第3回:ジンバブウェでお金について考える|アフリカの暮らし
このお話が天国のムサに届きますように。
2008年1月。
私は南部アフリカのジンバブウェの首都ハラレにいた。
縁が縁を呼び、ジンバブウェの伝統バティック作りをしているショナ族のムサ一家にお世話になることになったのだ。
経済破綻した国ジンバブウェ
当時のジンバブウェは悲惨な状態だった。
大統領ムガベが白人を国から追放したことをきっかけに経済制裁に合い、経済が破綻してしまったのだ。
その頃のハイパーインフレは2007年にトルクメニスタンを訪れた時以上のものがあった。
国はチェックという紙を発行していて、(もはやお金ではないのだ)価値は毎日のように下がって行き、一ヵ月後には全く価値が下がってしまっているという次第だった。
考えてもみてほしい。20万円の給料をもらって、銀行に入れていたら翌月には2万円の価値に変わっているという風なことが起こっているのだ。
両替する金額も細かくしないと大損をしてしまう。
当然「闇両替」で両替するのが妥当で、銀行で両替などしようものなら全ての物がべら棒に高くなるという仕組みなのだ。
その大混乱はこれまでいろんな国を旅した私にとっても衝撃的だった。
何しろスーパーの棚にはほとんど何も並んでなく、ハイパーインフレでパンを一斤買うのにウン百万という札束が必要なのだ。お金を信用できなくなって当たり前の状況だった。
ムサとの出会い
ムサとの出会いは共通の友人のムビラ奏者を通してだった。
彼はとてもスピリチュアルなアフリカニストでジンバブウェの文化や音楽を(もちろんムビラも)とても愛していた。
素敵なジンバブウェのバティックに惹かれ、その手法を習いたいと強く想っていた。
そこへムサが現れたのだ。それは神さまが与えてくれた縁に違いなかった。
彼はあまり口数が多い方ではなく、でも芯のある話をいつも聞かせてくれる男だった。
ママのキャサリンとその子供たちと、その他にも何組かの親戚であろう家族が同居していて、子供がたくさんいるアフリカでは当たり前の大家族だ。
この家でバティックの作り方を学び、一緒に生活することになった時から、学ぶことはきっとバティック作りだけではないだろうと予感していた。
バティックのデザインのほとんどが動物やジンバブウェに伝わる伝統的な物をモチーフにつくられる。
本当に価値があるもの
一緒に生活することになったら「お客さん」ではなくなる。「家族」なのだ。
そのつもりで働く。そのつもりで食べる。そのつもりで笑う。
日の出と共に起き、夜は早く眠りにつく。アフリカの基本の暮らしだ。この暮らしがなかなか健康的で始めると体調がとても整うのだ。
ムサがある日、彼の村へ連れて行ってくれるというので工房の手伝いをその日は休み出かけることになった。
その日ムサは牛を一頭買うというのだ。
村へ着くとその生活の違いに驚いた。
ハラレの街中の混乱は嘘のように、彼らはのびのびと生活しているのだ。
ご馳走になったその皿には全て畑から採れたものが並んでいた。主食はとうもろこしを乾燥させて砕き、それを練りながら茹でるサザというジンバブウェ料理だ。もちろんそのとうもろこしも畑から採れたものだ。添えられた鶏肉は贅沢にもオーガニック地鶏だ。
その全ての味はスーパーで売られている大量生産されたそれとは全く違い、味わい深いのだ。
なるほど彼らには自給力が文化として引き継がれているのだ。その姿はとても力強い。
おいしいジンバブウェ料理を頂いた後、アフリカの伝統的な丸い円柱の藁葺き屋根の家を出ると、ムサが牛を見定めていた。
その姿を見ながら私は考えていた。
アフリカの民族の多くは放牧文化を持っている。そして野菜や主食のとうもろこしを育てる農耕文化も持ち合わせているのだ。
彼らがお金を使い始めたのは白人がこの地に着いてからの話。それまでは家畜が貴重な彼らの財産であったのだ。
バティックを売って稼いだお金を牛に代える。ムサが牛を買う意味がわかった。
牛の価値は遥か昔からずっと変わらない確実なものなのだ。経済混乱のこの時期のジンバブウェは、みんながアフリカのルーツ生活に戻ろうとしているところだったのだ。
経済という言葉
「経済、経済」。テレビをつけても、新聞を読んでもいつもこの話がつきない日本。
たしかに日本の経済の恩恵を受け、私たちは今やいろんな国に旅行に行け、いろんな国から物を手に入れることができる。
それでも経済は私たちの生命(いのち)より優先されるべきことではないのだと、あのジンバブウェの経験が教えてくれた。
お金、お金と日々私たちが必死で汗水流して働いているものは、紙と金属でできた人の生活を便利にするために作られたものに過ぎず、それが私たちの人生の価値を決めることは到底できないのだ。
それよりも本当に価値のあるものを人生の中で見出して行く方が人はもっと豊かに生きて行けるのではないだろうか。
焚き火のそばでのアフリカ教室
ムサ家では一日の仕事が終わると、みんな夕食の後は早々に寝てしまう。
ムサはよく私を庭へ連れ出し、焚き火をして庭から数本のとうもろこしをもいできて、上手にその火で焼いてくれた。
アフリカのとうもろこしは日本の甘いそれとは違い、野菜のような自然の甘みだ。
採れたては味が濃くそれを直火で焼くととってもおいしい。
そしてムサはいつものゆっくりした口調で話し始めるのだ。
私たちは先祖に守られていること。
自然と共に生きる大切さ。
自分のアイデンティティを知ること。
アフリカの伝統の大切さ。
この焚き火を囲んでとうもろこしを噛み締めながら行われるアフリカ教室で私はアフリカ人の魂と、それを通じて自分の日本人としての魂も考えさせられたのだ。
そしていつも明るいママからはアフリカ料理や、野菜の世話の仕方、子供の世話の仕方、手洗い洗濯のコツなどの女の知恵、教えてもらったことは数知れない。
ムサとの早すぎる別れ
南アフリカで生活し始めた最初の年、なんだかムサのことばかり考える時があり、電話してみることにした。
ムサの電話に出たのはママ キャサリンだった。
ママは「みんな元気よ。でもムサは病気なの。」と言った。しかも様態はとても悪いと言う。
予期してなかったことに心がざわめく。
でもムサが私と話したいと言ったので彼と話すことができた。
きっとこうして電話したことも、彼がそう仕向けたのかもしれない。彼はそんなスピリチュアルなパワーを感じる人だったのだ。
「元気にしてるか?」
「アフリカを楽しんでるか?」
「日本の家族は元気か?」
ムサはいつもの穏やかな口調で私に話しかける。
私は南アで生活していること、ジンバブエの家族が恋しいこと、日本の家族は元気なことなどを彼に伝えたけど、彼は電話をするのがつらくなったのか、ママに代わった。
いつも元気が溢れ出ていたママの声まで沈んでいて、あの明るい家族に起こっている突然の悲劇に心が痛かった。
それから数日して、私のケータイに「Musa passed away.(ムサは逝った)」とママからメールが入った。
心にポカンと穴が開いたようだった。
「なんで?なんでムサなんだろう?」と悔しさがこみ上げた。
ムサがよく言っていた言葉が心に蘇る。
「先祖は私たちを守ってくれている。だから先祖を大切にするんだ。」
ムサはショナ族の先祖の一人になった。
彼の家族は彼の存在をこの先もずっと大切にするだろう。
そして彼は彼の家族をいつまでも守り続けるに違いなかった。
お金について考える
ジンバブウェの滞在は私の考え方を大きく変えた。
それまではお金を物差しにしていろんな価値を見ていたけれど、そうではない物の見方が人間には必要だと学んだ。
お金は便利なツールで、それ以上のものではないのだ。
それをジンバブウェのこの大混乱の中で必死に生き抜くジンバブウェ人たちの姿から学んだのだ。
そして人は皆死んでゆく。
その時期は自然の流れで、誰も逆らうことができないのだ。その最後の日まで人間らしくいきいきと日々を生き、その知恵を子供に託すことが大切なのではないだろうか。
誰もが知ってのとおり、お金をあの世に持っていくことはできないのだ。
不思議なことにムサが亡くなってから、ムサを近くに感じるようになった。
それまでは実質的な距離で遠く感じていたのが、今はいつでも話しかけるコトのできる距離になった気がしている。
ムサ。私はあなたとの縁を神様に本当に感謝しています。
焚火のそばで教えてくれた人間として大切な知恵、私の中でちゃんと生きてます。
まいたばさぁ(ショナ語でありがとう)。