バウハウスの理念を探求し、デザイン実践における新植民地主義的な権力構造に挑戦すること。ベルリンの建築家ヴァン・ボ・レ・メンツェルによって設計された15平方メートルのモバイルビルディングであるバウハウス・バスが、このプロジェクトの中心にある。バスはデッサウ、ベルリン、キンシャサ、香港の4都市を巡り、各地でワークショップや展示を通じて、地域コミュニティとの対話を促進した。

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小さな声に焦点を当ててつくられた空間

バスの内部には、展示やワークショップを開催できるスペースと、バウハウスの歴史に関する書籍が揃った読書室があり、訪問者はこの空間で学び合う。デザインの脱植民地化が重要なテーマとして掲げられており、プロジェクトは、現代のデザイン実践に埋め込まれた植民地的な態度に対抗することを目指している。特に、ヨーロッパ中心の視点が支配するデザインの議論において、グローバルサウスの声や実践が疎外されてきたことに焦点を当てている。

このツアーは、地域コミュニティとの関わりにも力点が置かれている。ワークショップやシンポジウムを通じて、遺産や社会正義に関する議論を深めることが意図された。バウハウス・バスは、従来のデザイン教育に対抗し、地域の知識と実践を優先する「アン・スクール」としての新しい教育モデルを提案したのだ。これは、確立された西洋の方法論から脱却し、協力的な学習体験を通じて参加者が自らの知識を広げる機会を提供することを目指すものだ。

via: dezeen.com

このプロジェクトは、デザイン実践と教育に内在する権力のダイナミクスについても探求している。誰が現代性を定義する権限を持つのか、そしてその定義が異なるコミュニティに与える影響について考察する。この観点から、権力構造や不正義、暴力といった大きなグローバルな問題に取り組むことを目指した。

バスは2019年1月にデッサウを出発し、ベルリンでの「100年バウハウス」のオープニングフェスティバルに参加した後、キンシャサ、そして香港へと向かった。各都市でのイベントは、地域の特性に応じて異なる内容が盛り込まれ、参加者がデザインと現代性の関係を自ら交渉する場を提供した。

via: dezeen.com

このプロジェクトが示唆するものは、バウハウスの遺産を再考し、デザイン教育の新しい可能性を探ることの重要性だ。ヨーロッパ中心主義に関する問題を掘り下げ、デザインの多様性を尊重し、グローバルな視点での対話を促進することによって、より包括的なデザインの理解が進むことが期待された。このバウハス・バスのプロジェクトは、デザインの未来を形づくるための重要な一歩として位置づけられている。

Via:
archdaily.com
dezeen.com

YADOKARIは複数台のトレーラーハウスを活用した新しい暮らしの拠点「YADOKARI VILLAGE」を立ち上げる。誰もが利用可能な新しい暮らしの拠点として、今後、日本各地に展開していくYADOKARIが今力を入れて手掛けているサービスのひとつだ。

そんなYADOKARI VILLAGEとは一体どんなものなのか。ブランドに込められた思いや、完成までの開発チームの軌跡を前後編でお届けする。

前編となる今回は、このサービスのブランディングを手掛けた伊藤幹太の想いをお伝えしよう。新宿に居を構えながらも、心を寄せる第2の拠点として、青森県十和田市へ時折訪れているという伊藤。馴染みのあるお気に入りの拠点を持つことの大切さを身をもって体感しているからこそ、人一倍想いをこめてこのブランドと向き合っているメンバーのひとりだ。

多拠点生活から移住まで。次の暮らしを築くための足掛かりに

ーーYADOKARI VILLAGEとは、どんな場所なのでしょうか?

YADOKARI VILLAGEとは、「あはひを暮らす」をテーマにした、誰もが利用可能な新しい暮らしの拠点です。

私たちYADOKARIは、創業以来、メディアでの発信やタイニーハウス事業を通してお金、場所、時間にとらわれない自由で豊かな暮らしの営みを模索し、提案し続けてきました。このYADOKARI VILLAGEは、そんなこれまでに追求してきた豊かな暮らしの在り方を表現し、皆さんと一緒に分かち合うために作った、YADOKARIにとってもずっと創り上げたいと考えてきた念願の場所です。

使い方のイメージとして、例えば、YADOKARI VILLAGEの周辺地域への移住を検討している方が、その地域に試しに滞在する手段として宿泊いただくというように、次の暮らしを築くための足掛かりとして使っていただいたり、もしくは、宿泊される方々が、YADOKARI VILLAGEを利用しながら初めての多拠点居住に挑戦したり、週末や長期のお休みの際に度々遊びに来てくださる別荘のような使い方をしてくださったり。この場所に来ることで心が安らぎ、何度も足を運んでもらえるような、ご自身の暮らしの一部のようにご利用いただけるといいなと思っています。

それぞれのタイニーハウスには、所有してくださる一般のオーナーさんがいて、その方にとってももう一つの家のような存在です。YADOKARI VILLAGEが今後広げてゆく拠点と、各地に設置されたタイニーハウスが、オーターさんや宿泊してくださる多くの人にとっての憩いの場となり、そこで過ごす人々の暮らしによい影響を与え続けられるよう、今後も力を入れて取り組んでいきたいと思っています。

自分の中にある多様性やこころの動きを見つめ、探求する場所に

「あはひ」は日本に古くから存在する言葉なのですが、様々なものの間に存在する空間や時間を意味します。

日常と非日常、都市と自然、刺激と休息など、対となる環境や価値観、体験がの狭間を行き来しながら暮らすことで、人生はより豊かになるという考えが、このテーマに込められています。

私たちは、すでに心地よさを感じている場所や親しみのある環境に身を置くことが多いと思いますが、そうすることで、心の中に生まれた新しい好奇心や、価値観、自分の新たな側面を心に閉じ込め、解き放つことができなくなってしまうことがあると思うんです。

私は、今現在新宿に居を構え、その場ならではのエネルギーの奔流や東京都内の様々な場所・文化に影響を受ける日々を過ごしています。新宿は、自分を変化させてくれる良い環境だなと思う一方で、無意識のうちに内省的な時間や大切にしたい感性を失ってしまう事もあるんです。

そんな折に触れて、自分にとっての大切な聖域として足を運ぶ場所が青森県十和田市にある十和田湖。そこにある風景、文化、人々に癒されるゆったりとした時間を過ごすことで自分を確かめるという習慣があるのですが、この行き来が自分の暮らしを豊かにしてくれている実感があります。

青森県十和田市にある十和田湖

「自分はこんな場所が合っている」、「こういうのが自分らしい」というように自分のアイデンティティとなる場所やコミュニティを一つにきめる必要はないと思っていますし、刺激的な日常を過ごしたいときもあれば、静寂な時間に心地よさを感じるときもある。そういった自分の心の中にある多様な側面や、心の動きを大切にすることが、自分らしい人生を歩んでいくために必要なのではないかと思っています。

YADOKARI VILLAGEでも、様々な地域での場づくりを通じて、自分の中に取り入れたい時間や価値観に触れ、自分らしくいられる時間をつくるきっかけにしてもらえたら嬉しいです。

YADOKARI VILLAGEが提供する3つの体験

–具体的にどんな体験が得られる場なのでしょうか?

「じゃあ、どうしたら自分らしく生きることが出来るか」ということを考えたときに、必要な体験が3つあると思っていて。それを「開放」「関係」「遭遇」の3つの体験とし、YADOKARI VILLAGEでは、これらの体験ができるような空間や仕掛けづくりを行いました。

まず1つ目は「開放」、精神的にも肉体的にも自分を開放することが大切なのではないかと思っています。

社会に与えられた役割や肩書きのようなものや、知らず知らずのうちに自分自身が自分に課してしまった「こうあるべき」という束縛や、囚われている常識から自分を解き放ち、自分にとっての心地の良い、ニュートラルな心身の感覚や状態を取り戻す空間になるよう意識しました。

北軽井沢拠点は標高1,100〜1,200mの高度に位置し、浅間山の山裾に広がる自然に囲まれた場所です。すぐ近くを流れる川のせせらぎやカラ松の葉が揺れる音など、季節折々の音が愉しめます。

そんな自然豊かな静寂な場所で、焚き火や、専用のヤードで満天の星空を眺めていただきながら、自分を開放するような時間を過ごしてほしいと願っています。

2つ目に大切なことは「関係」。他者との関わりを通じて、自分にとって大切な生き方や暮らしに気づき、それを一緒に守り合い、応援し合える仲間と出会える場にしていきたいと考えています。

大切な人の存在をいつでも近くに感じ、相手を気遣うことができたり、思い合うことができるのは、トレーラーハウスだからこそ。そんなかけがえのない時間を、木のぬくもりが包み込む小さな空間の中で過ごしていただき、そこで出会う気づきや大切にしたい価値観を、育み育てていくような時間を過ごしていただけたら嬉しいです。

3つ目は「遭遇」。好奇心を揺さぶり、新たな歩みを始めるきっかけや発見となるものとの出会いです。

心身が解放されて、大切な人とのあたたかい関係があり、安心感やほどよい自信を持つことのできる心地いい状況の中だからこそ、「自分ってこういう時間が好きだったな」、「こういうことがやりたいと思っていたんだよなあ」と忘れていた大切なものに気づけるし、安心感があるからこそ、何か新しい決断ができることもきっとあるはずです。

今回の拠点にはYADOKARIメンバーで探索し、地域の人を介してセレクトしたワイン、ビール、調味料、ミールキット等をご用意しました。各トレーラーハウスには、ミニマムなキッチンと冷蔵庫、調理器具もありますので、季節の移ろいを料理をすることで感じたり、地域の美味しい食材を愉しむことで、大切な人とのあたたかな「遭遇」があればと思っています。

上質な自然の中での時間を大切な人と。 北軽井沢拠点の魅力

–最初の拠点、北軽井沢はどんな場所なのでしょうか?

YADOKARI VILLAGEの最初の拠点は、北軽井沢の美しく、静かな自然に囲まれた場所に構えることになりました。広大な山の中で、川のせせらぎが聴こえ、心と体を開放することのできる本当に心地の良い場所で、まさしくYADOKARIが創業当時に思い描いていた豊かさを体感できる場所です。

この場所の心地よさを是非、多くの方に体感していただきたいと思っていますし、大切な人と豊かな時間を過ごすためにも、お一人で大切な自分と向き合う時間をお過ごしいただくのにも最適な場所だと思っています。ぜひ、多くの方に遊びに来ていただけたら嬉しく思います。
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前半では、YADOKARI VILLAGEに込められた想いや、大切な軸となるテーマについて伺った。後半は、YADOKARI VILLAGEに設置するYADOKARIの新しいトレーラーハウス「MIGRA」第1号のもとへ訪れた開発チーム4人の様子をお届けしよう。ブランドの発表を目前に控えた4人は、MIGRAの中でどんな時間を過ごしたのだろうかーー。

後編へ続く≫


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自然の中に、ミニマルなタイニーハウスをつくるとしたらどんな住まいがよいだろうか。

木の香りが漂う木造の建物?いつの時間も日光を取り入れやすい構造?星を見ながら眠りにつけるプラネタリウムのような窓?

せっかく自然の中に身を置くのなら、建物の中にいても、自然からの恵みやつながりを感じていたいものだ。

ニュージーランドにあるこのキャビンは、自然素材をふんだんに使用した心地よい住まいだ。

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15平方メートルのコンパクトな空間で、シンプルかつ洗練された生活を実現するために設計されている。小さいながらも収納や生活機能に優れ、自然素材を用いたデザインが心地よさを生み出す、効率的で快適なミニマルライフの提案だ。

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小さな面積ながら、空間全体が無駄なく設計されており、光や風を取り入れるための大きな窓や工夫されたレイアウトが特徴。収納はキャビン内に巧妙に配置されており、カンチレバー式のベッドの隣に2つの収納引き出しがあり、追加の収納スペースもベンチ下にある。これにより、日常の生活用品をすっきりと整理することが可能だ。

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キッチンにはアメリカンオークで作られたテーブルとベンチが備わり、機能性とデザインが融合した空間で、食事や作業が快適に行える。内装は合板を使用して温かみのある有機的なパターンを演出し、ダブルグレージングの窓にはマットブラックのアルミフレームが施されている。この素材使いがキャビン全体に落ち着いた雰囲気を与えている。バスルームは、合板製のバニティにブロンズ仕上げの器具が設置され、エレガントでオーガニックな質感が特徴。小さなスペースでも高級感を醸し出す。

限られた空間でも収納やレイアウト、素材選びの工夫により、快適で機能的な美しい生活を実現できるのだ。例えば世界のどこかに、自分の隠れ家の一つとして、こんなキャビンがあるのも悪くない。

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株式会社NEWPEACE CEOの高木新平さんをお迎えし、YADOKARI共同代表のさわだいっせいが生き方のコアに迫る対談。後編では、博報堂を経て、3.11を機に高木さんが「自分を生きる」ことを始めた瞬間や、これからやりたいことについて、さわだと語り合う。
前編はこちら>>

高木新平|株式会社NEWPEACE代表取締役CEO(写真右)
富山県射水市出身。博報堂から独立し、各地でシェアハウスを立ち上げ。ネット署名を活用し、「One Voice Campaign」を展開。ネット選挙運動解禁を実現。2014年NEWPEACE創業。未来志向のブランディング方法論「VISIONING®︎」を提唱。スタートアップを中心に様々な企業や地域のビジョン開発に携わる。その他、富山県成長戦略会議委員、株式会社ワンキャリア社外取締役など。起業家の思想と人生に迫るPodcast番組「インサイドビジョン」も配信中。

さわだいっせい|YADOKARI 代表取締役 / Co-founder(写真左)
兵庫県姫路市出身。10代でミュージシャンを目指して上京し、破壊と再生を繰り返しながら前進してきたアーティストであり経営者。IT企業でのデザイナー時代に上杉勢太と出会い、2013年、YADOKARIを共同創業。YADOKARI文化圏のカルチャー醸成の責任者として、新しい世界を創るべくメンバーや関係者へ愛と磁場を発し続ける。自身の進化がYADOKARIの進化に直結するため、メンターとなる人に会うことを惜しまない。逗子の海近のスモールハウスをYADOKARIで設計し居住中。

この日の対談は、高木さんが手がけた都内の伝統ある日本庭園の新ビジョン&事業発表会の後、館の一角で行った。

希望のない国への憤りに気づく

さわだ: 博報堂ではどんなお仕事をされていたんですか?

高木さん(以下敬称略): SNSを使ってソーシャルムーブメントをつくるような部署に配属されました。当時はまだまだマスメディア主導の時代で、SNSやりたいって新卒もほぼいなかったみたいで。

ファッションサークルの活動もそうですけど、大学の時に、村上龍さんの『希望の国のエクソダス』を読んで衝撃を受けたんですよ。中学生が一斉に不登校を起こして、インターネットを駆使して新たな世界を立ち上げていくという物語で、そういうことをしたいと思ってたんですね。

彼らは10代ながら独立国家をつくるんだけど、大人たちから何不自由なく育ったお前らがなぜそんなことをするんだ?と問われた時、主人公のポンちゃんが言うんです。「この国には何でもある。本当に何でもあります。だが、希望だけがない。」と。

まさにその通りだと思ってて。僕はゆとり世代で、「失われた30年」と呼ばれる時代をずっと生きてきて、この希望がない感じに言いようのない怒りがあった。

それで当時あまりやりたがる人がいなかった政治や公共系の案件に手を挙げて、そのネット戦略やクリエイティブを担当させてもらいました。先輩からも「お前、広告会社に来たのにCMとかやりたがらないの変わってるな」って言われてました。

高木: 原発関係のSNSにも携わりました。当時、フランスでエネルギー政策の議論がFacebook上で起きていて、日本でも、皆で議論をするプラットフォームをつくろうという案件だった。Facebookが日本に広がり出したばかりで誰も使い方も分からない中、僕がリードしたんです。

その頃は皆まだネットリテラシーも低いから、不都合なコメントが来たら「消せばいい」なんて担当者も平気で言っちゃう感じで。僕も共創することの可能性を感じてやってるので、「いや、そんなことをしたら意見の押し付けで、プラットフォームの意味がないですよ」と年配の方々とだいぶ戦ったんです。でも当時の僕には説得して押し通せるほどの力がなかった。そのプラットフォームは2012年の4月1日ローンチ予定だったんですが、準備を進めている最中に3.11が起きて世界中が原発の議論になった。その時、僕は大事な仕事をしているはずなのに、社会的理想をいろいろ曲げてしまったことをすごく反省しました。

自分の人生を生きるための決断

高木: それが序章で、その後の出来事が決定打になりました。3.11の後、北野武さんが「東日本大震災というのは、2万人が亡くなった事件が1個あったんじゃなくて、1人が亡くなった事件が2万個あったんだ。そういう想像力が大事だ」というようなコメントをされていて、本当にそうだなと。

その時、僕も何か東北のために動きたかった。メーカーであれば食料や物資を配ったりできるけど、コミュニケーションの会社は何ができるだろうと悶々としてました。メディア上で、被災者が全壊した家で写真や思い出のモノを探している姿を見ていたので、何かできないかなと。

当時、警察が死者の名前と住所をネット上で公開してたんです。そのデータを引用して、マップ上にお墓をつくり、そこに皆が寄せ書きや寄せ写真ができる「3.11メモリアル」というサイトを立ち上げました。

ただつくっただけでは広がらないから、せっかく広告会社にいるんだし、現地のメディアと組んで、被災地の人たちの心の拠り所になるようなプロジェクトにできないかと、社内で呼びかけたんですね。でもそれは難しかった。

そしたら企業として、そのサイトをやってる個人がいるのはリスクだという話になり、サイト自体も閉鎖する方向になっていった。押し問答の末、思わず「だったら辞めます」って言っちゃったんです。

入社して1年そこそこの話。でも僕は、もしこのサイトをここで消しちゃうと、自分の意志として始めたものが組織の論理に飲み込まれてしまって、自分の人生じゃなくなると思ったんです。今なら僕もいろいろ学んだし、会社が言っていた意味も考えも理解できます。でもその時は、どうしても自分の中で譲れない一線という感じがしたんですよね。

起業家の卵たちが出入りするシェアハウスで壁打ちの相手に

さわだ: じゃあ、何か次のあてがあって辞めたとか、起業しよう!と決意して辞めたわけではなかったんですね。

高木: そう。こんな性格だから貯金もしてないし、まず速攻で、当時住んでいたマンションを解約しました(笑)

さわだ: 住む場所がないじゃないですか(笑)

高木: うん。それでシェアハウスを始めることになるんですよ。

正確には始める前に一時、宮下という友達の家に居候していたんだけど、僕があまりにも暇だから「会社なんて辞めよう、辞めよう」と誘っていた。そしたら本当に辞めて(笑)、その時に立ち上げた会社が後に「ワンキャリア」という人材ビジネスになって。宮下が社長をやって上場までしましたけど、その最初の立ち上げ期を一緒に過ごさせてもらったのはとても良い機会になりました。今も株主で社外取締役をやらせてもらってます。ただその頃は、僕はそんなにビジネスに興味があったわけではなく、シェアハウスづくりが楽しくて、そっちに邁進していくんです。

さわだ: そうなんだ(笑)

高木:  居候していた宮下から、寝言と寝相がひどいと追い出されて、でもお金がないからシェアハウスしようと。僕のように3.11で人生考え直してた同世代の仲間を5人集めて六本木の古いマンションを借りたんですが、せっかくだからメディアにしようと思って、家の中の様子をネット配信し始めたんです。当時はニコ生とかUSTREAMとかが出始めてて。それとTwitterの相性が良くてけっこう面白がられました。いろんな人が遊びに来てくれる家になって、確か年間3000人くらい来てました。


さわだ: すごい人たちが集まってましたよね。

高木: ホットスポットでしたね。そんな中で当時、連続起業家として若い人の憧れの一人だった家入一真さんが面白がってくれて、しかもめっちゃ近所のマンションに住んでいて、毎日一緒に過ごすようになって。そのシェアハウスをその後「リバ邸」に変えて全国展開したり、家入さんや鶴岡くんらと「BASE」の前身となるサービスをつくったり、「One Voice Campaign」を立ち上げて、1年半ほどかけてネット上で署名を集めて、ネット選挙運動を解禁させたりして、好奇心のままに動いてましたね。

シェアハウスには起業家の卵みたいな人たちがたくさん出入りしていて、僕は暇だしずっと壁打ちをしていたんです。コンセプトを言語化したり、イメージを形にするのが得意だから、何十社ものスタートアップや起業のお手伝いをしてました。そこから何社も会社が生まれて上場していった。NEWPEACEでは、そういう会社とずっと一緒に仕事をさせてもらっているんです。

さわだ: その辺りから「何者でもない高木新平」ではなくなった?

高木: そうかもしれないですね。圧倒的にいろんな変な人たちとセッションしまくっていたので。あと、今もベースとしては企画とか裏方なんですけど、この時に人前で話すことはめちゃくちゃやりました。お金はなかったので、脚本も出演も自分という(笑)。でもその経験のおかけでステージの上に立つことに慣れていったんですよね。人前に立つか立たないかで見える景色は全然違うし、オーディエンス側ではなく演者側に立つという目線は、人生をだいぶ変えると思います。

人と違うことを恐れない。「Be different」の肯定

さわだ: ちなみに今は、生まれつき障がいのある左手をどう思っているんですか?

高木: 気にならないと言ったら嘘ですが、以前ほどコンプレックスではなくなりました。僕は、今は障害者手帳を持っていますけど、社会人何年目かまでは取得しなかったんです。認めたくなくて。小学校や中学校の頃はずっと「普通になりたい」と思っていました。でも日本史の教師だった父は、歴史上の変な人の話をたくさんしてくれたし、養護学校の教師だった母は、いろんな障がいを持った人にも区別なく接していて、両親から「人と違ってもいいんだ」と気づかせてもらったかもしれません。

上京してからは、海外の一人旅でかなり発想が自由になりました。また家入さんのおかげで、堀江貴文さんやチームラボの猪子さん、DMMの亀山さんといった、いろんな「different」な存在に出会う体験があり、左手のコンプレックスがどうでもよくなってきたというか、もっと「生きるスタンス」みたいなことが大事だと思うようになった。

僕が会社を辞めた時に、同期の仲が良かった奴に「なんで辞める決断ができたの? 」と聞かれ、「うん、俺は生まれながら人と違うからな」って答えた。それは才能とかではなくて、物理的に違うから、他の皆と同じように生きられなくて当たり前だと思ってると。

そしたら彼が「羨ましい。俺はマジで普通だから、俺もそういうのが欲しい」と言ったんです。驚きましたね。でもそう言われて「だから俺は人と違うことを恐れないのかもな」と思い始め、それを何かうまく回収できるなら、むしろ「Be different」になれと思うようになりました。

全ての人にビジョンを。未来があることで、過去が変わる

さわだ: この対談シリーズの裏テーマが「スーパーヒーローのコンプレックス」なんですよ。

高木: いいですね、家入さんともよく話してることだけど「コンプレックス is モチベーション」ですよね。揺るぎない強さがある。何か突出した原体験がなくちゃいけないという話ではないけど、僕にはそれがあったから良かったのかもしれない。

NEWPEACEの仕事で、卓球メーカーVICTASをリニューアルしたんですが、そこで日本代表のユニフォームやアイテム一式もプロデュースさせてもらいました。それも昔「卓球はダサい」と思われていたイメージを変えたかったからです。

今、富山県のブランディングや生まれ故郷の新湊の10年後のビジョンをつくる仕事をしているのも、富山時代の辛い思い出とか、早稲田に入った時に富山訛りとか、富山県を皆が知らなかったことがコンプレックスだったからです。それを良いものに変えていけば、自分の人生を肯定できるじゃないですか。

「未来があることで、過去が変わる」って、すごくうれしいですよね。僕は常々、全てのものはイメージ、物語だと思っていて、しかも物語は「因果」ではなく「逆因果」だと思うんです。つまり何かが積み上がっていってるのではなく、未来があることで過去の意味が変わる。卓球の仕事も富山の仕事も、僕の中では「過去の回収」なんですよ。人生の回収をして、肯定感を上げて、自分の不安定だった人生を取り戻している感覚がある。

高木: 僕は最終的には「日本の総理大臣のスピーチを書く」というのが人生前半の、50歳までの目標なんです。失われた30年と言われるのは日本に新しいビジョンが無かったからだと思ってるので、それをつくってみたい。後々「失われた…と言われた時代があったね」というふうにしたくて、それが僕の野望ですね。

さわだ: コンプレックスを持つのも悪くないってことですよね。

高木: そう。原動力ということですよね。痛みであり、エネルギーでもある。コンプレックスがある部分は、それについて誰よりも向き合い考えていると思うし、だからこそアイデアもあると思います。源泉という感じですよね。

あと近い将来やりたいことの一つは、障害者手帳をへラルボニーとコラボしてめちゃカッコよくしたい。勝手に言ってるだけですが(笑)

さわだ: 新平さんは今、幸せですか?

高木: 幸せですよ。というか楽しい。こんな僕でも何とか生きて来られたし、こういう生き方、こういう選択肢もあったんだねと、救われる人が一人でもいたら、生きててよかったなと思います。

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編集後記

「この国に希望を」と高木さんは願う。失われたなら、自分たちの手でつくり出すしかない。高木さんのクリエイティブには、苦しみや悲しみを反転させる力や、違いを光に変える力がある。

コンプレックスはエネルギーの源泉でもあると言う高木さんの生き方から、人間の奥底には「本当は自分を愛し、世界を愛し、肯定して生きたい」という、どうしようもなく強い願望があることを感じずにはいられないし、もしかしたら、それこそが希望なのかもしれない。

一人一人の自分を愛そうとする力、この命を肯定しようとする力が、きっとこれからの世界を変えていくのだ。

前編を読む>>

みどりが溢れ、遊歩道やいくつもの公園が整備された、穏やかな暮らしが根付く「町田山崎団地」を舞台に、団地に住まう人とまちの人、大人とこどもが入りまじり、心地いい日常を共にうみだしていく「まちやま プロジェクト」が、UR都市機構×YADOKARIの連携でスタートしました。

プロジェクトの第一弾イベントとして、8月2日(金)〜8月5日(月)の4日間で開催された「まちやま まるごと スコーレ」。広々とした敷地や多様な人が行き交う団地の魅力を活かし、暮らしの可能性を見つけていく実証実験です。今回はそのイベントの様子をレポートしていきます!

「まちやま まるごと スコーレ」とは?

「スクール(”学校”)」の語源となったギリシャ語の「スコーレ」には”余暇”という意味があると言います。

土地に根付いた知恵や、誰かの生きた物語。答えのない問い、余白の時間と対話。人々の暮らしが交差する団地には、学校や仕事場での学びだけではない、人生の大切な気づきがすぐそばにあるのではないかと感じます。

忙しない日々の中で少し立ち止まり、人生の「学び」や「余暇」をテーマに、おとなもこどもも入りまじりながら、団地でのこれからの過ごし方を実験するイベントが「まちやま まるごと スコーレ」です。

暮らしのそばで新しい体験ができる、個性豊かな出店の数々

4日間にわたって開催した当イベントでは、大きく3つの企画が準備されました。

・人生の学びや知恵が循環する「体験マルシェ」
・団地の名店会、近隣の桜美林大学とのコラボレーション企画
・音とリズムで感性を広げる「音楽ライブ」

まずは、ものづくりやアートのワークショップなどが集まった「体験マルシェ」。
今回のイベントのテーマである、”余暇と学び”にぴったりなワークショップを連日楽しむことができました。会場は町田山崎団地センター広場とぽんぽこ広場の二か所、お散歩や商店街でのお買い物がてら、気軽に新しい体験ができます。
その中から、いくつかの企画をご紹介します!

こちらは「テヅクリスト」による竹笛作りのワークショップ。好きな竹笛を選び、自分で絵柄をつけることができます。出来上がって吹いてみると、笛の長さや太さで音の違いが分かって面白いです。

笛は防災グッズにも活用できるので、こどもだけでなく、大人の方にも人気があるそうです。手を動かしている間に自然と生まれる雑談の中にも、小さな発見がありますね。

完成したらみんなで竹笛セッション!和やかな瞬間に立ち会えました。

にぎやかなポップが気になるこちらは、「藝術一座 Fiction / The End 」による似顔絵のブースです。

占いなど様々な要素を掛け合わせて作る、オリジナルの「開運 にがおえ」を描いてもらうことができました。会話を交わしながら、似顔絵と共にその人に合った言葉が添えられていく様子に、みなさん興味津々で立ち止まっていかれます。

長年、町田山崎団地にお住まいの方も、イベントのチラシを見て遊びに来てくださっていました。

素敵な仕上がりに、周りの人たちと共に「わぁ〜!」と歓声が上がります。墨と朱で書かれた似顔絵はお札のようで、不思議なパワーを感じます。

今を生きる自分の姿を、絵と言葉で表現してもらえる機会はあまりないので、気づいていなかった自分の一面に出会えそうです。

“自分と向き合う”といえば、対話ができる珍しいワークショップも。

人と会話をするときの癖や特性が分かる心理テストを交えながら、好きなテーマについて話すことができます。

客観的な意見を聞きたい話題を出してみるのも良し、ただ今の気持ちを話すだけでも大丈夫。普段の暮らしの中でも、近くにふらりと立ち寄って雑談ができる場所があると、なんだかホッとするな〜と思いました。

そのお隣には、レジンの小物を手作りできる「URETANO(ウレタノ)」のブースがありました。カラフルなパーツを見ているだけでも、トキメキが止まりません…。

紫外線で固まるというレジンの性質に着目して、夏の自由研究にする小学生もいるそうです。
こんなに可愛くて楽しい夏休みの宿題、大人も一緒にやりたくなっちゃいます!

こちらは「まるはち一箱古本店」による、ちゃぶ台を手作りできるワークショップ。DIYを始めたいという気持ちはあっても、場所に困ったり、工具が無いとハードルが高く感じたりするので、団地の広場を活かして気軽に体験できるのは嬉しいです。

店主の方も「団地のみんなで使えるベンチや、キエーロ(生ごみを分解する土を入れたゴミ箱)を作るのも良さそう」とお話してくださり、未来へのアイデアも膨らみます。

他にも楽器づくり、ペーパークラフト、万華鏡づくりなど、種類豊富なワークショップが連日開かれ、学びと発見の詰まった体験マルシェでした。

こども店長のいる駄菓子屋さんやキャンドルの灯る商店街、町田山崎団地の個性を活かした企画

「まちやま まるごと スコーレ vol.1」では、4日間を通して山崎団地名店会の方々とのコラボレーション企画も行われました。

1日目には団地の商店街にお店を構える「キャンドルStudio Lepta」による、キャンドルナイトが開催。こどもたちが自由に描いた絵をまとったキャンドルを並べて、優しい火のゆらめきを楽しむ参加型のイベントでした。

夕方頃から、イベントに参加したこどもたちと一緒にキャンドルを並べて準備をしました。楽しそうに自分の描いた絵をキャンドルに貼り、お店の前に並べる姿や、点灯までの時間を親御さんと一緒に心待ちにする姿が印象的でした。

絵を描くという形で実際にキャンドル制作に参加したからこそ、灯りが灯ったときの嬉しさや感動は大きいものだったのではないかと思います。

「これまでも、3回ほど地域で開催をしたことのあったキャンドルナイト。商店街の方と何かコラボレーションを出来ないかとお話をいただいた際に、是非またキャンドルナイトをやりたいと思いご提案させていただきました。

以前からお子様でも参加できるイベントを開催したいと思っていたのですが、火を扱うとなるとなかなか難しくて。

今回は、キャンドルを装飾する絵を自由に描ける仕組みにして、お子様も楽しめるキャンドルナイトを考えました。1対1の関わり合いを大切に、一緒に準備をすることで、イベントに参加していることをより深く感じていただけたと思います。」(キャンドルStudio Lepta 丹さん)

2日目は商店街のおもちゃ&駄菓子店「ぐりーんハウス」とのコラボレーションで、近隣に住むこどもたちが駄菓子屋の1日店長にチャレンジしました。広場に設置されたタイニーハウスでの、プチ出張出店です。

出張駄菓子屋さんの舞台となるタイニーハウスを覗くと、「いらっしゃいませ!」とこども店長の子が元気な声で迎えてくれました。

事前に応募してくれたこどもたちが1時間交代で、店長のお仕事を体験する企画です。

ぐりーんハウスの店長・除村さんのアドバイスを聞きながら、商品のディスプレイも自分たちで考えます。みんなとっても真剣です!

店長をしている間のこどもたちは、どこか誇らしげな顔をしていて、とっても逞しく見えました。

「今回初めての試みで不安な部分もありましたが、事前の応募もすぐに定員に達して驚きましたし、嬉しかったですね。

ぐりーんハウスはシェアキッチンの運営など、大人も楽しめるお店作りもしているのですが、やっぱり中心にいるのはこどもだと考えていて。創業から50年間、ずっと地域のこどもたちのオアシスで在り続けているので、それはこれからも守っていきたい精神です。

今回もこどもが主役に立って、駄菓子屋さんの疑似体験をしてもらえたので、ぐりーんハウスらしい企画を一緒に作れたんじゃないかなと思います。」(ぐりーんハウス店主 除村さん)

町田山崎団地のお隣、桜美林大学のファッションショーサークル「unlimited」のみなさんも今回特別にタイニーハウスで出店をしてくれました。舞台の衣装をつくるときの端布をつかったトートバックづくりのワークショップ。学生のみなさんの明るさとエネルギーもさることながら、イベント開始から終了時間をすぎるまで人が途切れない、大人気の企画でした。

また、4日間を通してUR都市機構のみなさんによる水遊びエリアが大人気!イベントのスタートとともに親子が集まり、こどもたちとスタッフの方々が楽しそうに遊ぶ姿が印象的でした。

青空の下で歌って踊って、穏やかな夕日に包まれたフィナーレ

最後にご紹介するのは、町田山崎団地センター広場の会場で行われた音楽ライブの様子です。町田周辺を拠点に活動されているミュージシャンを中心に、全部で7組のアーティストが会場を盛り上げてくれました。

1日目は相模原市出身のシンガーソングライター、かわぐちシンゴさんが登場。金曜日の疲れを癒し、穏やかな気持ちになれる45分間。日が落ちてゆく中で1日の終わりを感じながらのシンゴさんのライブはとても心地の良い時間でした。

「僕は普段音楽をする中で、日常の中の音(虫の鳴き声や風の音など)を楽しむことや、時に取り入れることなど、音楽の中に”余白”を作ることを大切にしてきたので、イベントのテーマや込められた想いに賛同する気持ちが強くあったんです。
そのため、お話を聞いた時に『是非演奏したい!』と思い参加させていただきました。」(かわぐちシンゴさん)

“その子の個性を引き出す音楽夫婦ユニット”として、楽器作りのワークショップや、作った楽器で一緒に楽しめる演奏会などを開いている、スイートハンドのお二人。誰でも参加できる遊び歌が始まると、自然とこどもたちが集まってきました。静かに耳を傾ける子、前に出て一緒に歌う子など、自由気ままな空気が流れます。

バラフォン( アフリカン木琴)DUO ユニット、ウォン カタ ウォノマのお二人は、アフリカ音楽に乗せて全身を使ったライブを披露してくれました。

二人が奏でるパワーが湧き出てくるようなリズムに合わせて、一緒に身体が動き出します。終盤にはみんなが立ち上がり、思い思いにダンス!陽の光を浴びながら、音に合わせて大地を踏み締める、夏バテも飛んでいってしまうようなパフォーマンスでした。

神奈川を中心に活動する、カホンと呼ばれる箱型の打楽器のアンサンブルトリオ、T.M.Rのパフォーマンスも圧巻!今回の「スコーレ(学び)」のテーマに合わせて、様々な打楽器を体験できる時間もあり、全員で一体となって演奏をつくる貴重な経験ができました。

センター広場を飛び出して、商店街やぽんぽこ広場まで盛り上げてくれたのは、故郷である町田を拠点に活動する、町田出港バンドのみなさん。獅子舞とチンドン屋が練り歩き、大人から子どもまで、思わず一緒になって踊りたくなるような心に残るパフォーマンスでした。

4日間の最後を飾ってくれたのは、町田山崎が地元だという夕日ビールさん。心に染み渡る歌声とドラムの音色に聴き入っていると、空には美しい夕日が。子どもたちがはしゃぐ芝生の広場で、大人がしっとりと耳を澄ませて音楽を楽しみ、踊りだし、フィナーレにふさわしい感動的なシーンとなりました。

まとめ

「団地に住む方々がお客さんとして来るだけじゃなく、出店者としてもどんどん参加できるようになると面白いですよね」

「子どもと大人がそれぞれ楽しめる機会が日常にあると、住みたくなりますね」

たくさんの人の力が合わさり、無事幕を閉じた第一回目のまちやままるごとスコーレ。それぞれの企画を楽しんでくださった地域の方々の姿、名店会や出店者のみなさんとの交流やアイデアの中に、団地の広場を活用するヒントがたくさん見つかったように思います。

太陽をいっぱい浴びながらみなさんと過ごした団地の夏。
長年愛されている夏祭りや防災イベント団地キャラバンなど、多くの楽しいイベントがある町田山崎団地ですが、団地ならではの暮らしの豊かさや人のつながりを感じられる日常の魅力を味わうことのできた4日間となりました。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました!

【第二回も開催決定!】
11/30(土), 12/1(日) の2日間、町田山崎団地ぽんぽこ広場にて第2回目となる実証実験イベント「まちやままるごとスコーレvol.2」を開催します。次回も個性豊かな出店や、音楽やワークショップが盛りだくさんなので、ぜひ足を運んでみてください!

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イギリスのデザインビルダーのバックヤードサウナは、スタイリッシュで機能的なデザインだ。地元の木材や羊毛断熱材を使用し、効率よく温度を保つ。160〜190度F(約71〜88℃)まで加熱でき、短時間で温まる。電気ヒーターや木製ヒーターのオプションもあり、オフグリッドでも使用可能だ。

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サウナはデトックスや免疫機能向上、リラクゼーション、血行促進などの効果があるとされる。コロナ禍により、健康への意識が高まり、旅行が制限される中で自宅でのリラクゼーションや健康体験を求める人々が増え、自宅の庭や裏庭に設置できる小型のバックヤードサウナの需要が急増した。

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このサウナの大きな特徴は、自然との一体感だ。大きな窓が設置されており、外の景観を楽しみながらリラックスできる設計になっている。個人の健康促進だけでなく、他者との交流や自分自身と向き合う場としてもうってつけだ。

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都市部でも設置可能で、周囲の視線を遮りつつもプライバシーを保ちながら自然とつながれる空間を提供している。設置は簡単で、庭のスペースに合わせてカスタマイズが可能だ。クレーンで現場に運び込むか、パネルとして送られてきて現地で組み立てる方式で、多くの場合、設置に特別な許可や計画は不要。庭にプールは難しくても、こんなサウナなら手が届きそうだ。

YADOKARI.netでは、このほかにもスウェーデンの「金の卵サウナ」や、リサイクル素材で作られた公衆サウナなど、世界の様々なサウナについてお伝えしてきた。

各施設が目指すのは、人々の心や身体を支える手段、地域の人の交流の場、そしてまちづくりの拠点やシンボルとしてなど、人々の心や暮らしに深く根付くものばかりだ。
そんなサウナの可動性が広く受け入れられ、日常の中でもっと気軽に利用できるようになったらーー。私たちの日々の暮らしや心身の状態は、よりよい方向へと変化してゆくに違いない。

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by Nicholas Green

音楽をやりたいと思ったら、楽器を買って音を奏でる。それは自然でありふれた行為だ。
言い換えると、楽器を買えるだけのお金がなければ音楽はできない。そう思っている人は多いのではないだろうか。

私たちの日常と共にある音楽だが、自分自身で音を奏でることのハードルは決して低いものではない。しかし世界には「楽器を買うお金がないのなら、自分たちでつくればいい!」と身の回りのもので音楽を始めた人たちがいるという。

今回は、身の回りにあるもので楽器をつくり、音楽を奏でる「ジャグバンド(Jug Band)」について紹介しよう。

楽器を買うお金がないなら自分たちで楽器をつくろう。ジャグバンドのはじまり

by Shelagh Murphy

1900年代初頭のアメリカ南部。
音楽をやりたいけれど楽器を買うお金がなかった黒人たちが、身の回りにある生活用品で楽器をつくり、音楽を奏ではじめたのがジャグバンドの始まりと言われている。

ジャグバンドの「ジャグ」”Jug”とは、ウイスキーなどの飲み物を貯蔵するための「瓶」のこと。瓶の口に息を吹き込む音を奏でていたことが由来なのだそう。ギター、バンジョー、マンドリンなどのベースとなる楽器に加えて、洗濯だらいに棒とワイヤーを張ってベースのように使うウォッシュタブベース、洗濯板をこすって音を鳴らすウォッシュボードなど、様々な手製楽器がある。

アイディア次第で、身の回りにあるものが何でも楽器になる可能性を秘めているのがジャグバンドだ。生活用品を楽器として使って演奏するのでお金もかからない。どんな環境や状況にあっても、身の回りにあるもので音楽を楽しむことができるのだ。

陽気で明るく、思わず踊りだしたくなるような音楽。みんなで音を奏でるジャグバンド

貧しく楽器を買うお金がなくても、音楽を奏でる楽しみを諦めなかった当時の黒人たち。
彼らにとって、音楽はとても大きな存在であり、単なる娯楽にとどまらない精神的な支えであったことが、ジャグバンドが生まれた時代背景から想像できるだろう。

ジャグバンドが生まれた当時のアメリカ南部では、アフリカから奴隷としてアメリカに渡る黒人たち、またはその子孫がほとんどだった。

ジャグバンドの特徴は、ひとりではなく、何人かと一緒に楽器を奏でることによって、より音が味わい深くなっていくことにある。
そのため、個性的な音を奏でる様々な楽器を演奏する人々によって、一緒に音楽が奏でられることが多い。

そして、ジャグバンドで演奏される音楽は、陽気で明るく、思わず踊りだしたくなるようなもの。みんなで音楽に合わせて踊り、楽しい時間を分かち合う。ジャグバンドはそんな場を簡単につくることができる。

▲アメリカ ケンタッキー州で行われたジャグバンドミュージックフェスティバルの様子

日常の中に豊かさをみつける。ジャグバンドの魅力

by Jade Masri

家の中を見てみよう。音が鳴るものが、身の回りにはたくさんあることに気付くかもしれない。
ジャグバンド奏者は、ホームセンターに行った時に、まるで楽器屋さんに行ったような気持ちになるのだという。

「どんな音が鳴るだろう」と普段と違う視点で身の回りのものを眺めるだけでも、日常が少し楽しくなりそうだ。楽器を買うお金を持っていなくても、音楽を奏でた当時の黒人たちのように、少し見方を変えると、自分の身の回りにあるもので楽しみをつくることができることに気付くだろう。

現代に生きる私たちは、日々を楽しんだり、何かを表現するためにはお金が必要だと思い込んでいることで、日々の暮らしを豊かにするヒントを逃してしまうことがある。お金で得られる豊かさはたしかに存在している一方、決してそれだけが全てではない。

音楽だけににとどまらずに、日々の生活や私たちの心を豊かにする方法を探してみよう。そうすることで、身の回りのもので音楽を始めた黒人たちのように、きっと私たちも、日常の中にある豊かさを見つけることができる。

Via:
acousticmusic.org
cmuse.org
centerforworldmusic.org
a-kimama.com
jazzdiscnote.jp

YADOKARIと共振共鳴し、新たな世界を共に創り出そうとしている各界の先駆者やリーダーをお迎えして、YADOKARI共同代表のさわだいっせいが生き方のコアに迫る対談シリーズ。Vol.2は、株式会社NEWPEACE CEOの高木新平さんを迎え前後編でお届けする。社会に新しい希望をつくり出し続ける高木さんが、いかにして「ビジョニング」に辿り着いたのか? パーソナリティのコアにあるものについて語る。


高木新平|株式会社NEWPEACE代表取締役CEO(写真右)
富山県射水市出身。博報堂から独立し、各地でシェアハウスを立ち上げ。ネット署名を活用し、「One Voice Campaign」を展開。ネット選挙運動解禁を実現。2014年NEWPEACE創業。未来志向のブランディング方法論「VISIONING®︎」を提唱。スタートアップを中心に様々な企業や地域のビジョン開発に携わる。その他、富山県成長戦略会議委員、株式会社ワンキャリア社外取締役など。起業家の思想と人生に迫るPodcast番組「インサイドビジョン」も配信中。

さわだいっせい|YADOKARI 代表取締役 / Co-founder(写真左)
兵庫県姫路市出身。10代でミュージシャンを目指して上京し、破壊と再生を繰り返しながら前進してきたアーティストであり経営者。IT企業でのデザイナー時代に上杉勢太と出会い、2013年、YADOKARIを共同創業。YADOKARI文化圏のカルチャー醸成の責任者として、新しい世界を創るべくメンバーや関係者へ愛と磁場を発し続ける。自身の進化がYADOKARIの進化に直結するため、メンターとなる人に会うことを惜しまない。逗子の海近のスモールハウスをYADOKARIで設計し居住中。

この日の対談は、高木さんが手がけた都内の伝統ある日本庭園の新ビジョン&事業発表会の後、館の一角で始まった。

「違い」を「価値」へ変えるファッションとの出会い

さわだ: 新平さんにも来ていただいたYADOKARIの10周年イベント「鏡祭」でパーパス「生きるを、啓く」を発表しました。これに本気で取り組んでいく一環として、僕らが共感を抱く先駆者の方々の「生き方のコア」みたいなものを伺って、YADOKARI文化圏の皆にも届けたいなと。誰しもトントン拍子で生きてきたわけではなく、光もあれば闇も抱え、何者でもなかった時間もありますよね。今日は新平さんのそんな人生のお話を伺えたらと思っています。

これまでの新平さんの人生の中で、自分にいちばん強い影響を与えた人とか、経験って何ですか?

高木さん(以下敬称略): 僕のアイデンティティにいちばん影響を与えているのは、間違いなく「左手」でしょうね。最近ようやく自分の中で整理がついてきて話せるようになってきたんですが、僕は生まれつき左手に障がいがあるんです。悟られないようにする所作が癖づいていて、すぐに人には気づかれないんですけど。

さわだ: 僕も全然気づきませんでした。

高木: 僕は富山県の新湊という人口4万人くらいの小さな漁師町に生まれて、姉が一人。両親は教師で、わんぱくな少年だったけど、勉強も運動もよくできて、順風満帆な少年だったと思います。クラスでいちばん騒がしくて、給食もいちばん早く食べて、ちょっと残しがちな子の牛乳をおかわりする、みたいな感じでした。

でも中学校では、いろんな歯車が狂い始めちゃって。いわゆる反抗期はなかったですけど、社会に疑問というか、ムカつき始めたのは中学からです。左手に障がいがあったから、夏に半袖半パンになるのがすごく嫌で。それに、中学では何かと“フォークダンス”とかあって。一度「障がい者だ」と認知されると、皆にとって僕はそういう存在でしかなくなってしまうんじゃないかと怖かった。だから別にいじめられたわけではないんですけど、フォークダンスのような手をつなぐイベントがあれば軒並み休んでました。

中学の途中からは見た目だけでも普通にしたくなって、シリコン性の義手をはめるようになるんです。ネットで調べて父親に無理言って京都の病院でつくってもらって。ぱっと見は本物そっくりなんです。ただ、義手を付けると手首の辺りに境目ができるんですね。それを見られたくなくてリストバンドをしていたんですが、人から見たら「なんでリストバンドしてるの?」って感じじゃないですか。半袖半パンじゃないと、体育教師からも「なんで長袖着てんだ?」って言われる。皆と一緒じゃないと突っ込まれるのが田舎なので。皆と同じになれないのに、その同調圧力がとにかく嫌でしたね

高木: そんな中で人生を変える転機がありました。その頃東京ではストリートファッションが流行り始めたんです。近所の友達の3つ年上のお兄ちゃんが感度高い人で、「お前これ知ってるか? Supremeって言うんだぜ」って見せてくれたロンTが腕にグラフィックあったりして、新鮮でカッコよくて。これだったら夏でも堂々と長袖を着れると思った。

それまで宝物だったレアなポケモンカードや遊戯王カードを全部売って、水産会社を営む友達の親父に頼み込んで、漁港で朝5時からホタルイカ詰めるバイトとかさせてもらって、稼いだお金でヤフオクでロンTを買いました。

僕はそれまで違いを誤魔化すために長袖を着ていたのに、「お前カッコいいな」みたいな周りの反応を見て、「そうか、ファッションは違いを価値に変えてくれるんだ」と気づき、ファッションにのめり込んでいったんです。

アイデンティティが揺らいだ高校時代

さわだ: 左手の障がいから、ファッションに傾倒していったんですね。高校時代はやっぱり受験勉強を?

高木: 高校は隣町にあった高岡高校という進学校に行ったんですが、入学式の日にちょっとアピールするつもりで髪を染めて行ったら、竹刀持ってるようなめちゃくちゃ厳しい体育教師に叱られて、動揺した状態で「入学おめでとうテスト」を受けて280人中275位だったんですよ。これまで小中ずっと1位だったから、ショックで学校に行きたくなくなり、数学の授業をサボったら数学についていけなくなり、1年生の頃はだいぶ保健室にいました。

しかも左手のことがあったので、中学まで続けていたサッカー部を断念したんです。高校になるとラフプレーも多くなる中で、左手の義手をかばいながらプレーなんてできなかった。どうしようかなって考えていた時に保健室に卓球部の人が来て、小学校の時に雪が降ってサッカーができない時に体育館で卓球をしていて市で1番になった成功体験を思い出し、義手でもトスは上げられるからと、突発的に卓球部に入りました。

そしたら卓球部は本当にスクールカースト的に最下層で。これまでサッカー部だったので自然とイケてるコミュニティにいたんでしょうね。第二体育館の隅っこで申し訳なさそうに練習する所から始まりました。勉強も下から何番目かだし、いろんな意味でアイデンティティが脅かされ、ちょっとグレてる感じでしたね。進学校の中のなんちゃって不良グループ的ポジション&保健室に入り浸ることでの差別化、によってかろうじて一命を取り留めてるみたいな状態でした(笑)

さわだ: それでも早稲田大学に合格したんですよね?

高木: 高岡高校は例年30人くらいは東大に行くような学校なんです。2年生になるとみんな受験勉強をし始めるんですが、僕は完全に取り残されていた。腐ってましたね。その結果、とある事件を起こしてしまい謹慎処分になり、学年主任の先生に呼ばれて、高校教師である父親と一緒に指導室に行くことになりました。で、父が「すみません、私の息子が」と謝ったら、その先生が父の昔の教え子だったんですよ。親父が教え子に息子のことで頭を下げている。それを見た時に、「人間としてやっちゃいけない一線を越えたな」と。

それで2年生の秋に改心して受験勉強することに決めたのですが、ちゃんと授業も出てなかったので普通にやったら間に合わない。そこでどうしたらいいかいろんな先生に聞き回りました。

「高木が本当にやるのかよ?」と言いながら、お前がやるなら応援するよと言ってくれて。ただ、皆アドバイスがバラバラなんです。間に合わないから浪人しろ、でも富山には良い塾がないから東京へ行けとか、そしたら遊ぶからやめろとか。何が何でも国公立を目指せという先生もいれば、5教科間に合わないから3教科に絞ったほうが良い私立入れるのでは?という先生も。でもよく考えたら結局皆、自分が歩んできたキャリアを元に言ってるんですよね。だから、どれも正解だし、どれもマストじゃないなって思って、いちばん信頼する先生のアドバイスを聞くことにしました。

僕がいちばんグレてる時も親身になってくれた先生です。「高木くんは1年でも早く東京へ行った方がいいですよ」って。だから現役で東京に行こうと決めました。国公立はもう難しいけど、中途半端は嫌だから私立で1番を目指そうと。そうすると僕の中では慶應か早稲田。なんとなく僕は田舎者だし早稲田かなって。それから早稲田1本で行くと決めて猛勉強。で、奇跡的に受かりました。何をやりたいとか学びたいとか一切なくて、ただ教師である親父の面子を潰したくない。信頼してくれた先生に良い卒業の挨拶をしたい。決めたからにはやり切りたい。それだけでしたね。

早稲田のファッションサークルで、ものづくりとコンセプトづくりの日々

さわだ: 早稲田ではどんなことをしていたんですか?

高木: 早稲田に受験に行った時に、皆がめちゃくちゃオシャレだったんですよ。高校まではオシャレが唯一のアイデンティティだったのに、入る前に打ち砕かれた。高校と一緒ですね。それで何を思ったか、青髪に染めて入学式に行ったんです。そしたら、早稲田は新入生へのサークル勧誘がすごいんですけど、僕だけ誰からも声掛けられず(笑)。それでサークルに入りそびれて暇そうにしてたら、ある時、古着を着こなした明らかにヤバそうな奴に「面白いファッションサークルがあるんだよね、入らない?」と誘われ、1年生の終わり頃から早稲田大学繊維研究会に入ります。

そこは当時で60年くらい続いている、文化服装学院の子も参加してたり、パリコレブランドも生まれていたりするような伝説的なサークルだったんですね。僕のキャリアの出発点になりました。

そのサークルは、毎年最初100人ぐらい新メンバーが入るんだけど、1年以内に10人以下になるんです。なぜかと言うと、入会の動機って皆だいたい「なんかオシャレが好きだし」程度の緩やかなものなんだけど、ファッションショーをすることになったりして頑張ってアイデアを出すじゃないですか。そうすると先輩たちに「お前がやってることは、コムデギャルソンの五番煎じだ」とか「コンセプトは何?」とか詰められて、皆辞めていくんです。

で、アイデアが認められたら今度は「プロトタイプつくって来い」となり、服のつくり方も分からないのに、先輩を捕まえて聞いたり、生地を買ってきてパターン引いたり…という3年間だったんですよ。バイトをする暇もありませんでした。

さわだ: 新平さんはそれをやったんですね!

高木: そう。そのファッションショーもね、アメリカのニュース誌の『TIME』で毎年、パーソン・オブ・ザ・イヤーがあるじゃないですか。その2006年の表紙はパソコンで「You」って書いてあったんです。当時アメリカではYouTubeやSNSが出始めて、これからは一人一人が発信する時代だと。「ものづくりの民主化」とか「パーソナル・ファブリケーション*①」みたいなことも言われ始め、先輩たちが今までみたいな作家性の強いファッションではない方向を模索し始めたんです。

それで、自分たちの関係ある人、ビジネスマンからお年寄り、子どもまで、その人たちの日常生活の中に入り込んで観察して、その人に合うファッション自体を対話しながら考え、服に落とし込んでいく。そのプロセスをブログで公開しながら、ファッションショー当日はその人自身がモデルとして登場してライフスタイルを提案する、というのをやってました。

さわだ: それは面白いですね、YADOKARIにも通じるものがあります。

高木: 繊維研究会には本当に素晴らしい才能が集まっていて、中にはファブリックや糸まで愛するような作家的な解像度のメンバーもいました。彼らは本物のクリエイターだなと。一方で僕はというと、そこまで服自体に情熱を持てなかった。あくまでイメージづくりのためにファッションをやっていたわけで、「見られ方の編集」に興味があったんです。左手の影響ですかね。だからそのサークルでも最後の方は、デザイナーというよりもディレクターとか企画演出やコミュニケーションの部分から全体統括していて、そっちが向いていることに気づきました。

*①:マサチューセッツ工科大学のニール・ガーシェンフェルド氏が提唱した概念で、大規模大量生産へのアンチテーゼや、ものづくりに参画する人々の共同体形成といった政治的・社会的な意義が込められている。

核心を抽象化して一言で表現する力が鍛えられた

さわだ: 早稲田のファッションサークルでの日々から、どうやって博報堂へつながっていくんですか?

高木: 早稲田大学繊維研究会に夢中で全然就活してなかったんですね。つまらないサラリーマンになりたくないなとか漠然と思ってました。

たまたま地方から来た友人に泊めてほしいと言われて、聞いたら就活の合同説明会でした。そこで初めて博報堂という会社を知ったんです。「生活者目線で発想する」とか「SNSを使ってユーザーと共創する」みたいな話をしていて。それで「俺がサークルでやってきたことを仕事にしてる人がいるんだ!」と衝撃を受けました。それで自分たちの活動を話したら、面白がってくれて。そこからOB訪問してなんか勝手に運命を感じて、博報堂を第一志望にして就活したら、他は全部落ちたんですが、奇跡的に博報堂だけ受かったんです。

さわだ: 社会の中で「これが自分の1番だ」みたいなものを見つけたのが、ファッションからの企画やディレクションだった?

高木: ファッションサークルの時に、コンセプトのような、表現を抽象的に取り扱う議論は得意だなって分かったんですよ。先輩たちにかなり鍛えられたから。例えば、就活でグループディスカッションってあるじゃないですか。ああいう場で皆、自分の意見は言えるんだけど、それを統合的に抽象化して「要するにこういうことだよね」と言える人は少ないことに気づいて。就活って猛者がたくさんいてビビってたんですが、毎回「高木がいたからまとまった」となるので、得意なんだと悟りました。やってることはずっとコンセプトメイキングなんですよね。

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左手に障がいを持って生まれ、「人と違う」ことを意識し続けてきた高木さん。アイデンティティの揺らぎに怯えもがきながらも、ファッションとの出会いをきっかけにコンセプトメイキングの力が開花し、それがやがて「ビジョニング」にもつながっていったのかもしれない。

後編では、博報堂入社後から、3.11をきっかけに湧き上がった思いと独立、そして高木さんがこれから目指す世界について、さわだとの対話が深まる。

後編へ続く>>

「トレーラーハウスでの滞在は、目的ではなく手段。私たちはそこに宿泊することの先にある価値を探求し、提供していきたいです」

そう話してくださったのは「8MATO」のオーナー斎藤さん。
八ヶ岳南麓、神社の境内に隣接した広大な敷地の一角にYADOKARIのトレーラーハウス「ROADIE」、「ROADIE mini」の2つがお目見えしました。今回は、山梨県北杜市のコワーキング施設8MATOをご紹介します。

「仕事×トレーラーハウス」の掛け合わせが生み出すこれまでにない価値を追求されている8MATOさん。果たしてどのような空間なのでしょうか。施設のオーナー斎藤さん、そしてデザインを手掛けた吉野さんへのインタビューをお届けします。

五感で季節を感じながら「働くを楽しむ」ワーケーション施設を

ーー8MATOさんとは、どんな施設なのでしょうか?

斎藤さん(以下敬称略):「アウトドアで働く』というワークスタイルを大切にした、森の中のコワーキング施設です。

澄んだ空気が流れる風の通り道、
耳をすませば虫の鳴き声が聴こえ、
八ヶ岳の大自然に包まれる。

そんな空間で、思う存分仕事に向き合える機会を提供しています。

敷地内には、森と一体となるようにデザインされたオープンテラスとカフェテリア、清潔なトイレやシャワーも完備した『水屋棟』、そして宿泊可能なトレーラーハウスが2棟ございます。神社の森の一画という非常に神聖な場所に建てられた空間で仕事をし、そのままご宿泊していただくこともできる施設です」

ーー8MATOさんは、なぜ「アウトドアで働く」ということに焦点を当てて施設を作られたのでしょうか?

斎藤:「私自身、7. 8年前にこの近くにある別荘を持ち始め、自然の中で仕事をすることの心地よさを身を持って体感したことがきっかけにあります。この地域で過ごしていると、呼吸が楽になりすっきりした気持ちになりますし、これまで以上に頭が冴え、夜は深く眠れているように感じます。こんな快適に仕事が出来る場所があれば、多くの人が来てくれるのではないかなと思ったんです」

「中でも私が作りたかったのは、仕事の疲れを癒すことを目的とした「観光」を目玉としながら、オマケに仕事をすることも出来る「ワ―ケーション」のような体験ではなく、快適に働くことを第一優先とした施設です。心地よい環境で仕事をし、第二の目的として観光もできる。そんなコワーキング施設を目指していました」

働きながら、建物と人が自然と溶け合う空間

ーー快適に仕事が出来る空間となるよう、具体的にどんな工夫をされているのでしょうか?

斎藤:「まず1つは、滞りなく仕事をしていただくための工夫です。

インターネットやディスプレイなど仕事をするのに必要な機材を出来る限り集めましたが、中でも力を入れたのは約2700坪の森の中、どこからでもお繋ぎいただける高速Wifiの設置です。

自然の中のコワーキング施設は各地にありますが、屋外では電波が悪くなってしまったり、オンラインミーティングに参加するために管理棟の中に戻らなければならなかったり…なんてことも多いですよね。そういった心配もなく、どこででも仕事が出来るのがこの施設の大きな魅力です」

吉野さん(以下敬称略):「私は、この森の中から都内でお仕事されている方とオンラインミーティングをすることがあるのですが『バーチャル背景ですか?』って聞かれることが頻繁にあって…森の中から会議に参加していることによく驚かれています(笑) 」

斎藤:2つ目は、この施設の中でより快適にお過ごしいただくための仕掛けです。

せっかく八ヶ岳に来ていただくなら、ここでしか味わえない美味しい食事を楽しんでいただきたい。そんな想いで農薬も肥料を使わずに、自然の力だけで育てた良質なお野菜を使用したランチなどをご用意しています。

また、8MATOは名水百選のひとつにも選定された「八ヶ岳南麓湧水群」の中にあるので、美味しいお水をご堪能いただけるよう、地下62mの井戸を掘っています。

斎藤:「そして最後に、自然と調和するこだわりの建物です。とても神聖なこの場所の雰囲気を壊すことなく、大地の力と建物が一体になるような建物を選んでいます」

8MATOの未来を見据えて誕生したトレーラーハウス

ーーとても大切に作った場所に、トレーラーハウスを置いてくださったのですね。どうして私たちのトレーラーハウスを置いてくださることになったのか、教えていただけますか?

斎藤:「元々はテントをご提供していましたが、それだけだと宿泊のハードルはどうしても高くなってしまうように感じていて。この森の自然と融合するように存在してくれて、どなたでも快適に過ごすことのできる空間が欲しい。そんな想いで、オーダーメイドで作ることのできるトレーラーハウスを選びました」

吉野:「中でもYADOKARIのトレーラーハウスを選んだきっかけは、YADOKARIのメディアを見て、ポテンシャルの高さを感じたことでした。

これまで海外のユニークな建築や空間についてたくさん紹介されていましたよね。そんなYADOKARIとなら、世界の情報を踏まえた上で、この場所の雰囲気に合うものを一緒に考えていただけるのではないかと期待しました」

ーーありがとうございます。時間をかけて一緒にデザインを考えていきましたよね。完成したトレーラーハウスを見て、どんな印象を持たれましたか?

吉野:「期待以上のものが完成し、とても満足しています。

通常、カタログを見たりオンラインでお話をしながらデザインを決めていく企業さんが多いと思うのですが、YADOKARIはそれとは全く異なりました。担当の方が度々北杜市まで足を運んでくださったり、設計担当の方がここに宿泊し、焚火を囲み酒を交わしながら話したこともありました。

8MATOのこれからの展望にまで寄り添いながら、それを実現するためにYADOKARIに出来ることは何か、とても親身になって考えてくださり、本当に素晴らしい方々だなと思いました。ただの営業としてではなく、人としての深い付き合いの中で私たちのことを理解し期待を越えるトレーラーハウスを作ってくださったのだと実感しています」

斎藤:「実際に製造現場を訪問させていただいたことも印象に残っています。私たちのトレーラーハウスが作られていくプロセスを見て、より愛着が湧きましたし、完成時は本当に感動しました」

右から順に斎藤さん、吉野さん。 製造現場を見学していただいた際の様子

トレーラーハウスをきっかけに、お金では買えない価値を生み出してほしい

ーーこのトレーラーハウスでのおすすめの過ごし方があれば、教えていただけますか?

吉野:「個人のお客様はもちろん、是非、企業やプロジェクト単位でお越しいただき、チームビルディングの場としてもご活用いただけたら嬉しいです。

昼間は、森の中で熱くミーティングをしていただき、夜はろうそくの灯りでお酒を飲みながら普段出来ない話をして、みんなで同じ空間の中で眠る。そんな、普段オフィスの中で仕事をしたりビジネスホテルに宿泊する出張のようなものでは味わえない、森の中だからこそ作れる時間を過ごしてほしいです。

トレーラーハウスでの滞在をきっかけに、仕事ができるかそうでないかや、偉い人か偉くないかというような会社の中で気づかぬうちに身につけてしまった鎧のようなものを脱ぎ捨て、人と人との関係性の中で生まれる、お金では買えない価値が創造される場になったらいいなと思っています」

仕事というエンターテインメントが生まれる場所に

斎藤:「グランピング施設やトレーラーハウスを活用した宿泊施設では、そこに滞在することが大きな目的となっている場所が多いと思いますが、8MATOにとってトレーラーハウスに宿泊することは目的ではなくて手段なんです。

アウトドアで働くことによって、こんなにも人の繋がりが深くなり、アウトプットの質が高まり、 心地良い時間が過ごせるんだってことを知っていただきたい。仕事というエンターテインメントを楽しむための手段がこのトレーラーハウスだと思っています」

ーー斎藤さんにとってのお仕事とは、エンターテインメントなのですね。

齊藤:「はい、仕事はエンターテインメントにもなり得ると思っています。仕事を楽しいと思っている人がもっと仕事を好きになったり、これまであまりやる気になれなかった人でも、仕事を少しでも仕事を好きになってくれたら嬉しいです。

もしかしたら、気持ちよすぎて仕事にならないかもしれないけど(笑) そんな体験をしてみたい人には是非、訪れてもらえたら嬉しいです」

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今回はオンラインでのインタビューとなりましたが、広大な森を背景にご参加いただいたお2人のお姿から、施設の心地よさを追体験させていただけたような気がします。そして心なしか、ROADIEの木の香りが香ってきそうな感覚も…。

「この場所の素晴らしさは来ていただければ分かっていただけると思います。まるで血液が入れ替わったかような感覚になれますよ」そう話してくださった斎藤さん。ここで過ごす時間は、滞在してみなければ分からない非日常的な素晴らしいものなのでしょう。

自然の中で過ごす時間を愛する方々、そして仕事をすることが大好きな方々が集い、豊かな時間を共に分かち合う。そんな調和が生まれる場所8MATOに、皆さまも是非、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

▼「8MATO」公式サイトはこちら
https://8mato.biz/

TINY HOUSE JOURNALタイニーハウスの“現在”を知る

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