愛の革命は、ふとん圧縮袋から始まる?フォトグラファー・ハルの挑戦
人間は、自分を取り巻く空間に境界をつくり出し、その内と外を器用に行ったり来たりする生き物だ。住居は隣近所との明確な線引きの上に存在しているし、芸術家のアトリエは日常から隔絶した神聖な場所とみなされる。こうした幾重の境界線によって「場」は制限されることになるが、逆に「場」に誰かを招き入れ、共有すれば、その世界を優しい愛で満たすこともできる。たとえば多くのカップルにとって、ベッドという空間は、二人の調和の源だ。
アートの世界でも、これまでたくさんのベッドが芸術として認められてきたが、最も有名なベッドの一つは、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの革命的なそれであったかもしれない。ジョンとともにラブ&ピースの代名詞となったオノだが、彼女は60年代から70年代にかけて、「Air Talk」という詩を発表している。それは、こんな一節から始まる。
“ It’s sad that air is the only thing we share. No matter how close we are, there’s always air between us.”
愛は男女を最短距離まで近づける。しかしどんなに近づいたとしても、人と人の間には空気が介在する。では、もしその空気という存在がなくなってしまったとしたら、二人の世界は一体どのように変わるのだろうか。
カップルをパッキングする
2011年、一人の写真家がまさにその問題と向き合っていた。以前から恋人たちの身体を撮り続けていたフォトグラファー・ハル(PHOTOGRAPHER HAL)は、《Flesh Love》というシリーズで新たな挑戦を始める。それは、カップルをふとん圧縮袋に入れ、文字通り空気を抜くことで真空状態を生み出し、二人の印象的な写真を撮るというものだった。まさに無言の真空パック。カップルたちは裸になったり独自のファッションをしたりと実にバリエーションに富んだ恰好で、もはや二次元か三次元か分からない空間に身をゆだね、一つの「彫刻」と化している。
ふとん圧縮袋というのがいかにも日本的で面白いが、なにせ酸素のない状況でまるごと人間をパッキングし、プラスチックバッグに張りつくリアルな肖像を撮ろうというのだから、事態は少々深刻だ。袋の中にいられるのは、たった10秒。その10秒の間に形を完成させ、シャッターを切る。
空気が抜かれ、身体の表面がビニルによって縁取られていくことで、それまで曖昧だった外界との間には明確な境界線が生まれる。こうしてふとん圧縮袋は、二人のカップルの一枚の肌となるのだ。
事物と身体をコンバインさせる
2014年には、カップルが日常生活で大事にしているあらゆるモノも一緒に袋に閉じ込めたシリーズ、《Zatsuran(雑乱)》を発表。各要素は互いに互いを支えあうように等価に組み合わせられており、それらの間は「着る」「着られる」という関係性で成り立っているように見える。
こうしてコンバイン(結合)させて出来上がった被写体が袋の中でどのような構図を保持しながら縮んでいくかは、偶発性に大きく左右される。顔がどのように歪み、事物がどのように張りつき、全体の輪郭がどのような形をなし得るか。それは実際に空気を抜いてみるまで分からないのである。
その昔、浮世絵師の歌川国芳は人や猫が入り乱れたユーモア溢れる寄せ絵を描いたが、21世紀の日本は今、果敢にも生身の人間をコンバインさせることで愛とは何ぞや、と問いかける。いかに均一化され、窮屈にみえる社会でも、爆発するほどの個性があり、愛がある。それだけは誰にも否定できない事実なのだ。